津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■茶臼山の図引きをした「宗氏」のこと

2022-12-10 12:57:07 | 歴史

 「御大工棟梁善蔵聞覺之控」のなかでは、善蔵は「茶うす山の図引きとなつたときや、岩野のお武家で宗久隆さんがこの役になんなはったばい」と記録させている。
この記録を書写した沢田延音の「民政記録」のコピーをみていたら、なぜか「久隆」としていることに気付いた。
この事は原本がそうであったのか、沢田がそうしたのかは判断がつかない。
久隆の名前が消されているのは、資料を調べると判る事だが、熊本城の築城がなされる時代にはすでに故人となっている。
「岩野のお武家で宗久隆さん・・」はこれは間違いなく、宗氏が長く植木の岩野嶽道祖城を菊池氏より預けられてこれを納めた。
宗氏は以前は本山城を預かっていたが、或る戦で家臣70余名を失いながら城を守り、その戦功に対しこの岩野嶽道祖城に移つたとされている。

さて、「茶うす山の図引き」をしたのは誰か、加藤家侍帳に(加藤)右馬允与力として「宗与兵衛‐百参拾石」とある。
鈴木喬先生はその著「肥後宗氏一族の盛衰」のなかで、与兵衛は久隆の子久隣は永禄12年に亡くなっており、孫・主水重頼だと比定されている。
鈴木先生は上記著書では、熊本城の築城に関しては触れておられないが、この与兵衛の可能性が高い。

その後、久隆の子久盛(久隣の弟)の子・太郎右衛門重能が隈府(菊池)に戻り、農商を営み菊池一の冨家となった。
そして有名な「嶋屋日記」八巻の内の七巻が一族によってもたらされた。

 そのご宗氏ゆかりの本山の地に、一族の善慶は浄勝寺を創建している。寛文年間の事だとされる。

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■立丁と立町

2022-12-10 06:41:32 | 地図散歩

 熊本では御存知の通り「丁」は武家の町、「町」は商人町である。
表題の「立(建)丁」とは現在の明午橋通りの北側(旧・井川淵町)なのだが、明午橋から国道3号線迄をいう。
終戦前、義伯父(母の姉聟)がここで柔道の道場を開いていた。私の生まれる前の話だが、昭和10年四段で第5回全日本柔道選士権優勝大会に優勝している。
後に講道館八段に上り詰めた猛者である。

                  松前顕義.jpg
私が仕事でお世話になった整形外科のU先生は自らも柔道をやっておられたが、義伯父がこの辺りで柔道場を開いていたとお話したら、まさしくU先生のクリニックがその場所だった。奇しき御縁だった。
藩政時代はまさしく下級武士の屋敷が軒を連ねていた。

 一方、立町(建町)は今もその名が残る。国道3号線と豊前街道が交差する四つ角から西の行き当たりまでの道筋である。
こちらは商人町、しかし裏手にまわると武家屋敷があり有名なお寺が並んでいる。
途中の赤鳥居の付け根には、人間国宝の堅山南風先生の生家がある。東へ向かうと米田家の菩提寺・見性寺、そして米田家下屋敷(熊本市立必由館高校)等がある。
更に先へ進むと、人の行き来を迷わせる七曲があり、40年ほど前に成ろうか、この七曲にあった親戚を訪ねたが、車の出入りがままならず、おおいに苦労したことが思い出される。今は国道3号線に分断されてしまっているが、この国道が開通した後の事だ。
しかし、この辺りはまだ古い町並みが変わらず、昔の風情を残している様に感じられる。

 

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