一元祖権左家門月宮院後妻石田源助と系図に有之候得共
右源助御侍中にも聞傳無之候付津崎江承候處浪人ニ而其前
以来源左衛門と心安入国之節も定而一同ニ源助も参遣■
哉と別権左衛門開所之上益城郡鯰手永木崎村ニ致居住至而の
冨家にて有之候由然とも後ニ子共なく致断絶候故今
石田何某と申儀存知候者も無之候
一二代目権左衛門正雲院戒名之事智雄院の石塔同姓中の
系図ニハ正雲院と有之候處手前の先祖代々之位牌并
宋岳寺の過去帳ニハ圖妙院と有之事不審後ニ圖妙院と
改り候哉夫ゆへ此度の系図ニハ両戒名を記ス
一同人妻之事津崎咄ニ而慥ニ相分候夫故歟前々よりの
系図ニ妻ト斗記何某娘妹を不記有之候付此度改候系図
ニハ妾と記子共の所ニハ妾腹と記候事
一三代目権左衛門傳宗院死去ハ至而急症之由岩越惣右衛門宅ニ而
魚毒ニ中り即死程之由按田咄有之候
一同人妻蓮池院元文ニ丁巳年三月十二日六十二歳ニ而疱瘡
煩死去の由寺ハ高麗門外長国寺ニ葬送有之遣候由其節
按田も野邊ニ出候由噂ニ付長国寺江罷越墓等致吟味候処
無相違石塔有之紋ハ朱三と四ツ目結の紋弐ッ付有之
註: この蓮池院は下津棒家の出だとされ、三卿家老有吉大蔵貞之の養女となり奥田権左衛門正方に嫁いだとされる。
これは、下津家系図にあり嫁いだ娘の名は「茂」だとされ、権左衛門はまだ権三郎と称していたらしい。
これらの関係を教えていただいたのは、下津家の分家である荒尾在住の下津さまである。
有吉家のご当主とも懇意にされているので大いに驚かれてご連絡いただいた。
墓石に刻まれた朱三の紋は先にもご紹介したが、四つ目結紋はまさしく有吉家の家紋である。