津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寝落ち

2022-12-19 19:45:45 | 徒然

 昨日の晩はヤフオクで狙っていた古文書があったのだが、入札時10時すぎ寝落ちしてしまい参加も出来なかった。
別にサッカーの優勝戦をTV観戦したわけではないのだが、時間を待ちながらYoutube等見ている内にウトウトことりと眠り込んだ。
目が覚めた時はすでに終了。これは仕方がない。最近熊本に特化しての古文書にはなかなか行き当たらない。
そこでテーマを決めて全国的なものを手に入れて勉強しようという魂胆である。
とにかく最近は夕食を取るとすぐ眠くなる。これは糖尿病の原因の糖質過多からくるものらしい。
オートミルや大豆ヌードルなどで随分食生活を改善したつもりだが、こむら返りはちょっ中だしまだまだ初めの一歩といった処。
ヤフオクの古文書関係の入札時間が、ほとんど10時過ぎに設定されているから、眠気と戦いながら頑張らなければならない。

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■熊本藩最後の無礼討ち

2022-12-19 07:00:41 | 歴史

 熊本藩最後の敵討ちは、明治4年(1871)の4月16日玉名市石貫のうつろぎ谷で、討手は、肥後藩士下田平八の妻・田鶴と一子恒平、弟の島崎真八、同じく中津喜平の妻・寿乃である。
討たれたのは、同じく肥後藩士の入佐唯右衛門、事件は文久6年(1861)4月6日、江戸細川藩の辰の口藩邸で起こった。
入江が下田平八・中津喜平に二人を殺して逃走した。

それから10年が経過して入江は京都でとらわれている。
そして国許へ護送される中、二人の遺族はこの地で入江を駕籠から出してくれるよう懇願してこれが認められて、敵討ちがなされたという。

その時、独断で便宜を図った役人こそが、後に神風連に参加した石原運四郎である。

 全く知られていないのが、最後の無礼討ちであろう。全く知られていないことを何故私が承知をしているかと言うと、私の身内だからである。
30年以上起居を共にした母方の祖母の義伯父だと思われる。祖母が亡くなる前に詳しく聞いておけば良かったと思うが、誠に残念である。
場所は浄行寺近くのあった「石屋さん」の前あたりだと聞いた。どういう経緯かはよく判らないが、何者かを無礼討ちにしたのだという。
すでに無礼討ちが禁止されていた時期らしく、捕らえられる前に切腹したらしい。
祖母が眠るT家のお墓にも埋葬されていない。以前10歳年上の従兄妹頭にその話をしたことがあるが、磧台小学校近くのお寺に埋葬されていると聞いた。
よく覚えていないが「源〇寺」と言うお寺だという。地図で確認すると「源空寺」というお寺がある。ここではなかろうか。
T家は母の長兄の孫の時代になっているから、この人物のことも多分知らないだろう、もう忘却の彼方の人となられた。
当時新聞に掲載されたというからいろいろ調べてみたが、いつの頃の事か判らず不発のままに終っている。
また、熊本県立図書館のフイルムを検索して探してみようかと思っている。

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