津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■s波+本震

2022-12-08 08:20:00 | 徒然

 まだ夜明け前、左の足に凄まじいこむら返りがきて悶絶してしまった。
地震でいえばS波のような予兆がある。本当にわずかの時間だがこれで目が覚める。
そして普通ならばベッドから飛び降りて直立するとなんとか予防できるのだが、今日は毛布が足に絡んで飛び起きるのが出来なかった。

熊本大地震の本震のようだとふと思った。ふくらはぎが破裂するのではないかという痛さ・・・
苦痛で悶絶しながら、なんとか伸びきってしまった足先を曲げなければならないと、毛布を反対の足で跳ね上げてベッドかに腰かける。
床に足をつけただけでは戻らない。立ち上がって体重を左足にかける。しばらく唸りながら立ち尽くした。
1~2分立ち尽くしたが寒い。足をかばいながら又ベッドに入った。揺り戻しがあるのではないかという不安が頭をよぎるが、うとうとしている内に寝入ってしまった。
しばらくすると反対の右足に違和感がある。今度はすぐ起き上がってベッドに腰かけて足先を90度にまげて治まった。
そのまま起床したが、左足の違和感はまだ残っており、3時間以上経過するが、歩くのも困難な程である。

糖尿病とは厄介なものだと、今にして自覚している。こういう目に合うと本格的に食事療法をしなければならないと思う。
オートミールをいろんなアレンジで食べているが、御世辞にもうまいものではない。
毎日インターネットで、糖尿病食やオートミルを使った料理のレシピを観るのが日課となった。

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■太守様という呼称

2022-12-08 06:56:28 | 歴史

 家臣が通常藩主をどう呼称していたのかという研究には未だ出会わない。
対外的には「越中守」としたのだろうが、内々では「お殿様」なのだろう。「上様」と呼んだとするものもあるが、これは将軍御一人のみであろうから違和感を感じる。
処が筆頭家老・松井家だけは実名でお呼びしたという。これは松井家が殿様を軽んじたわけではなく、忠興の六男・寄之が松井興長の養嗣子(4代)となったことによるらしい。忠利様・光尚様等とお呼びしていた。
これが8代・松井主水営之(ためゆき)の時代に自ら「太守様」とお呼びするようにしたという記録がある。
つまり営之がそう呼び始めたことにより、他の家臣も「太守様」と呼称するようになったのだろうと推察される。
これは、細川重賢公主導の下、宝暦の改革が行われて完成の域に入ったころ、実名でお呼びするのを憚ったものと思われる。

 宝暦の改革に当たっては、大奉行・堀平太左衛門+奉行衆と家老衆の間でいろんな確執があった。
営之は奉行・井口庄左衛門とかなり激しい論争があったらしく、その直後重賢に対し「庄左衛門を私へ拝領させられ下さる様」申しあげている。
重賢は可否をお答えならず席を立たれたが、営之は膝を進めて袖を引き懇願したという。重賢はこれも無言のうちに振り払い退席された。
そののち、庄左衛門をお招きになり酒杯を進め返杯を受けられた。通常返杯を受けるということはあり得ないことで、庄左衛門はすべてを悟り、御前を下がると切腹した。
今一人の家老、有吉大膳立邑も精神的に追い詰められたらしく、家来衆や菩提寺の僧が堀平太左衛門を呪詛するという事件が露見して蟄居せらてた。当事者たちが処刑されたのは当然だが、有吉家事態が減知させられるなどのことはなかった。
そのように宝暦の改革はいろんな軋轢があって為ったのである。
その成果は全国に重賢の英明がしれわたることになり。現在語り継がれる通りである。

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