どうも最近ボケがひどい。
細川家家臣・佐方家の事でちょっと調べ事をしようと思ったら、一生懸命志方家の史料を引っ張り出して調べていた。
流石に途中でおかしいと気が付き、思わず笑いが込み上げてきた。
佐方氏も志方も細川家の肥後入国に当たっては、三斎に随伴して八代に入った。
佐方氏は元諏訪部氏で、幽齋公の田邊城籠城の際には、三刀屋際監物孝扶が一族を引き連れての援軍と共に、総勢500人の軍勢で三成の15,000人を引き付けた。
佐方与左衛門も一族の者として三刀屋氏と行動を共にした。
禁裏の周旋により幽齋は田邊城を開城し、忠興の関ケ原に於ける勲功や幽齋の働きを含めて、忠興は豊前・29万石の太守となる。
豊前に於いては三刀屋氏もそれなりに遇されたが、大名としての立身を夢見た身として、ついには細川家を退去することになる。
一族の佐方氏は細川家に残った。与左衛門は三斎について八代に入り1,000石、嫡男は後宇土細川家に仕えて家老職を勤めた。
本藩にのこったのは二男・長左衛門である。300石取りで8代にわたり明治に至った。
ご子孫で郵政政務次官を歴任、その後ふじ自動車工業の副社長を勤められた、佐方信博氏は一族の記録「つづら文から」という自家版の著書を発行されている。
志方氏は赤松則祐五代孫・志方城主志方右衛門尉・繁広が天正六年織田信忠に攻められ落城・戦死した。
初代六助・之吉は2歳であったが、乳母に守られ脱出、縁者である丹波の赤井悪右衛門方に連越し、後丹後国長生院という寺で育ち17歳の時細川忠興に仕え、高麗陣にもお供し深手を負った。
関ケ原・大坂の陣にも出陣、その後は忠興と共に豊前入り、細川家の肥後入国に伴い三斎に随伴して八代に入った。
その嫡男が半兵衛元政(之政)、父に伴われて大坂陣に出陣首ニの高名をあげた。
八代にて1,000石、天草島原の乱に於いては、細川立允に従い出陣、当時京都にあった三斎に対し戦況を報告し続けた。
「志方半兵衛言上之覚」である。三斎死去後、光尚に仕えた。
半兵衛二男を初代とする分家(志方軸人家)があり、2代目半兵衛之経は寺尾藤次の子で「二天流」師範となつた。代々二天流に関わった。
佐方氏も志方氏も、細川忠興(三斎)と深い関わり合いをもった。三斎の「八代藩」構想はその死により潰えたが、家老村上氏と共に三斎を盛り立てた。