津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「奥田権左衛門家由來記」を読むー1

2022-12-12 06:56:49 | 史料

 奥田権左衛門家の初代は伊丹隼人正朝明の二男・加賀山源左衛門政房、長兄は加賀山隼人正興良、細川忠興に仕えた高名な切支丹信者だが切支丹禁教令がでて再三再四忠興から棄教を進められたがこれに従わず、ついには誅伐された。
娘・りょうは小河原玄也に嫁ぎ、これも家族や下女など一統14名が誅伐された。もう一人の娘は、後藤又兵衛の息・又一郎に嫁いである。
政房の長兄が平兵衛正照これは仕官せず、二男左大夫政英は後にルソンに渡っている。三男が主馬可政これが政房の跡を継いだ。
四男が権左衛門正慶で母方の姓を奥田を名乗っている。正慶を初代として4代目の権左衛門正英の代に至り家来を切り殺すという事件が起こりこの家系は断絶した。天明四年に至り一族の奥田正省房辰なる人が、権左衛門家の歴史が埋没することを憂い、かっての家来などに聞き取りをして記述したものである。絶家した家の詳細が知れるのは大変稀であり、興味深い史料といえる。

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    奥田権左衛門正英代に家禄断絶ニ付右先祖以来附族
    の忌日葬寺の事同姓中の家記系図等も委敷
    知さる故天明三年津崎仁右衛門此仁ハ権左衛門代家司役水野孫三二男ニ而津崎何某と申者の
      養子になり今ハ御擬作高被
下置御役人なり按田壽助此仁は権左衛門代若黨相勤其後御奉公被召出諸役人段迄ニ立身に而
      今ハ休ニ成居候
此両人より外ニくわしく存知候もの有之
    間敷と右両人江度々罷越咄承候趣記スものなり

   一元祖権左衛門月宮院豊前より御當国ニ被遊御入国候節
    被為拝領候屋敷ハ高田原通り丁角今有吉益之助
     屋敷也御厩裏東角三代目権左衛門傳宗院迄居住有之候處
     病死の節嫡子権三郎舜惶院二歳にて直ニ家督難成

     御知行當前の御扶持方被下候ニ付屋敷被召上此屋敷は安永七年戌七月廿九日
     大火候前迄ハ破風其外玄関の上塀の瓦なそにも朱三の紋残り候由八木田惣右衛門咄下屋敷ハ手取通り丁の横丁
     今ハ林弥平太屋敷也東隣関只吉屋敷西隣魚住源大夫屋敷此下屋敷も一同ニ
     被召上尤下屋敷にて有之内は家司役水野孫三其外
     家来中致居住候由壹人之家司役城吉兵衛ハ上之屋敷の
     南ノ方ニ別門を明ケ別家ニ致居住之由右上下屋敷被召上候
     ニ付水野孫三は高麗門外ニ地子屋敷を借り引移候由右之
     通上下の屋敷被召上候ニ付奉願高田原御相撲小家脇ニ而
     平野太郎左衛門病死預上屋敷嫡子十五歳未満ニ付被召上拝借ニ而権左衛門
 
     正英之引移此名乗を今迄知レ不申候処清崎仁右衛門ゟ承ル家來中も引移候處  

                 

 

 

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