津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■遊行上人熊本入りは何時?

2023-02-17 08:49:56 | 熊本

 随分以前にも書いたが、遊行上人が熊本入りされた際、熊本では喪中であったため、侍(知行取)はすべて元結を切り、月代も剃らずにいたので、そんなむさい姿で上人の熊本入りをお迎えするのに大いに躊躇したという話がある。

「年表稿」をよく読んでみると、正徳四年十一月十二日に細川綱利が江戸白金邸で亡くなり、十二月廿七日遺骸が熊本に到着し妙解寺に葬られた。
そして、正徳五年には確かに遊行上人が熊本入りされているが、これは五月の事で、一月ばかり西福寺に逗留されて八代へ向かわれたとある。
半年ばかりのタイムラグがあり、当初の話としてはつじつまが合わない。

 もう一つ、正徳二年の記録では以下のような記録が残る。
「8月11日、高瀬町願行寺、遊行上人宿寺とす」とあり、度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(13)には次のような記録が残る。        


       四五五
         同年游行上人巡御國達

      一遊行上人明後十七日高瀬出立ニて、熊本宿坊阿彌陀寺へ    
       着之筈ニ付、御曲輪宿坊迄之道筋屋敷/\掃除等有之、
       形儀桶は被出置ニ不及趣夫々相觸候様、受場廻之足輕え
       及達候、此段為御存知申達候、道筋之書附左之通
         出京町口より本町筋、京町氏家仁左衛門屋敷前、新堀   
         御門、長岡助右衛門殿屋敷下御門、田中典儀屋敷前よ
         り冠木御門、小笠原備前屋敷前、法花坂より一丁目前、             冠木御門→住江御門か
         三丁目御門より細工町筋、阿弥陀寺へ参着之筈ニ候     
          以上

 ところが、この時期どなたかが亡くなり喪中だという記録もない。

 一方、寛政のころにも熊本入りされているという事を知り、「年表稿」を数年分調べてみると、寛政7年3月15日に「遊行上人高瀬発阿弥陀寺に入る、25日江戸へ立つ」とある。なにかしら関連する記事はないかとWEB検索をしてみたら、「八代市の近世浄土宗寺院・荘厳寺の建築的特徴」という論考が有り、これによると25日に遊行上人一行は荘厳寺を訪ねていることが判る。荘厳寺の図面が残るが、その折に制作されたものだろうという見解である。
年表稿に25日に「江戸へ立つ」の記述は正確ではないことが判る。
しかし、この年とて何方かの喪中だという事は伺えない。

 遊行上人の全国行脚については、「遊行日鑑」という 圭室文雄氏の編著書が世に存在するが、熊本県立図書館はこれを所蔵していない。(残念の極み)
3巻あって古本で20,000円以上するようだから、このために購入するという訳にもいかない。
それ故、図書館蔵書で「遊行上人」で検索を懸けて、ヒットした古文書などを全部眺めてみようと思っている。
さて、いつ出かけましょうか・・・

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■「丁丑戦争日報」ー(3)

2023-02-17 07:01:16 | 史料

 明日18日(土)の熊本史談会では、西南の役研究の第一人者・勇 知之先生をお招きしていろいろお話をお聞きする。
先生が史料として提供された、西郷隆盛がが篠原国幹・村田新八に対して届けた植木転戦を指示する書状は、23日付けとなっている。
今回ご紹介する平川俊太の「丁丑戦争日報」では、風評として城兵(官軍)が藤崎(宮)辺りに集まり薩軍を迎え撃ついわゆる大激戦を極めた「段山の戦い」に触れている。
22日から始まったこの戦いは、至近距離からの撃ち合いとなり、官軍は「与倉中佐」が戦死した。薩軍も多くの戦死者が出ている。
23日も続いたこの戦いのさなかに、篠原・村田に西郷から書状が届き、二人に自ら出向き田原坂・木留での敵の殲滅を指示するように託している。その中には「(熊本城は)日本の名城なるか故に容易に乱入の振出覚束なし」として、転戦を指示している。このような史料と共にこの「丁丑戦争日報」を読むと、戦いの状況が正確に広く流布していることが伺える。熊本史談会での勇先生のお話しが楽しみである。

     風評
     城兵藤崎辺ニ屯集
     シタルソ第九大隊敗走
     植木辺ニテ薩兵
     為ニ敗ラレタルヨシ前
     説三曲ノ事ト矛盾
     又一説官軍ト接戦
     ト他日ノ定説ヲ
     俟ツ
     沼山津辺■兵ノ説起
     ル前知事公ニ從フトノ
     主意ノ由 余 知事公ノ
     鎮定ノ御主意演方
     ス
     縣廳官員退
     ■スヘシト平山
     之説帰来レル由
     平山

  
      冬次ヨリ参ル 冬次ハ竹
      宮社後ハ善兵ヱ宅ニ
      寓居セリ
      桺井末 服部 田中清人
      平山■来訪ス
      刀一本貸ス面々
      桺井 山次 井上安■
      ナリ 時計大塚至剛

       朝雨後晴
        二月廿四日
         旧正月十二日
      去ル十八九日ノ比長崎在留
      ノ佛人電信ヲ発ス廿一日
      魯(露)仏ノ軍艦一艘宛長崎ニ
      来泊セシ由 清音話                    清音・・・・・息子カ
      薩洲櫻島沖ニ洋ノ
      軍七八艘来ル由 真八話
      川崎又八寓居三ノ宮
      鳥居近辺利三郎宅
      杉本宅ノ辺出小(屋)

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