随分以前にも書いたが、遊行上人が熊本入りされた際、熊本では喪中であったため、侍(知行取)はすべて元結を切り、月代も剃らずにいたので、そんなむさい姿で上人の熊本入りをお迎えするのに大いに躊躇したという話がある。
「年表稿」をよく読んでみると、正徳四年十一月十二日に細川綱利が江戸白金邸で亡くなり、十二月廿七日遺骸が熊本に到着し妙解寺に葬られた。
そして、正徳五年には確かに遊行上人が熊本入りされているが、これは五月の事で、一月ばかり西福寺に逗留されて八代へ向かわれたとある。
半年ばかりのタイムラグがあり、当初の話としてはつじつまが合わない。
もう一つ、正徳二年の記録では以下のような記録が残る。
「8月11日、高瀬町願行寺、遊行上人宿寺とす」とあり、度支彙凾 延享二より天明八迄 法令條論・十六(13)には次のような記録が残る。
四五五
同年游行上人巡御國達
一遊行上人明後十七日高瀬出立ニて、熊本宿坊阿彌陀寺へ
着之筈ニ付、御曲輪宿坊迄之道筋屋敷/\掃除等有之、
形儀桶は被出置ニ不及趣夫々相觸候様、受場廻之足輕え
及達候、此段為御存知申達候、道筋之書附左之通
出京町口より本町筋、京町氏家仁左衛門屋敷前、新堀
御門、長岡助右衛門殿屋敷下御門、田中典儀屋敷前よ
り冠木御門、小笠原備前屋敷前、法花坂より一丁目前、 冠木御門→住江御門か
三丁目御門より細工町筋、阿弥陀寺へ参着之筈ニ候
以上
ところが、この時期どなたかが亡くなり喪中だという記録もない。
一方、寛政のころにも熊本入りされているという事を知り、「年表稿」を数年分調べてみると、寛政7年3月15日に「遊行上人高瀬発阿弥陀寺に入る、25日江戸へ立つ」とある。なにかしら関連する記事はないかとWEB検索をしてみたら、「八代市の近世浄土宗寺院・荘厳寺の建築的特徴」という論考が有り、これによると25日に遊行上人一行は荘厳寺を訪ねていることが判る。荘厳寺の図面が残るが、その折に制作されたものだろうという見解である。
年表稿に25日に「江戸へ立つ」の記述は正確ではないことが判る。
しかし、この年とて何方かの喪中だという事は伺えない。
遊行上人の全国行脚については、「遊行日鑑」という 圭室文雄氏の編著書が世に存在するが、熊本県立図書館はこれを所蔵していない。(残念の極み)
3巻あって古本で20,000円以上するようだから、このために購入するという訳にもいかない。
それ故、図書館蔵書で「遊行上人」で検索を懸けて、ヒットした古文書などを全部眺めてみようと思っている。
さて、いつ出かけましょうか・・・