吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2021:10:29日発行 第65号
本能寺からお玉が池へ ~その⑨~ 医師・西岡 曉
啄木鳥や 落ち葉をいそぐ 牧の木々 (水原秋櫻子)
「本能寺からお玉ヶ池へ」の時を跨ぐ旅は、「牧の木々」とは異なり、決して「いそぐ」ものではありませんが、「本能寺の変」から300年近くたった1876年(明治9年)、その旅は江戸・神田のお玉ヶ池には止まらず、下谷和泉橋通から(「お玉ヶ池種痘所」が源流の東京医学校が移転して来たことで)本郷へと流れ流れて来たのでした。
「本能寺の変」で激しく敵対した明智家VS.織田家ですが、それから280年の歳月を経て両家の末裔が江戸の神田・お玉ヶ池(跡)で、「力をあはせて」種痘所を開き、それが今(でも?)本郷にある東大医学部の源流になったのですから、明智家と織田家とが「東京大学医学部開基の大功労者」になったと言って良いのかも知れません。
それから更に150年余、来る2022年は「本能寺の変」から440年という記念(?)の年です。
「お玉ヶ池種痘所」発起人(の一人で明智光秀末裔)の三宅艮斎ですが、その長男・秀の妻・藤の(三宅家ではなく実家・斎藤家の)義祖父に順天堂学祖(初代堂主)・佐藤泰然がいます。泰然の欄学塾「順天堂」が開かれたのは1843年(天保14年)ですが、それから114年後、順天堂は「大学創立10周年記念」講演会を開催しました。「順天堂の由来」と題するその講演の縁者は、山崎佐(たすく:1888~1967)です。山崎佐は法学者&医史学者で、呉秀三(東大医学部精神科第二代教授)と呉の道教(広島)の医学者・富士川游(1865~1940)らが1927年(昭和2年)に設立した「日本医史学会」の第5代理事長を務めた人です。山崎は10周年記念講演で、こう述べています。
「お玉ヶ池種痘所が西洋医学所から医学所、それから東京帝大の医学部となって・・・ これ等は実に三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績であることを忘れてはならない ・・・ 艮斎の長男秀は、明治初期長い間、東大医学部の学長であり、その孫絋一は、東大医学部の精神科の教授であったことは、皆さんのよくご存じのこと・・・ 」
その講演から早半世紀を超える歳月が流れ、「忘れてはならない」彼らの功績を知る人も少なくなりました。この「濱口吉兵衛」こそは、ヤマサ醤油7代目で小泉八雲が著書「A Living God(生き守様)」に採りあげて讃えた濱口梧陵のことです。ただ残念ながら、山崎佐は肝心の梧陵の名前を(一文字)間違っています。梧陵は本当は「浜口儀兵衛」で、「吉兵衛」はヤマサではなくヒゲタ醤油の人です。
「順天堂の由来」の講演で「忘れてはならない」ことがもう一つあります。東大病院や吉祥寺病院が名乗っている『病院』は、山崎佐によれば「・・・『医院』と云うのが正しいので・・・『病院』と云うのは誤り・・・」なのだそうです。
山崎は続けて「・・・『病院』などと云ったことはないのであります。・・・天明7年(1787)森島中良が蘭書を翻訳して紅毛談話という本を作りました。その第1巻に『病院』と題して西洋では斯々だと説明しました。・・・爾来『病院』という名称が一般に用いられるようになったのです。がしかしよく考えて見れば『病院』では「病の場所」という意味でありまして、病を治すと云う意味は少しもありません。病人を集めて療治するのならば『療病院』が最も適当で、『療院』を一字にすれば『医』ということになるので『医院』が適当の字ということになるのです。それですから満州や中国、台湾などでは『医院』と云いますが、『病院』とは決して用いていません。日本で『病院』と云っているのを見て『字を知らない』といって冷笑しています。尤も病人を集めているだけで、治すつもりがなければ『病院』でもよいわけでしょう(笑声)。かような次第で、この大学が付属診療所として堂々『順天堂医院』という大きな看板を出しているのは、至極結構なことで、本当に病人を集めて治すつもりならばこれでなければなりません・・・」
成程こう言われれば、浅学菲才の者どもは御説御尤もとひれ伏すしかありませんね。なお、森島中良は幕府奥医師・桂川甫周の弟で、蘭学者兼(?)戯作者ですが、その師匠はあの平賀源内です。
[11] 堅田
「本能寺からお玉ヶ池へ」の永き流れは、吉祥寺とも深大寺とも何の所縁もなさそうですが、[9]で触れた家康の『欣求浄土』が、ほんの少し深大寺に関りがあります。「桶狭間の戦い」で今川義元が信長に斃された時、今川の人質だった松平信康(=後の家康)が自害しようとしたのを菩提寺大樹寺の住職・登誉和尚が思い止まらせ、掲げた流れ旗が「厭離穢土、欣求浄土」です。これは平安時代の比叡山延暦寺の高僧・恵心僧都源信の「往生要集」から採られた言葉ですが、その源信の師が深大寺に祀られている元三大師良源です。深大寺の一大行事(で、「日本三大だるま市」の一つ)・だるま市は、毎年「厄除元三大師大祭」の日=3月3日・4日に立ちます。その昔、恵心僧都が比叡山から夜の琵琶湖を眺めていると、湖の中に光輝く物が見えます。それを網で掬いあげると、黄金の小さな阿弥陀仏でした。恵心僧都は、その仏像を納めるために浮御堂(@大津市本堅田)を湖上に建てました。後の世に「近江八景」の一つ「樫田落鴈」とも言われる処です。
近江八景 堅田落鴈(歌川広重)
ここには芭蕉さんの句碑が二つもあります。
じょう
鎖あけて 月さし入れよ 浮御堂 (芭蕉)
ひらみかみ
比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋 (芭蕉)
「比良三上」の中「近江八景」の一つ「比良の暮雪」で知られる比良山。その麓、「明智の城」のあった坂本の少し北の町が堅田です。堅田は、平安の大昔から琵琶湖の漁業権、航行権を一手に握って富を築いた「堅田胡族」の町で、ルイス・フロイス(1532~1597)の日本史には「坂本より2レグヮ(≒8㎞)の甚だ裕福なる町」と書かれています。その一方で、何故か二度も焼き討ちの憂き目を見る辛い歴史を抱えた町です。
一度目は、何と延暦寺による「堅田大責」(1468年)でした。それから百年の後、信長&光秀vs浅井・朝倉との闘いの一つ「志賀の陣」(1570年)で、浅井・朝倉方だった堅田水軍の頭領・猪飼昇貞らは織田方に寝返りますが、結局この闘いは浅井・朝倉方の勝利に終わります。その翌々年、織田vs足利義昭の(最終決戦?)「槙島城の戦い」で(柴田勝家、丹羽長秀らと共に織田方として)今堅田を攻略した明智光秀の配下となった猪飼昇貞は、浅井・朝倉方への攻撃が加わります。そして二度目は、皆様ご存知の信長&光秀による(浅井・朝倉攻めの一環の)「比叡山焼き討ち」。その時堅田も、南の坂本と共に焼かれたのです。その11年後、「本能寺の変」に続く「山崎の戦い」に敗れた明智光秀の重臣・斎藤利光(1534~1582)は、猪飼昇貞を頼って堅田に落ち延びますが、光秀の信頼を集めて「明智」の苗字を賜っていた猪飼秀貞(昇貞の嫡男)が裏切ったことで羽柴方に捕らえられて、京の六条河原で斬首されました。利三の三女・福は、(来春改めてお話しますが、)徳川家光の生母・春日局です
そして今、堅田は「鮒ずし」の(滋賀県中で作られてはいますが)名産地です。「本能寺の変」の二週間前、光秀が家康の饗応の席に鮒ずしを出して信長に叱責されたのですが、「本能寺の変」の原因だなどという与太話もありますが、琵琶湖畔の安土城を居城にした信長が琵琶湖名物の鮒ずしを毛嫌いすることなどあろう筈もありません。
「本能寺の変」から40年後の1622年、斎藤俊三が捕らえられた地・堅田で生まれたのが芭蕉さんの一番弟子・宝井其角(本名・竹下侃憲=ただのり)の父・竹下東順(近江膳所藩藩医&俳人)です。(其角本人は、江戸っ子です。)12歳で芭蕉に入門した後も、医家の跡取りとして医学も学んでいたという竹下侃憲は、中国の古典「易経」にある「晋其角(そのつのにすすむ)」(「これ以上進めないところまで進む」意)から採った「其角」を俳号にします。
一方、「比叡山焼き討ち」で堅田と共に焼き討ちに遭った坂本に、焼き討ちの直後に信長は光秀に命じて坂本城を築かせました。フロイスは「日本史」の中で坂本城を「豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と書いています。信長&光秀は、坂本城を拠点として近江の平定を目指します。その際堅田は、織田&明智の水軍の拠点になりました。坂本城が建って11年、「本能寺の変」で明智光秀の娘婿・明智左馬之助秀満は、水軍を率いて安土城に攻め入りましたが、「山崎の戦い」で明智勢が敗れると秀満は、坂本城に火を放って自刃しました。この秀満と(光秀の長女=)岸との息子・藤兵衛は、一族滅亡のその時([2]で述べたように)乳母の手で落ち延び、叔母・ガラシャの下細川家で育てられ(ガラシャの子供たちと一緒にキリシタンになり)ました。
「お玉ヶ池種痘所」の発起人(=「東京大学医学部開基の大功労者」)・坪井信道の先祖・織田信長への「本能寺の変」での一番槍という武功を挙げた安田国継の縁で唐津藩の天草冨岡城の番代(他藩で言う城代家老)になった三宅藤兵衛重利は、「本能寺の変」から55年後の1637年(嘉永14年)(寛永14年)、「天草島原の乱」で一揆軍と闘って討死しました。三宅重利は、「お玉が池種痘所」の発起人(=「東京大学医学部開基の大功労者」)・三宅艮斎の8代前、(「お玉が池種痘所」の後身である。)「東京大学医学部」の初代学部長・三宅秀の9代前の先祖にあたります。
明智左馬之助湖水渡りの図