津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本能寺からお玉が池へ ~その③~

2023-02-03 06:51:35 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2019:10:23日発行 第58号
     本能寺からお玉が池へ ~その③~      医師・西岡  曉

  さらさらと 白雲渡る 芭蕉かな (正岡子規)

 月日は巡り、秋風に白雲が流れる季節になりました。子規のこの句の季語は「芭蕉」です。
そこで本家(?)芭蕉さんの秋の句を一つ・・・・・・・・

  秋深き 隣は何をする人ぞ

 芭蕉さんの「奥の細道」は、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」と始まりますが、芭蕉さんご自身こそが「百代の過客(=永遠の旅人)」でした。
ご存知の方も多いと思いますが、芭蕉さんの人生最後の句は、

  旅に出て 夢は枯野をかけめぐる

です。
 この句は、芭蕉さんの最期の日の4日前に(なので病床で)詠まれたものですが、「秋深き・・・・」の方は、芭蕉さんが坐位で詠んだ最後の句だそうです。
話は変わりますが、我が家の家伝によれば、(「本能寺の変」に続く)明智家の滅亡に際して、(敗戦の地・山崎=)山城国西岡(「にしのおか」とよむそうです。ガラシャの婚家・長岡家の「長岡」は、「西岡」の古い呼び方です。)から伊賀国湯舟郷(現・三重県伊賀市東湯船)に落ち延びた我が家の先祖は、(残党狩りの目を誤魔化すため)敗戦の地に因んで「明智」から「西岡」に苗字を変えました。湯舟で一年半、伊賀国某所で十数年ほどの隠棲の後、城下町・上野に出て(我が家の先祖の姉と甥らしい)明智辰母子と同様(とは言っても、時期は随分後ですが、)藤堂家の保護を求め、以後三百余年の長きに亘って藤堂藩(伊賀では「津藩」とは言いません。津は伊賀ではなく、伊勢の町ですから・・・・)の皆様からは、幾ら感謝してもし切れぬほどの筆舌に尽くし難いご厚誼を(町人の身分になっていた我が家にも)賜って来ました。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、(伊賀)上野は芭蕉さんの生まれ故郷として有名な町です。伊賀の人々は皆、今でも松尾芭蕉(1644~1694)のことを親しみを込めて「芭蕉さん」と呼んでいます。
実は私も(伊賀)上野の生まれなので、「芭蕉さん」と呼ばせてもらっています。
さていよいよこの秋からは、「本能寺からお玉が池へ」(=1582年の「本能寺の変」から1858年の「お玉が池種痘所」へ)の300年近い流れ(の一端?)をお話をします。

 [4] 艮斎(ごんさい)
 「本能寺の変}から55年後の「島原の乱」で討死した明智光秀の孫・三宅藤兵衛(1581~1637)ですが、藤兵衛は4人の息子と一人の娘を遺しました。
その内長男は藤右衛門重元といい、父・藤兵衛の従兄(叔母・ガラシャの三男です。)・細川忠利(1586~1641)が藩主になっていた熊本藩に仕官します。
三宅重元の長男は百助重次、次男は伊兵衛重之といいます。藤兵衛が討死した島原の乱で住民全員が殺されていなくなった島原に、幕府は他藩からの移住を募りましたが、それを受けて重之の娘婿・休庵は、島原の乱発端の地・有馬村(現・長崎県南島原市南有馬町)に移住し、医業に就きました。
休庵は筑後国三池郡大牟田村の出身なので島原には何の縁もありませんが、妻の曽祖父・藤兵衛の仇(?)の土地・島原を敢えて選んだのには一体どのような思いがあったのでしょうか?
医者になった休庵でしたが、更には休庵の長男(=藤兵衛の玄孫)・元哉、元哉の長男・玄碩、玄碩の長男・英庵・・・・と続いて、三宅家は島原で代々医業を生業とすることになります。
 休庵の曽孫・英庵には4人の息子があり、長男・有碩を始め全員が医者になりました。1717年(文化14年)生まれの四男・艮斎もその一人です。
艮斎は8歳になると嶋原を出て、熊本の伯父(父・英庵の弟)の家で学問を始め、15歳で長崎に出ると、フイリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)の高弟だった楢林栄建(1801~1875)の欄学塾に入門しました。栄建は、同じくシーボルトの門人で(医師としては)日本で初めて牛痘をした楢林宗建の兄です。
楢林塾は、かつてシーボルトがしばしば訪れ、診療もした処です。ところが、艮斎が長崎に来る前々年に幕府を揺るがした「シーボルト事件」が起こり、その翌年の暮れにシーボルトは国外追放の身となったので、艮斎自身は長崎ではシーボルトに逢ってはいませんが、(開国後の)後年積みが許され再び日本を訪れたシーボルトと江戸で出逢うことになります。
 楢林塾で艮斎は和田泰然(=後の順天堂開祖・佐藤泰然:1804~1872)に出逢いました。これが艮斎の運命を大きく変えることになります。
長崎を出た年に父を亡くした艮斎は、郷里島原には帰らず、泰然に付いて江戸に上ることになり、1838年(天保9年)22歳になっていた艮斎は、江戸での生活を「医者町」ともいわれた両国薬研堀(現・中央区東日本橋2丁目)の泰然の家の隣家=(楢林塾の同門で)共に江戸に上って泰然と欄学塾・和田塾を始めた林洞海1913  1813~1895)の家で始めます。
このシリーズは深大寺にも吉祥寺にも関わりがないと思いきや、ここで「吉祥寺」が登場することになりました。
林洞海の墓があるのが吉祥寺(@文京区本駒込3丁目)だからです。

 薬研堀という処は、(当時既に「幻の池」だった)「お玉ヶ池」の東の畔にあたります。薬研堀の泰然宅の跡には、今では「順天堂発祥の地」碑が建っています。
記念碑と言えば、お玉ヶ池跡には「お玉ヶ池種痘所跡」碑ともう一つ「お玉ヶ池種痘所記念」碑が「東京大学医学部」名で建っています。(その由来については、来年改めてお話します)
 1841年、24歳の艮斎は泰然の患家の娘・石山遊亀(ゆき)を嫁に貰い、泰然の勧めで(「天保の改革」で)不景気だった江戸を離れ、下総国銚子に移って開業します。
泰然はこの時の引っ越しを、入門したばかりの山口尚中(後の順天堂第二代堂主・佐藤尚中:1827~1885)に手伝わせています。(自身の将来像を描くことも難しかったであろう)少年尚中には、30余年のにまさか時分の娘を艮斎の息子に嫁がせることになるとは、想像もできなかったに違いありません。
銚子の地で艮斎は、濱口梧陵(ヤマサ醤油7代目:1820~1885)と(泰然を初とすれば、二人目の)運命的な出逢いをすることになります。
濱口梧陵は(「稲むらの火」で有名ですが)、艮斎ばかりではなくお玉ヶ池種痘所にとっても運命の人です。
 一方、1839年の「蛮社の獄」で高野長英(1804~1850:シーボルトの鳴滝塾で塾頭だった蘭方医。再来年、改めて登場します。)を匿ったため江戸に居られなくなった泰然は、1843年(天保14年)、下総国佐倉で「佐藤泰然」と改名して「順天堂」(勿論、現在の「順天堂大学」です。順天堂は、今の「私立医学部御三家」と言われる慶應、慈恵、日医、よりずっと老舗だったのでした、)を開きます。
その翌年艮斎は、泰然の推薦で佐倉藩医になり(江戸詰めとなるため)江戸に戻ることになります。「蘭方禁止令」の出ていた当時の佐倉藩主(にして幕府老中)・堀田正睦(1810~1864)は「蘭癖大名」と呼ばれる人だったので、(泰然や艮斎ら)蘭方医を雇ったのです。艮斎が江戸に構えた新居は、医者町・薬研堀ではなく(両国橋を渡った隅田川対岸の)本所緑町でした。
 1848年(嘉永元年)、艮斎に長男・復一(=後の三宅秀)が誕生します。そして10年が過ぎた1858年(安政5年)、艮斎は発起人の一人として「お玉ヶ池種痘所」を解説します。(そのお話は、本シリーズのメインテーマですので、明年稿を改めることにします。)
 1868年(慶應4年)7月、(戊辰戦争の中の)上野戦争の最中に、艮斎は(先祖の明智光秀には及ばないかもしれませんが、動乱の時代を生きた)波乱の人生に終止符を打ちます。享年52。死因は食道癌でした。
艮斎の没後70余年の後、艮斎の曽孫(で当時東大医学部の学生だった)・三浦義彰(1915~2010)が(串田孫一らの)同人誌「冬夏(とうげ)」に発表した「三宅艮斎伝」は、次の文で締めくくられています。
話の舞台になっている願行寺(@文京区向丘2丁目)は、光秀が葬られることを望んだといわれる知恩院の末寺にあたります。

 凡そ人の伝記を撰せんと志す者は先ず掃苔より初めるのを常とする、而るに私はこの度の伝記を思い立ってから今迄艮斎の墓に詣でていない。丁度今日は艮斎の孫にあたる私の母の忌日なので、私は俄に思い立って梅雨晴れの一日を谷中の墓地に参った。五重塔の下には私の母の奥津城がある。その前の横丁を西に折れると、佐藤泰然の養子である佐藤尚中の墓がある。艮斎の墓はその斜左奥にある。願行寺から谷中に改葬された当時の墓には確か艮斎及び亀遊(遊亀は艮斎の死後落飾して亀遊と名乗った)の俗名が並べて、黒い石に彫ってあったように記憶するが、今あるのは、祖父の没後建て換えられた三宅氏之墓と云う墓石のみである。私は艮斎の法名を観龍院とのみ存じていてその外の戒名を知らなかった。それで気の向く儘に、ぽつぽつと湯気の多い暑さの中を歩いて、更に本郷台に登って、願行寺に詣った。

 森鴎外の「細木香似」には次のような一文がある。

 本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲がる角が西教寺という寺である。西教寺の門前を過ぎて右の桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が路次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲である。この外囲が本は疎な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、通行人の目に触れていた。

                                                          三宅艮斎写真をクリックすると大きくなります。)
 

 

 

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■H家の西南の役記録

2023-02-03 06:09:51 | 史料

 我が家の家祖は「磯部」氏である。毛利家家臣だったが周防・下松に居宅を構え浪人の身分であった。
下松は船着きの良いところだったらしく、「三斎公江戸御上下之折」には度々お宿を提供したりしていたらしい。
そして、二人の兄弟が豊前へ召されて家臣となった。
肝心の「磯部」家は男子がなく絶家、弟の方は幾人かの男子があったものの、何故か長男はH家、次男の我が家も母方の姓を継いだ。
ある時偶然にH家の諸記録が図書館に収められているのを発見、上記の事が判明した。
過日図書館に出かけた折、改めてその内容を確認していたら、西南の役から一両年の日記風の記録が残されていた。
これはコピーできないから、カメラ撮影をしなければならない。
西南の役に関する何かしらの記録がないかと探していたところで、今日あたりは出かけて撮影してこようかと考えて居る。
果たしてどのようなことが書かれているのか、興味が尽きない。

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