津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「熊本ん水道水」はミネラルウォーター

2023-02-24 15:41:19 | 熊本

 来週は定期の病院検査を受けるが、糖尿病状態も随分摂生しているから少しは改善していると思うのだが、一方、相変わらず足のこむら返りが続いている。
一昨日・昨日と急襲を受けた。その間悶絶しそうな痛みに襲われて、一秒・二秒と過ぎる時間が凄く長く感じられる。
ベッドから出るのももどかく飛び起きて、伸びきった足先を床に就けて体重をかけるが、これを戻すのが簡単にはいかない。
寒く暗い中数分立ち尽くして、痛みが過ぎるのを待つ。
寒さに負けて早々に布団の中に戻ると、また襲われるからただひたすらに我慢しなければならない。

 ある方からメールで、水の飲み方が足らないのではとご指摘いただいた。この方はミネラルウォーターのペットボトル2㍑を毎日飲んでおられるらしいが、「費用が毎月10,000円近くになるから熊本の人は羨ましい」と仰る。
仰せの如く、熊本の水道はミネラルウォーター並の美味しい阿蘇の伏流水の湧き水で、一軒家にお住まいの方ならば厳冬のころでも水道をひねれば温かい水が味わえる。
マンション住まいだと高架水槽に水を上げるからそうはいかず、手の切れるような冷水を味わうことになるが・・・。

 そんな恩恵を仇や疎かにはしてはなるまいと、何とか2㍑を飲もうと努力しているが・・・
なかなかそんな目標は達成されないでいるが、こむら返りの激痛を思い出して頑張らなければなるまいと反省しきりである。

             健軍水源地の自噴井

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■消えた地名「ウスナシ丁」

2023-02-24 12:33:20 | 地図散歩
  1.  熊本地名研究会の編著による「熊本の消えた地名」にも登場しない、「消えた地名」が、「明治初期‐熊本町名」地図にあった。
    その名を「ウスナシ丁」と記してある。この地図は明治6年の「白川縣肥後国熊本全図」と明治13年の「熊本全図」で校合され編集されている。
    まだ「大甲橋」が存在しないから道筋をたどるのが大変だが、下流部にはこの時期安巳(安政)橋が存在しているから辿っていくと元新屋敷の先でクランクしている。
    手元にある昭和4年の「地番入り早わかり熊本市街地圖」を見ると、「白川小学校」の書き込みが見える。
    この当時は小学校前の通りはまだ一直線ではない。その小学校の前を進みクランクに沿って右折すると今度は左折し北へ延びる道がある。これがどうやら「ウスナシ丁」らしい。この地図ではこの道筋は明五橋通りまで伸びているが、現在は手前とこの「丁」の先が途切れているが閑静な御屋敷町である。「丁」とあるようにここが侍屋敷であったことを物語っている。
    現在の地番で言うと熊本市中央区新屋敷1丁目10番地のブロックではないかと思われる。
    熊本地名辞典を見ても、なかなか地図上の位置を確定することが出来ないでいるし、またこの「ウスナシ」というカタカナ表示の名前の由来も伺えない。
    ご存知の方のご教示をお願いしたい。
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■本能寺からお玉が池へ ~その⑫~

2023-02-24 06:57:01 | 歴史

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:7:30日発行 第68号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑫~        医師・西岡  曉


     さざ波や 風の薫りの 相拍子  (芭蕉)

 風薫る夏が来ました。・・・かと思えばもう盛夏です。自ら「納涼」と謳い、芭蕉さんらしく琵琶湖の波音を詠んだ句は、芭蕉さんが近江で詠んだ最後の句になりました。

 [14] 無縁坂

 「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、玉という名の3人の女性に縁があります。
初めは、勿論(?)「本能寺の変」を起こした明智光秀の三女・玉(後のガラシャ)。次は、明智光秀の末裔・三宅艮斎と織田信長の末裔・坪井信道(二代目)たちが「力をあはせて」開いた江戸の種痘所の建つ処にその(百年以上)昔あった池に入水し(て池の名前になっ)た茶屋の娘・玉。そしていま一人の玉は、和泉橋から本郷への(大学東校→東大医学部)の流れ(?)の中に居るのですが、実は彼女は実在の人物ではありません。では一体何者?
 それを知るには、(一昨年[4]で登場し、今年が没後百年の)森鴎外(1862~1922)に訊かねばなりません。

 「古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事と云う事を記憶している。」と始まるのが鴎外の小説「鴈」なのですが、この小説のヒロインが「玉」という名前なのです。「鴈」はこう続きます。
 「・・・その頃僕は東京大学の鉄門の真向かいにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって・・・」
「東京大学の鉄門」は、お玉が池種痘所の正門が(転じて種痘所全体も)「鉄門」と呼ばれたことに始まります。種痘所の鉄門がそのまま大学東校→東京医学校の正門として使われ、1876年、東京医学校が加賀藩上屋敷(=現在の東大本郷キャンパス)に移転した際には鉄門も移築され、翌年「東京大学医学部」が発足すると、鉄門は東京大学の正門になります。尤もこの時本郷には医学部だけしかありませんでした。東京大学発足の2年後(1879年・明治12年)、鉄門は(老朽化のため?)母児通りの鉄(製)の鉄門に生まれ変わりました。その「鉄門」は1918年に撤去され姿を消しますが、90年後に「東大医学部創立150年」を記念して復元されました。ただ、元々鉄門があった場所には現に東大病院の建物が建っていましたので、復元後の校門は元の場所から少々東にあります。
 「この話の御主人公」の住む下宿屋は、今は東大病院の「南研究棟」が建つ処です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、この南研究棟は通称「赤レンガ」と呼ばれ、20年前まで精神科病棟がありました。
 森鴎外の「鴈」が棲む「不忍池」はその昔琵琶湖に見立てられました。そして「おかだの日々の散歩はたいてい道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、愛染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野山をぶらつく。   ・・・狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な枳殻寺の角を曲がって帰る。」そうです。
「お玉ヶ池種痘所」を源流とする東京医学校は、1867年(下谷和泉橋通から)本郷台地に移転しました。東京医学校は翌年東京大学医学部となります。台地なので、周りの道は坂だらけです。北から、新坂、異人坂、弥生坂、暗闇坂、無縁坂、と五つある坂の中、医学部所縁の坂と言えば異人坂と無縁坂です。その「無縁坂の南側は岩崎の邸(やしき)であったが、まだ今のような巍々たる土塀では囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石の間から、歯朶や杉菜が覗いていた。」
「岩崎の邸」は、元々越後高田藩の江戸中屋敷だったのを、「鴈」の年(1878年・明治13年)に三井財閥(初代)岩崎弥太郎(1835~1885)が購入したものです。「鴈」から16年の後、ここに三井財閥3代目・岩崎久弥がジョサイア・コンドル設計の洋館を建て、「巍々たる土塀」は赤レンガの塀になり、今でもその洋館は都立公園「旧岩崎邸庭園」(@台東区池之端1丁目)の中に堂々と立っています。
 この「岩崎の邸」は、ほんの少し「本能寺の変」と関りがあります。1685年(貞享2年)からの16年間越後高田藩主だった稲葉正往(1640~1716、明治維新時の藩主は榊原政和)は、「本能寺の変」当時明智光秀の重臣だった斎藤利三の三女・福の曾孫です。斎藤福(1579~1643)は、皆様ご存知のように後の春日局です。曽孫・稲葉正往の正室は保科正之(家光の異母弟)の四女・石でした。
 岡田が散歩の終盤に見る「臭橘寺」は、「岩崎の邸」以上に「本能寺」と関りがあります。この寺は、(開山以来260年の間)枳殻の生垣を廻らしていたので「からたち寺」と呼ばれていますが、本名(?)は、「天澤山麟祥寺」(@文京区湯島3丁目)と言います。「本能寺」との関りと言っても、本能寺は法華宗で麟祥院は臨済宗妙心寺派なので、宗教上の
関りは有りません。麟祥院の開基が、「本能寺の変」の主役の娘・春日局であり、その墓所が麟祥院にあるのです。
 小説「鴈」で「九月の或る夕べ」、岡田は無縁坂の「岩崎の邸」の辺りで「一人の湯帰りの女」が「寂しい家に這入る」のを眼にします。女は後に岡田と少々親しくなるのですが、女の名を岡田が知る事はありませんでした。

                         
    無縁坂                               映画「鴈」より岡田(芥川比呂志)、お玉(高峰秀子)

 後日「鴈」の「僕」が語るには、「まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。」「寄宿舎には小使がいた。」「小使の一人に末造と云うのがいた。」「金がない時は未造が立て替えてくれると云うことをぼくはきいた。」「・・・次第に五円貸す十円貸すと云うようになって、・・・とうとう一人前の高利貸しになった。」「学校が下谷から本郷へ遷る頃には、もう未造は小使ではなかった。しかしその頃池の端へ引っ越してきた未造の家へは、無分別な学生の出入りがたえなかった。」そうです。
 この「学校が下谷から本郷に遷る」話は、去年[8]でお話ししました。そして「無縁坂の女」は「未造の妾」になるのですが、女の名前が玉なのです。「鴈」のヒロイン「玉」が何故「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れの中なのか?と言うと、「無縁坂の女」=玉を妾とした高利貸・未造の客の医学生の「学校」こそは「東京大学医学部」であり、「種痘所は東京大學醫学部のはじめにあたる」(お玉ヶ池種痘所記念碑)からです。ただ、「大学医学部が下谷にある時」と言うのはちょっと違います。「学校」が下谷和泉橋通の「藤堂屋敷」にあったのは、「お玉が池種痘所」を源流とする「医学所」が「大病院」「医学校兼病院」「大学東校」と5度も名を変えた8年の間のことで、「学校が下谷から本郷に遷」った翌1877年(明治10年)になって始めて「東京医学校」は「東京大学医学部」になったので「大学医学部が下谷にある」ことは無かったのです。
 「鴈」の未造には、モデルがいます。三宅秀を初代とすると9代目(種痘所時代からすると22代目)の東大医学部長である入江達吉(1865~1938)の文にこうあります。「その頃(明治10年頃)の本科性は皆、大学の小使上りの岡田元助という医学生専門の高利貸、『癌』という綽名があったその男から高利の金を、背負いきれない程借金して・・・    」
この「岡田元助」が未造のモデルです。『癌』の元助が「鴈」の未造になったという訳です。
 「鴈」の主人公・岡田にもモデルがいて、それは緒方洪庵の六男・収二郎とされています。収二郎の兄・緒方惟準(洪庵の次男で、「大病院」の二代目取締役。なお昨年述べたように大病院は、大学東校、東京医学校、を経て東大医学部へと発展します。)は帝国陸軍軍医になり、麦飯で脚気を予防する業績を上げるも森鴎外ら上層部と対立して軍を去り、大坂に帰って(妹・八千代の夫=)拙斎と共に緒方病院(現・くりにっくおがた)を開設し、収二郎はその二代目院長になりました。
 「鴈を肴に酒を飲む」(医学生ではない)東大生・石原のモデルは嘉納治五郎(1860~1938)だという説があります。語り手の「僕」のモデルは、勿論(?)鴎外自身でしょう。
 そして肝心の「玉」のモデルは、「鴈」の2年前に発表された小説「ヰタ・セクスアリス」に書かれた三ノ輪の古道具「秋貞」(当時は実在したが、その後閉店)の娘、とも言われますが、鴎外の(赤松登志子と離婚後荒木志げと再婚するまでの)愛人だった児玉せきの方が相応しいようです。
 森鴎外は、東大医学部を卒業した8年後に赤松登志子と結婚しますが、都志子は順天堂学祖・佐藤泰然の曾孫ですから、この時、泰然の養子・尚中の娘・藤が妻である三宅秀と(登志子と離婚するまでの一年半の間、義理のではあれ)姻戚になっています。
 [9]で述べたように、三宅艮斎の長男・秀は(東大医学校の後身=)東京大学医学部の初代医学部長になり、「古い話」(「鴈」)の時代(1880年)も鴎外の在学(1881年卒業)中も学部長の座に居ました。ですから、作中の「岡田」も「僕」も、種痘所時代から「鉄門」と呼ばれ、明智光秀末裔の三宅艮斎が「開基の大功労者」になり、その息子の三宅秀が学部長になった東京大学医学部で学んでいた訳です。余り知られていませんが、鴎外は東大卒業時の席次は30名中8番目で、希望していた国費留学の枠(=席次1or2番)に入れませんでした。すると鴎外は、何を思ったか医学部長の三宅秀に直談判に及びます。勿論三宅秀は、鴎外の妄言(?)を毅然として撥ね付けました。

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