熊本では一昨日「春一番」が吹いたとか言っていた。
どうやら今頃の時期、気温が上がり南東寄りの強い風が吹く頃を指すようだが、366年前の明暦3年の1月18~20日の江戸はまさにそんな季節の中ではなかったのだろうか。
但し、風向きは北東の風だったらしいが・・・
グレゴリオ暦でいうと1657年3月2日~4日である、江戸本郷丸山の本妙寺より出火して、強い風にあおられて飛び火し新たな火元を作りながら三日に渡り江戸の町を舐め尽くした「明暦の火事」が起きた。
死者は数万から十数万に及んだと言われる。「振袖火事」とも言われるようだが、これは俗説だろう。
本妙寺が火元だとされるが、これとて「火元引き受け説」などが存在して火元論争は未だ闇の中である。
江戸大改造のために、幕府が仕掛けた放火説まであるようだが、これは論外だろう。
大名屋敷の多くも被災しているが、上屋敷・下屋敷とも焼失し避難場所を求めてさまよった大名もあったとされる。
細川家はどうか。当時の藩主は細川綱利、まだお国入りをしていない若干15歳のまだ前髪をたくわえた若さである。
18日に昼頃本郷で出火した火事は江戸城の北側から北東面に沿うように江戸の町をを焼き尽くした。
猛火を背後にして追われた江戸の人々は大川にいたり逃げ場を失い多くの死者を出した。両国橋が出来るのはこの火事を反省して架けられた。
18日、細川藩上屋敷(辰ノ口邸)はまだ無事であった。父光尚夫妻はすでに故人であり、綱利と生母・清高院が江戸在であるが、白金の下屋敷に避難した。
翌19日新たな火元、小石川・伝通院表門下の屋敷から出火、前日同様強い風にのり猛火となりこの日は江戸城二の丸、三の丸も焼失、大手門前・大名小路の細川家下屋敷は焼失した。
史料は「七つ」とあるが、「夕七つ(16時前後)」だろう。
20日には、更に麹町の町家から出火、江戸城の反対側に火が至り、増上寺なども延焼した海に至ってようやく止った。
藩は、家臣に辰ノ口邸を新たに建設するために「二分役」の負担を求めた。
又幕府からは、所々の御門(大手門・二ノ丸門・中の門・蓮池・喰違)の再建を指示されている。
江戸では材木の調達は難しいから、熊本では急遽あちこちの山で木々が伐採され大阪へ送られている。
大坂で「切り込み」行われて江戸へ運ばれてすぐさま建築に取り掛かった。
藩邸が完成を見て綱利が龍ノ口に戻るのは10月23日だとされるが、完全復旧していたのだろうか。
綱利や生母・清高院の驕奢な生活や、江戸城構築の手伝い、藩邸の再建、地元での火災や干ばつなどが重なり、細川家の財政の悪化が始まる。