今朝ほど地震があった。奥方は気づいていないらしい。
チョットした揺れだったが、そろそろ起きようかという時間で、うとうとしていたからはっきり地震だと感じた。
発生時刻 | 震源地 | マグニチュード | 最大震度 |
2023年2月6日 5時52分ごろ | 熊本県熊本地方 | 2.8 | 2 |
地震感度は良好である。トルコでは随分大きな地震が発生したみたいですが、お見舞い申し上げます。
今朝ほど地震があった。奥方は気づいていないらしい。
チョットした揺れだったが、そろそろ起きようかという時間で、うとうとしていたからはっきり地震だと感じた。
発生時刻 | 震源地 | マグニチュード | 最大震度 |
2023年2月6日 5時52分ごろ | 熊本県熊本地方 | 2.8 | 2 |
地震感度は良好である。トルコでは随分大きな地震が発生したみたいですが、お見舞い申し上げます。
「18歳と81歳の違い」に例えられるのが「18歳は暴走し、81歳は逆走する」というのがある。
言い得て妙だなと感心するが、私は「18歳は偏差値が気になり、81歳は血圧・血糖値が気になる」方である。
我が家は短命の家系だと言われている。そいう意味では81歳の私は歴代トップに成ってはいるが、もう少々生かせてほしいと念願している。
最近は大いに摂生しているが、糖尿病を克服するまでには至っていない。
寿命は運命だろうとは思うが、やはり寝込んだりして家族に迷惑をかけるのは一番避けたいところだから、糖尿病など由来の病気に患からないようにと大いに気にするようになった。
「自分探しをしている18歳、皆が自分を探している81歳」
「まだ何も知らない18歳、もう何も覚えていない81歳」
「ドキドキが止らない18歳、動悸が止らないのが81歳」
「恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳」
「恋で胸詰まらせるのが18歳、餅でのどを詰まらせるのが81歳」
私当年満81歳で御座いますが、まだまだ当てはまるものは「血圧・血糖値」くらいでそのほかは無縁で御座います。
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2020:7:19日発行 第61号
本能寺からお玉が池へ ~その⑤~
「本能寺の変」に続く「山崎の戦い」で敗れた明智光秀は、居城・坂本城へ落ちようとするも叶わず自刃し、首は知恩院(@京都市東山区林下町)に葬るよう言い遺したとも伝えられています。
その知恩院の開祖である法然(浄土宗開祖:1133~1212)のイメージソング(?が作られて今年で10年になります。)では、こう歌われます。
春くれば 花自ずから咲くように
秋くれば 葉は自ずから散るように
しあわせになるために 誰もが生まれてきたんだよ
悲しみの花の後からは 喜びの実が実るように
(さだまさし)
「深大寺道をゆく」旅では、芭蕉さんの桜の句をご覧頂きましたが、ガラシャが辞世に詠んだ「花」も、勿論「桜」です。
東京の桜は今はもう葉桜ですが、ここで桜の句をもう一つ・・・・ガラシャの「花」に通ずる趣を感じられるかも知れません。
さくらさくら さくさくら ちるさくら (種田山頭火)
このシリーズは、昨春、ガラシャ姉妹の話から始りました。明智ガラシャ(しつこいようですが、「細川ガラシャ」というのは明治時代からの呼び方で、本来はこちらです。)の本名は、明智玉です。
そしていよいよ今回、本命の(?)「お玉ヶ池」が登場します。このシリーズに大きな関りがある二人の女性が同じ「玉」というお名前なのには、不思議なめぐり合わせを感じずにはいられません。
この春お届けするのは、このシリーズのメインテーマである「お玉ヶ池」のお話です。「本能寺の変」から275年の時を経て、江戸城下の神田・お玉ヶ池(跡)で、明智光秀の孫(ガラシャの甥)・三宅藤兵衛の末裔と織田信長の孫・秀信の末裔とがめぐり逢うことになります。
[6] お玉ヶ池
一昨年の夏、「深大寺道をゆく」旅で石神井川を渡ったことがありました。その折石神井川の「小さな流れが、江戸時代には『大川』と呼ばれていた隅田川の大きな流れになって東京湾に流れ込んでいるとは、ちょっと想像がつきません・・・・」と申しましたが、(江戸時代よりもずっと)大昔、石神井川は(上流、中流は、今と変らぬ流れですが)王子辺りから下流は、現在の(東への)流れとは異なり、(南へ流れ下り、今の姿からは想像もつきませんが、)途中に不忍池を経てさらに南へ流れ、神田辺りまで来ると(こちらも現在の風景からは全く想像もつきませんが、何と)不忍池よりも大きかったという(後に「お玉ヶ池」と呼ばれることになる)池を抜け、その南、人形町辺りで江戸湾に注いでいました。その頃は「お玉ヶ池」という名はまだなくて、「桜ヶ池」と呼ばれていたそうです。
都営地下鉄新宿線岩元町駅の(南東側)近くに「繁栄お玉稲荷大明神」(@千代田区岩本町2丁目)という立派なお名前の(割と少々小振りな?)神社があります。ここに「お玉ヶ池」の由来を書いた説明版(棒?)が立っていますので、読んでみましょう。
「この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、
徐々に埋め立てられて姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉
という女性が池に身を投げたとの故事からお玉が池と呼ばれるようになったといいます。」
石神井川の流れは、その後(現在の東への流れに)改修されて荒川に注ぐことになります。その上(?1600年に)お玉ヶ池の北側が開削されたことによって、お玉ヶ池の(「池」としての)姿は完全に消えました。
それでも江戸の日と武とには不忍池よりも大きかった「池」の印章が余程強かったとみえて、お玉ヶ池が(池で)無くなって200年は経つという頃でも、神田松枝町(現・千代田区岩本町2丁目)辺りには通称「お玉ヶ池」と呼ばれたそうです。
さて突然ですが、ここで季節を少々先取りして、芭蕉さんの夏の句を一つ・・・・。
瓜の皮 剝いたところや 蓮台野 (芭蕉)
信長の大好物(の一つ)に真桑瓜があります。大河ドラマ「麒麟がくる」では、信長の父・信秀が美味しそうに食べていましたね。
信長・光秀の時代は、「瓜」といえば真桑瓜(今の時代、「甜瓜」と書かれることが多いようです。)でした。江戸時代になると、その名の元になった美濃国本巣郡真桑村(現・岐阜県本巣市)を差し置いて、山城国西岡の桂(現・京都市西京区)、山城国相楽の狛野(現・木津川市山城町)、そして江戸の成子(現・新宿区西新宿、東京医大の北側エリア)が名産地になったそうです。
芭蕉さんも真桑瓜は大好きで、大坂で亡くなる三か月ほど前(1694年夏)に京で詠んだのがこの句です。
この句に詠まれた「蓮台野」は、京の都の古の墓地+火葬場で、現在の京都市北区紫野花ノ坊町から紫野西蓮台野辺り、にあたります。とは言え、信長も光秀も蓮台野に墓所は有りません。それどころか(?)、信長の遺骨は今尚行方知れずです。
一方、光秀の遺骨は、菩提寺・西教寺(@滋賀県大津市坂本)の明智一族の墓ではなく、京都・東山の「明智光秀首塚」(@京都市東山区梅宮町)に収められています。
蓮台野に葬られた方の中には疫病に斃れた方も多かったことでしょう。我が国で古来(=6世紀に中国、朝鮮から渡来して、)死に至る疫病として朝廷から庶民まで恐れられ、「日本書紀」の記載が世界最古の記録とも言われる感染症(餅老右、当時は原因不明でした。)があります。それは、ICD分類B03=痘瘡です。(因みに、同じウイルスを感染症でもいま大問題のCOVID19はU07です。)
人類史上初のワクチンとされる(牛痘)種痘がイギリス人医師E・ジェンナーによって発表されたのは、1798年のことでした。ジェンナーの牛痘が日本に伝わったのは、それから51年後、1849年のことです。[4]で登場した三宅艮斎の師・楢林栄建の兄・楢林宗建がパタヴィア(当時オランダ領。現ジャカルタ)から輸入したのでした。
それから更に8年後の1857年(安政4年)6月、江戸・下谷練塀小路の仙台藩医・大槻俊斎(1804~1862)の家に、佐賀藩医&幕府奥医師・伊藤玄朴(1800~1871)、薩摩藩医&幕府奥医師・戸塚静海(1799~1876)、津山藩医・箕作阮甫(1799~1863)、佐倉藩医・三宅艮斎(1817~1868)、福井藩医&幕府奥医師・坪井信良、常陸府中藩医・手塚良仙の長男・手塚良庵(1827~1877)ら12名の蘭方医が、江戸にも種痘所を解説すべく集まりました。
「江戸にも」と言うのは、1849年(嘉永2年)の京都を嚆矢とする種痘所が、既に全国数か所で活動していたからです。
江戸の種痘所が出遅れたのは、京都に種痘所が開かれ大阪で緒方洪庵(1810~1863)が「除痘館」を開いたまさにその年に、幕府が「蘭方禁止令」を出していたからでした。
大槻俊斎は、陸奥国赤井村(現・宮城県東松島市)出身の蘭方医で、手塚良庵の妹・海香の夫です。手塚良庵は、常陸府中藩医・手塚良仙の長男で緒方洪庵の適塾で学んだ蘭方医です。「鉄腕アトム」「火の鳥」etc.の手塚治虫(1982~1989)は良庵の曽孫にあたります。
翌1858年5月、神田松枝町の幕府勘定奉行・川路聖謨(1801~1868)下屋敷に種痘所が開かれます。川路は蘭学の理解者でしたし、何よりも種痘所開設を許可した老中・堀田正睦(1810~1864)は「蘭癖大名」で、種痘所発起人の三宅艮斎ら自分の藩医に採りたてた人だったのが、「蘭方禁止令」が出ていた江戸で種痘所を開くには幸しました。
神田松枝町は、その昔お玉ヶ池があった処なので「お玉ヶ池種痘所」と呼ばれました。お玉ヶ池種痘所の頭取には、大槻俊斎が就任します。ただ、神田お玉ヶ池は町医者ではありませんでしたから、当時「お玉ヶ池の先生」と言えば、「北辰一刀流」の千葉周作(1793~1856:種痘所開所時は既に故人)でした。
ところが時はまさに、「安政の大獄」の真っ最中・・・・(井伊直弼ら14代将軍に紀州の徳川慶福を推した南紀派に敵対する)一橋派(=14代将軍に一橋慶喜を推したグループ)の川路聖謨は、お玉ヶ池種痘所開所の前日に勘定奉行の職を解かれてしまいます。
お玉ヶ池の屋敷を種痘所用地に提供した川路聖謨は、幼児期に痘瘡を患い、痘痕(あばた)が目立つ顔写真が今に残る人です。また、お玉ヶ池生まれとも言われる宝井其角の師・松尾芭蕉も、其角の友人(単なる弟子説も)・大高源吾も、既往症に痘瘡があったそうですから、「お玉ヶ池」という処は、元々(?)痘瘡には縁がある土地だったのではないでしょうか?
(手塚良庵の曽孫=)手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」には、このお玉ヶ池種痘所が出来た時のことが描かれています。そこには「種痘所設立資金據出者名簿」が大きく出ていて(全集版第6巻132ページ)、その名簿に「三宅艮斎、坪井信道、手塚良庵」の三名が、文字通り並んで載っています。(ただし、三宅艮斎の名前は「良斎」と、人数の83名は「82名」と誤記されています。)「陽だまりの樹」に描かれた「坪井道信」というのは、二代目信道(=坪井信友:1832~1867)のことです。よく考えると(考えるまでもなく?)このことは、何とも書くべきことなのではありませんか?!
明智光秀が、主君であり同志であった織田信長を斃した「本能寺の変」。それから275年後の江戸で、光秀の末裔である嶋原生まれの三宅艮斎と、信長の末裔である江戸っ子の二代目坪井道信(西美濃生まれの坪井信道の長男)、そしてその妹・牧の夫(で越中高岡生まれ)の坪井信良とが出逢っていたこと。出逢っただけではなく、力を合わせてお玉ヶ池種痘所の開設に尽力したということが、です。
「本能寺からお玉ヶ池へ」のお話は、ここまで来ると殆どゴールと言って良いでしょう。ただ、漫画「陽だまりの樹」では、「お玉ヶ池種痘所」が登場する第33章は「東京大学事始め」と題されています。
何故「東京大学事始め」なのか?その答は、次回お話しするといたしましょう。