吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2019:7:16日発行 第57号
本能寺からお玉が池へ ~その②~ 医師・西岡 曉
「夏がくれば思い出す・・・・・・・・」と歌われる尾瀬の水芭蕉は、実際には春に咲くようです。
それが「夏の思い出」になったのは、「水芭蕉」が夏の季語だからです。夏の季語と言えば、芭蕉さんの最高傑作と言われる俳句は夏の句で(季語は鵜舟)です。
おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな (松尾芭蕉)
さて「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れを辿るとしましょう。お断りしておきますが、このシリーズでは(テーマから離れるので)、「本能寺の変」そのものは採り上げません。悪しからず・・・・
この夏お届けするのは、織田信長と明智光秀の孫(一人ずつ)のお話です。「おもしろうてやがて悲しき」人生を駆け抜けたお二人です。
[2] 藤兵衛
(ガラシャの夫)細川忠興を藩祖とする熊本藩の家老・米田家の記録によれば、光秀の長女・岸(と夫・明知秀満と)の子・藤兵衛(1581~1637)は、明智家滅亡に際して坂本城から乳母が連れ出して落ち延び、藤兵衛が7歳の時叔母ガラシャの下に届けられ、その後はガラシャが育てることになったようです。
前回、ガラシャがキリシタンの息子と娘を遺したことを述べましたが、ガラシャが遺したキリシタンは、実はもう一人いて、それがこの藤兵衛でした。
ガラシャが遺したキリシタンの中で洗礼名が伝わっているのは、次女・多羅の「タリ―二ョ」だけで、藤兵衛の洗礼名も伝わっていません。
藤兵衛が19歳になると、義理の叔父・忠興が元服させて熊本藩士三宅重利とします。しかしそれもつかの間、藤兵衛には母代りだったガラシャに「散りぬべき時」が来てしまいます。育ての母とも言うべきガラシャは、遺書に「三宅藤兵衛事を頼候也」と書き遺しましたが、ガラシャ亡き後藤兵衛は細川家を去り、父・秀満の家老だった安田国継(1556~1597)が仕えていた縁で、肥前唐津藩祖・寺沢広高(1563~1633)に仕官しました。寺沢広高は、洗礼名アゴスティニョというキリシタンでしたが、ガラシャとは逆に、日本26聖人の殉教を受けて棄教します。ですから藤兵衛を召し抱えるにあたって広高は、藤兵衛にも棄教を迫ったことでしょう。
一方忠興は、自身がキリシタンになる事は勿論ありませんでしたが、亡き妻への想いからか、関ケ原の戦いの後小倉藩を興す(後に熊本に移封されるまで、細川藩は小倉藩でした。)にあたって大改築した小倉城の天守にキリスト教会(と同じ型)の鐘を釣って鳴らしました。
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ところで、藤兵衛を寺沢家に(本人の没後ながら事実上)誘った安田国継は、本能寺の変で大活躍した人です。
本能寺攻撃の先鋒を務め、誰よりも早く信長を槍で突き、森成利(乱丸の名で知られる信長の近習)を討ち取った武功を誇ります。明智家滅亡後国継は、「天野源右衛門」と名を変えて乱丸の兄・森長可(ながよし、長可の長は信長から戴いた字)に出仕し、その後信長の四男・羽柴秀勝を始め4人の主君を渡り歩いた後、寺沢広高に仕えましたが、その3年後(?)に自害しました。その日が、本能寺の変から15年後の同じ日だったため、国継の死は「信長の祟り」だと噂されたそうです。
1621年(元和7年)三宅藤兵衛は、二代藩主寺沢堅高(広高の次男)によって唐津藩の飛地だった天草の富岡城(@熊本県苓北町)の番代(=城代家老)に任じられています。
そして1637年(嘉永14年)10月、天草対岸の島原・有馬村で「島原の乱」が勃発します。その数日後、天草でも一揆勢が起ち、藤兵衛率いる唐津軍に挑みます。「主に結ばれて死ぬ(「ヨハネ黙示録」より)ことを望むキリシタン一揆勢の猛攻を受けて唐津勢は殲滅され、討死した藤兵衛は、一揆勢によって晒し首にされました。享年55
キリシタンは、藤兵衛が母のように慕ったガラシャが熱心に信心し、生命を捧げた教えです。そのキリシタンの一揆と闘い、「背教者」として命を落とすことになった藤兵衛の心中を想う時、(ガラシャ一周忌ミサでの忠興主従同様?)「涙を抑えることができず泣きぬれ」るほかありません。
[3] ペトロ
1578年(天正6年)、明智光秀の長女・岸の舅・荒木村重が信長に反旗を翻した時、村重の娘婿(=岸の義弟)塩川長満(1538~1586)は、村重を裏切って織田軍の先鋒として(村重の)有岡城(@兵庫県伊丹市)を攻めます。
その折、信長の嫡男・織田信忠が長満の山下城(@兵庫県川西市)に立ち寄ったことから、長満の娘・寿々(生年不詳~1633)が信忠に嫁ぐことになり、1580年、岐阜城で信忠の子を産んだとされています。これが信忠の嫡男(=信長の孫)三法師です(異説もあります)。奇しくも三宅藤兵衛の両親が結婚した年に生まれたのです。
その年、荒木勢は織田勢に敗れ、敗残兵が高野山に逃げ込みます。残党狩りの織田勢30余名全員が返り討ちに遭うと、信長は翌年夏、畿内で捕えた千人以上の高野聖を報復として安土で処刑しました。
その翌年塩川長満は、信長から中国攻めに出る明智光秀の与力を命ぜられますが、本能寺の変に際しては明智に与せず、秀吉のもとに走り、山崎の戦いでは高山右近らの摂津衆として先鋒を務めました。
本能寺の変で信忠は明智勢の伊勢貞興に(二条城で)討たれましたが、その嫡男三法師は、信忠の意志で(二条城から落ち延びた前田玄以に連れられて)岐阜城から清州城へと逃げました。一方、光秀の妻の父・妻木宏忠の孫・妻木頼忠は、妻木城(@岐阜県土岐市)で攻め手の乱丸の兄・森長可に降伏しました。この兄弟の末弟・忠政には後日(も後日、2年先)チラッと登場していただきます。
信長も光秀も逝って半月余り・・・・・1582年7月26日(天正10年6月27日)、信長の後継者を決める会議が清州城(愛知県清須市)で開かれました。その日、秀吉の肩に担がれて登場した三法師(若冠3歳?)が、信長の後継者に祀り上げられたことになっています(が、この話はフイクションのようです)。
三法師は、大叔父・織田信孝の後見のもと安土城に入ると決められますが、信孝は岐阜城から手放しませんでした。
さてその清須会議の6年後、三法師は僅か9歳で元服して織田秀信(1580~1605)となった後、13歳で岐阜城主になり、家臣・和田孫太夫の娘を娶り、後には女子一名を儲けました。
秀信は16歳(1595年)の時、思うところあってキリシタンになりました。ガラシャの子供たちとは異なり、洗礼名が伝わっています。
秀信はペトロ、弟・秀則も同時に洗礼を受け、同じく十二使徒の一人・パウロの名を戴きます。秀信の母・寿々姫も(墓のあるお寺の過去帳に載っていないため)キリシタンだったのではないか、と言われています。
秀信は、岐阜城下にキリスト教会、司祭館、病院を建立します。
ペトロ秀信には、この頃が26年の短い人生の中で最も心安らぐ日々だったのかも知れません。
それにしても、長い禁教時代を経て、岐阜に限らず([2]で述べた小倉を始め)日本各地の町で教会の鐘が鳴り響いたことが、すっかり無かったことにされたのが残念でなりません。
1600年7月、関ケ原の戦いを目前にして(ガラシャが「散りぬべき時」を迎えた頃)秀信は、家康の会津征伐に加わる構えを見せながらも、石田三成(1560~1600)の誘いで西軍に与します。その頃清州城は、福島正則が城主になっていて、東軍(の先鋒)を集結させていました。
8月22日、東軍が木曽川を渡って戦端が開かれます。木曽川北岸の米野の戦いで敗れた秀信は、岐阜城に籠城したものの落城必死となり、(兄弟揃って)自刃することにしました。しかし、東軍先鋒で前々城主の池田輝政の説得で、翌日、降伏開城したのです。
この戦いで秀信の義父・和田孫太夫は討死にし、岐阜城下の(教会を始め)キリシタン施設も焼失しました。
更に悲劇は続きます。大坂城で(西軍)人質になっていた秀信の妻は、関ケ原での西軍の敗戦を受けて、逃げ延びることを諦め、家臣の手で討たれることを選んだのです。ガラシャとは逆の立場にあった人ですが、同じころ同じような最期を遂げたのでした。
東軍の中では、「秀信に切腹を」との声も強かったようですが、家臣に秀信家臣の縁者が多かった福島正則の嘆願で助命された秀信兄弟は、岐阜城下で剃髪し、高野山に追放されました。
剃髪して表向き棄教した秀信兄弟でしたが、心中は潜伏キリシタン?ただ高野山にとってみれば、秀信兄弟はキリシタンである上に仏敵・信長の孫なので、入山を許す訳には行きません。
やむなく秀信兄弟は、高野山山麓の向副村(むかいそいむら、現・和歌山県橋本市向副)の善福寺に留まり、高野山の許しを待ちました。
その地で秀信は、地元の豪族西山家の娘・梅との間に長男・秀朝を儲けます。続いて別の豪族生地(おんじ)家の娘・町野を継室に迎えて、次男・恒直を儲けました。
更に別の娘との間に儲けた男子を、家臣・坪井佐治兵衛が連れ出して匿い、美濃国池田郡脛永(はぎなが)村(現・岐阜県揖斐川町脛永)に隠棲させました。
彼等信長直系の子孫は、明智家とは違った意味で、「織田」姓を名乗る事を憚られ、秀朝系は「西山」、恒直系は「織田(おりた)」、美濃脛永村に移った家系は「坪井」姓を名乗り、それぞれ小和の世まで(現在も続いて居られるかは未確認)存続されています。
後年ようやく高野山へ入山を許された秀信ですが、祖父信長を恨む人たちに苛められた挙句、高野山からはもん・追放させらてしまいました。
公式にはこの日(1605年5月8日)が秀信の命日とされていますが、向副村の伝承では、その三ヶ月近く後の7月27日に自ら命を絶ったとされています。
近江の聖衆来迎寺(‘大津市比叡辻、この寺の山門は坂本城城門と伝わります。)にもある秀信の位牌には「慶應十年七月二十七日」と書かれています。享年26(父・忠信と同じ齢)
世が世ならば、織田王朝(?)の三代目として栄華を極めたであろう男の余りにも寂しい最後でした。