津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■もうすぐ春ですねぇ♪♪

2023-02-11 12:01:19 | 徒然

            

 近所のお宅の菜園の片隅にある梅の木の新しい枝に花が咲いていました。
散歩コースを変えてこの梅の木を目指しました。
桜に比べ梅の木は、「梅切らぬバカ」という言葉がある様に、結構手入れが必要なのでしょう。
古い枝にはまったく蕾もありませんでした。
AP住まいの身ですから、ご近所のこんな景色を楽しませていただいています。
今日は太陽も顔を出し蕾もまた膨らむことでしょう。もうすぐ春ですね~~。

「増殖する俳句歳時記」に、松井秋尚と言う方の次の句がありました。

                  庭先の梅を拝見しつつ行く

                           

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑦~

2023-02-11 07:14:14 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2021:5:17日発行 第63号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑦~


 幸か不幸か、今年へ跨った大河ドラマ「麒麟がくる」ですが、2月には到頭その幕を下ろしました。あれから400年余・・・・・・・、それでも私たちは、相も変わらず「麒麟がくる」のを待っています(?)。
そして、パンデミックの嵐の中でも、春はまた廻って来ました。

   散る桜 のこる桜も 散る桜   (良寛)

 320年前の春、4月21日(旧暦3月14日)、江戸城中で赤穂浪士浅野内匠(頭)が高家旗本吉良上野介に斬りかかりました。「忠臣蔵」で有名な赤穂事件のきっかけになる事件です。
 ところで、「蕉門四天王」の一人として、「蕉門十哲」筆頭と言われる宝井其角は、師匠の芭蕉さん自らが「門人に其角嵐雪あり。」ととても高く評価した俳人です。其角には 

          かんそゆうせい    やぶ
   月花を医す 閑素幽栖の 野巫の子有り

 という自虐的な(と見せて自負を表明した?)句があります。ヤブ医者の子で詫び住まいの自分は、人ではなく「月花」の医療をしている、と嘯(うそぶ)いているのです。その其角の生家があったのは、江戸・神田お玉ヶ池と言われています。(本当は、日本橋堀江町説の方が・・・・)
 其角は「赤穂47士」の一人・大高源吾の俳諧の師匠で、この師弟には討ち入り前夜に(お玉ヶ池の東に架かる)両国橋で別れの歌を交わした、という逸話があり、歌舞伎「松浦の太鼓」の名場面にもなっています。

   年の瀬や 水の流れと人の身は  (其角)
   あした待たるる その宝船     (子葉)

 「子葉」は大高源吾の俳号ですが、この話は残念ながら史実ではないようで(其角の自作自演とまで言われていま)す。
 討ち入りの後赤穂浪士の中大石内蔵助始め17名が熊本藩お預けとなりました。その際、大石ら浪士を引き取りに赴いたのは熊本藩旅家老(他藩でいう江戸家老)だった三宅藤兵衛重経

です。「三宅藤兵衛」の名前で皆様お気付きでしょうか?この三宅重経は、明智光秀の孫・三宅藤兵衛重利の孫にあたる人です。
 当時の熊本藩主・細川綱利(1643~1714)は、ガラシャの曽孫なので、三宅重経と同じく明智光秀の玄孫です。
熊本藩が江戸下屋敷(@港区高輪1丁目:昨年上皇夫妻のの「仙洞御所」になった「高輪皇族邸」が建つ処」に浪士を預かるにあたって、夜中にも拘わらず綱利自ら出迎え、直ちに二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すよう命じました。
翌日からも連日御馳走でもてなして、大石らから「腹に凭れるので料理を軽いものにしてほしい。」と言われたほどです。細川屋敷で過ごす間に、大石は藩士たちの血筋を尋ね、それに答えて接待役の藩士・堀内伝右衛門は、旅家老・三宅重経のことを「少し訳あり」として「先祖が明智日向守(=光秀)家中の明智左馬之助(=秀満)」と語っています。
細川綱利は、幕府に浪士たちの助命を嘆願し、助命が叶えば赤穂浪士を細川家で召し抱えたい、とまで願ったそうです。しかしそれは叶わず、元禄16年2月4日、浪士たちは切腹して果てました。芭蕉さんの孫弟子の子葉=大高源吾もその日に(細川屋敷ではなく松山藩松平屋敷で)切腹しました。享年32。源吾は次の句を詠んでいます。

   山をぬく 刀も折れて 松の雪  (子葉)

 浪士たちが切腹した後、綱利は「彼らは細川屋敷の守り神である」として浪士たちの遺髪を貰い受けて屋敷内に供養塔を建てました。

 [9] お玉ヶ池(2)
 討ち入りの後、赤穂浪士は泉岳寺(‘港区高輪2丁目)を目指しますが、その折本所の吉良邸最寄りの両国橋ではなく、(武家屋敷街を通るのを避けるため、隅田川東岸の)一ッ目通りを南に下って一之橋を渡ります。もし両国橋を渡ったのであれば、その先(西)2㎞ほどにあるお玉ヶ池(「池は既に無く、地名としてだけですが・・・)がありました。それでは、ここで一旦お玉ヶ池へ戻りましょう。
 そもそも歴史をずっと遡れば、明智光秀が織田信長の(そして、自身のでもある)「天下布武」の夢を打ち砕き、徳川家康の「欣求浄土」の人柱に立ったのは、439年前(=1582年(天正12年))のことでした。
 家康が礎を築き、光秀・家康両雄の名を戴いた三代将軍・家光が仕上げた泰平の時代(=江戸時代)を経て、280年近く後の江戸の地で、光秀末裔である三宅艮斎と信長末裔である坪井信道(二代目)とが巡り逢いました。戦国の世に、生命を賭して戦うことで世のために生きる武将として出逢った者たちの末裔が、徳川幕府の落日の時代に再び見えた時、人々の生命を救い護ることを天職とする医師としてだったというのは、誠に感慨深いものがあります。そればかりではありません。見えただけではなく、世のため人のために(「植痘論文」にあるように)「力をあはせて」お玉ヶ池種痘所の開設に尽力したのです。彼等だけではなく、お玉ヶ池種痘所の「設立資金據出者名簿」には(手塚治虫の曽祖父=)手塚良庵の名が、(手塚治虫の「陽だまりの樹」では)文字通り並んで載っていることも、[6]でお話しました。
 嗚呼それなのに、お玉ヶ池種痘所は開所僅か半年で火事で焼けてしまいます。種痘所の再建にあたっては、ヤマサ醤油の濱口梧陵の資金提供が大きな力になったことを[7]でお話しました。お玉ヶ池種痘所が東大医学部の源流だと解った今となっては、(今では誰も気に留めないようですが、ほんとうは)我々卒業生は、ヤマサ醤油には足を向けて寝られないのです。もし日本がアメリカであれば(??)、「東京大学」は「濱口梧陵大学」だったに違いありません。アメリカの大学は(例えば「ジョンポプキンス大学」が「ボルチモア大学」ではないように)、開学時代の主な寄付者の名前を大学名にするようですから・・・
 手塚治虫の「陽だまりの樹」には、こんな台詞があります。
「大槻俊斎の家に集まった手塚良仙や伊藤玄朴達わずかな蘭方医の果てしない夢が東大医学部のもとを築いたのだった」この台詞の「わずかな蘭方医」の中に光秀の末裔・三宅艮斎と信長の末裔・坪井信道の両者ともが加わっていたのは、何とも素敵なことではありませんか!?
 余り知られていませんが、東大医学部発祥の地はお玉ヶ池種痘所(@千代田区岩本町2丁目)とされています。ですから東大医学部は、ここに「お玉ヶ池種痘所」碑と、ご丁寧にもう一つ別に「お玉ヶ池種痘所記念碑」を建てています。
その中の、「お玉ヶ池種痘所記念碑」の方は、「岩本3丁目」交差点に立っています。その碑文には「この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたる」とあります。かつて東大病院耳鼻科の加賀君孝教授は「東大病院だより」(44号)にこう書かれました。「種痘所の設立発起人は ・・・東大医学部のファウンダーでもある」
 前回述べたように、お玉ヶ池種痘所は(鉄枠の黒い板の門だったので)江戸の人々に「鉄門」と呼ばれました。今の患者さんが東大病院を「鉄門」と呼ぶことはありませんが、東大医学部関係者は今でも東大医学部や東大病院の事を「鉄門」と呼びますし、東大医学部の同窓会は「鉄門倶楽部」です。今時の東大医学性は、自分の学び舎の始まりが「お玉ヶ池種痘所」であったことを知る由もないかも知れません。でもそんな彼等も、いつの間にか江戸時代と同じ「鉄門生」と呼ばれるようになり、卒業すると「鉄門出身」の医師になってしまいます。そんな鉄門ですが、実は1912年に現在の正門が建つまでは(その由緒正しさからすれば当然かもしれませんが、医学部だけなく全)東大の正門だったのでした。
(是もあまり知られていませんが)一昨昨年・2018年は、東大医学部とその附属病院の創立160年の年でした。「東京大学医学部」の発足は本当は(?)その141年前(1877年)のことなのに、「160年」とはいったいどういう事なのでしょう?。それは東大医学部は「お玉ヶ池種痘所」解説をもってその「創立」としているからなのです。その証拠に(?)「お玉が池種痘所記念碑」には、「この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるので、その開設の日を本學部創立の日と定め・・・   
いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえ、また別に種痘所跡にしるしを立て記念とする」と書かれています。その「開設の日」とは、1855年(安政5年)5月7日のことでした。
 前回述べたように、「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、お玉が池種痘所が医学所、東京医学校、東京大学医学部へと姿を変えて来たことによって、明治の世に(「江戸」から改名したばかりの「東京」の)本郷まで流れ着いたのでした。
ここ迄に、光秀末裔の三宅艮斎と信長末裔の坪井信道が「力をあはせて」お玉ヶ池種痘所を開設したお話をして来ましたが、種痘所が「医学所」になった後もその教授の中には、艮斎、信良、爲春といった面々が居ましたので、医学所の時代になっても尚両家の協同は続いていたのです。
 東京大学の開学時には学部長職はなく、医学部長にあたる「医学部綜理」には、適塾&西洋医学所出身でベルリン大学に留学した池田謙斎(1841~1918)が就任します。そして4年後(1881年)、東京大学医学部に「学部長」が置かれ、初代医学部長になったのは、(三宅艮斎の長男=)三宅秀(ひいず:1848~1938)でした。「東京大学のファウンダー(の一人・三宅艮斎)」の息子が東京大学の最初の医学部長になったという訳です。東大医学部の公式サイトには「歴代学部長」のトップに(お玉ヶ池種痘所の初代頭取で手塚治虫の曽祖叔母の夫である)大槻俊斎を挙げています。「種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたる」からです。2代目は緒方洪庵、3代目に松本良順・・・ 
と続いて、7代目に佐藤尚中、そして(尚中の娘婿・)三宅秀は「東大医学部長」としては初代ですが「歴代医学部長」としては14代目の位置に挙げられています。

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