津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「丁丑戦争日報」ー(1)

2023-02-12 08:55:28 | 史料

      読み下しにチャレンジしていますが、読めない字(■)が多く御見苦しい限りです。
丁度そんな中、23日付けの「西郷隆盛の全軍に出した指令書」なるがメールで届きました。その読み下しに悪戦苦闘中です。

    晴 夜陰
     二月廿一日
      旧二月九日
    前九時比間島発足竹           午前九時ころ、間島(熊本市東区秋津町秋田)を発足、竹
    宮ヨリ過保窪野店         宮(たけみや=健軍)より、保窪(保田窪?)を過ぎ野店で
    一酌事 新南部・小関渡         お酒を飲む、新南部から小磧(おぜき)で(白川を)渡り
    三時至立田祠堂一宿        三時に立田の細川別邸(現泰勝寺跡)御祠堂に至りて一宿す
    熊本為破裂弾           熊本城下は破裂弾で
    被焼昼終夜焔烟          焼かれ、昼・終夜共に焔烟(炎煙)が
    漲天曉明後橋辺薩         天にみなぎり明五橋あたりに薩
    人進撃有砲声           兵が進撃して砲声がある

    晴
     二月廿二日既
      旧二月十日
    前七時大小砲声■塁         午前七時大小の砲声■塁
    焔烟漲天薩兵渡          焔烟(炎煙)天にみなぎり薩摩の兵が
    子飼橋安政橋九時         子飼橋・安政(安巳)橋を渡り九時
    既至寺原岩下           既に寺原・岩下に至る
    西南祇山ヨリ四方池小       西南の祇園山(万日山)より四方池~小山田
    山田本妙寺田端■■         小山田、本妙寺田畑■■
    辺薩兵悉■            あたりに薩摩兵が悉く■■
    ❍樋口列北丘ヨリ多        ❍樋口氏(細川邸の家扶=樋口定か)北岡邸より多・・・
                       (列=同志の意)

 

    耒ル               来る
    三姫君布田郷錦埜        (細川護久侯)の三人の姫君(喜寿・宣・志津姫)は布田郷錦野
    村赤星廣克宅へ          村の赤星廣重(弘重)宅へ
    御轉住              お転住になる(3月14日迄20泊)    熊本大学・三沢純准教授‐御姫様たちの西南戦争
    日田藩兵三百斗■         日田藩の兵士が300人ばかり■
    小川ヨリ白川辺ヲ廻テ       小川より白川あたりを廻って
    小関橋ゟ経塚ヲ経         小磧橋より経塚をへて
    テ植木ニ至り援兵           植木に至りて援兵
    ヲ迎撃ノ策ナルヘシ        を迎撃する策なるべし 
    鎮城攻撃尤急ナリ         鎮城攻撃尤急ナリ
    夜月入ノ比ヨリ城ニ女       夜月が入るころ城に女(がいる?)       
    ノ風評ニテ双方ノ         との風評があり、双方の
    砲声互ニ発曉ニ撤         砲声が互いに発し、暁に徹
    シテ不止 ❍休焉殿ニ        してやまず ❍細川休焉(忠顕=内膳家9代)殿と
      對話曉五時ニ至         対話する 曉五時に至り
           就寝                 就寝する 
     陰
    晴二月廿三日
      旧正月十一日
    攻撃手頻響飯後          攻撃の手が頗る響き、(朝?)飯の後
    祠堂ヨリ引取津崎         立田の細川邸御祠堂を引き取り、津崎
    新旧屋敷ニ至下          新(か)
の旧屋敷に至る 下
    田家共皆無恙           田家共皆つつがなく・・・
    

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