吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2020:10:21日発行 第62号
本能寺からお玉が池へ ~その⑥~
長い中断があった大河ドラマ「麒麟がくる」も、この秋、ようやく中盤、明智光秀がいよいよ歴史の舞台にデビューします。
ちり際は 風もたのまず けしの花 (宝井其角)
「蕉門十哲(言うまでももないでしょうが、芭蕉さんこ高弟トップ10のことです。)筆頭と言われる宝井其角は、[3]で述べた芭蕉さんの臨終の際、死に水を取った九人の御弟子さんの一人です。其角は、一説には江戸・お玉ヶ池生まれとも言われています。ここで詠われた「けし」は、勿論アヘン芥子ではなく、雛罌粟(ひなげし)のことです。
実はこのシリーズ=「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、前回までで一区切りなのですが、いま少し後日譚にお付き合い下さい。「風もたのま」ない潔さのけしの花や「散りぬべき時知りて」いる桜花と違って、往生際が悪くて済みません。
[7] 和泉橋
前回お話したように、1858年(安政5年)、江戸・神田の幻の池・お玉ヶ池のあった処に種痘所が開かれました。
この時の江戸の蘭方医たちの「據金」は580両と伝わっています。ただそのうち幾許(いくばく)か(かなりの額かも・・・は、実は(頭取になった大槻俊斎の以前からのスポンサーだった)蘭方薬種商・神崎屋=斎藤源蔵が提供したそうです。
ところがお玉ヶ池種痘所は、開所して僅か半年にして火災で焼失してしまいます。再建にあたって、その間に失脚した川路聖謨の拝領地はもう使えません。下谷和泉橋通の(種痘所発起人の一人)伊藤玄朴宅の近くの旗本・山本嘉兵衛と安井甚左衛門の地所を借りることで用地はすぐに見つかりましたが、設立時に既に多額の資金を「據出」した蘭方医たちにはもう資金がありません。そんな時、救いの手が(発起人の一人=)三宅艮斎に伸びてきたのです。艮斎の盟友だったヤマサ醤油の濱口梧陵が、300両もの大金を提供してくれました。そればかりか、種痘所再建の後も更に400両を医療機器や図書の費用として寄付してくれたのです。翌年再建された種痘所が配った「植痘諭文(うえぼうそうさとしぶみ)」には、「・・・・奇特の人の費(ついえ)を助け力をあはせて又々下谷和泉橋通り藤堂家に再營て・・・」とありますが、この「奇特の人」こそ濱口梧陵だったのです。(神田お玉ヶ池から下谷和泉橋通に)場所を変えて再建された種痘所は、(江戸では唯一無二)のものだったので、再建後も「お玉ヶ池種痘所」と呼ばれ続けます。お玉ヶ池種痘所は、黒塗りの厚板を鉄板で囲い鋲釘を打って門扉にしたので「鉄門」とも呼ばれました。なお「お玉ヶ池」は当時既に「池」としては存在しませんでしたが、「和泉橋」は、今に至るまで(何度か焼けて架け替えられてはいますが、現在の「昭和通り」が神田川を渡る橋として)しっかり架かっています。
一年後種痘所は、同じ下谷和泉橋通の藤堂藩上屋敷跡地(現・千代田区神田和泉町。現在の「三井記念病院」の建つ所です。)に移り、幕府直轄となりす。この「下谷和泉橋通」の地名は、藤堂屋敷の主が代々「藤堂和泉守」であったことにに由来しています。そして更に一年後、種痘所は遂に「お玉ヶ池」の名と別れを告げます。「西洋医学所」と名を改めたのです。本シリーズは、どうやらここからは「本能寺から和泉橋へ」と読み替えて頂かねばならないようです。
翌年、西洋医学書頭取の大槻俊斎が胃癌で死去すると、幕府の招聘を受けた緒方洪庵(1810~1863)が二代目頭取に就くことになって(渋々)江戸にやって来ます。その次の年「西洋医学所」は「医学所」になりましたが、僅か4か月で緒方洪庵は喀血で急死したため、医学所は頭取を喪ってしまいます。洪庵が倒れたとの知らせを受けた(洪庵の適塾で塾頭を務めた)福澤諭吉(1835~1901)は、芝新銭座(の自宅)から下谷和泉橋通の医学所頭取屋敷迄駆けつけたそうです。
去年の大河ドラマ「いだてん}に「芝から日本橋まで走る馬鹿どこにいる」という台詞がありましたが、勿論そんなことは言っていられません。「福翁自伝」には、こう書かれています。「下谷に居た・・・急病とは何事であろうと、取るものも取敢えず即刻宅を駆出して、・・・新銭座から下谷まで駆詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう綷切れて仕舞った跡。」
緒方洪庵の次の頭取には、松本良順(1832~1907)が就きました。良順は、順天堂学祖・佐藤泰然の次男で、長崎海軍伝習所でポンぺ(本名:ヨハネス・ポンぺ・ファン・メールデルフォールト)に師事した蘭方医です。洪庵の(適塾流の)語学中心の講義は、良順によって(ポンぺ流の)医学中心の講義に改められました。
1868年(慶應4年)正月、戊辰戦争が起ると医学所は(幕府軍の)傷病者治療所になり、新選組の近藤勇や沖田総司も受診したことがあります。近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現・調布市野水)出身で、西光寺(@調布市上石原1丁目)に坐像(2001年建立)のある調布所縁の人です。
その年の4月に新政府軍が江戸に入ると(近藤勇は、4月25日に板橋で処刑されました。)医学所頭取の松本良順は幕府軍軍医として会津に去り、学生の多くも離散したため、医学所は休校状態となり、遂にはその年6月に新政府に接収されました。そして7月になると、横浜の「(新政府)軍陣病院」が下谷和泉橋通の藤堂家上屋敷跡地(の医学所の隣地)に移転して来ます。軍陣病院は「大病院」と名を変え、その取締役(=院長)には薩摩藩医・前田伸輔が就きました。9月慶應から明治に改元され、10月、大病院取締役はオランダ(ユトレヒト大学)留学から帰国して朝廷初の蘭方医になった緒方惟準(これよし:洪庵の次男)に、更に翌年の正月には薩摩軍医・石上良策へと替わります。
1869年(明治2年)2月、医学所は大病院に九州合併されて「医学校兼病院」となり、その年の12月には「大学東校(とうこう)」と改名しました。これは、新政府が昌平学校を「大学校本校」、開成学校を「大学南校」に改名したのに合わせたものです。大学東校の校長には、順天堂第二代堂主・佐藤尚中(1827~1882)が招聘されました。佐藤尚中の次女・藤は、後に三宅秀(ひいず=艮斎嫡男)の妻になる人です。
1871年、休校中の大学侯本校が廃校となったことで、大学東校は単に「東校」となります。
1872年、学制が施行されて全国が8つの「大学区」に分けられたのに伴い、東校は「第一大学区医学校」となりますが、佐藤尚中の構想した5年制でドイツ語授業の「正則」と3年制で日本語授業の「変則」、という二部制が採用されなかったため尚中は辞職します。後任の校長は、順天堂&西洋医学所出身の長谷川泰(1842~1912)でしたが、僅か一月で(同じく順天堂出身で佐賀藩医だった)相良知安(1836~1906)に替りました。
1874年(明治7年)8月、第一大学区医学校は「東京医学校」に改名し、同年10月、校長が適塾&(長崎の)医学伝習所出身の長与専斎(1837~1902)に替ります。
[8] 本郷
東京医学校は、1876年(明治9年)11月、本郷の加賀藩上屋敷跡に移転しました。現在の東京大学本郷キャンパスです。その折種痘所の「鉄門」も移築され、医学校の正門になりました。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、灯台のシンボルだと思われている赤門(重要文化財)は、1827年(文政10年)建立の加賀藩上屋敷御守殿門をそのまま使ったものです。
さてこうなると「本能寺からお玉ヶ池へ」は再び読み替えて頂かねばならなくなりました。ここからは「本能寺から本郷へ」となります。
本郷に移った翌年の1877年(明治10年)、東京医学校は東京開成学校と統合されて「東京大学」になりました。東京医学校改め「東京大学医学部」の誕生です。前回予告しました何故「お玉ヶ池種痘所」が「東京大学事始め」なのか?の答がこれでした。
東大医学部の前身の東京医学校(さらにその前身の第一大学区医学校、大学東校、医学所、お玉が池種痘所)は、本郷の加賀藩上屋敷跡に移るまで下谷和泉橋通の藤堂藩上屋敷にありました。私事になりますが、私は藤堂藩の領国=伊賀上野の生まれなので、東大医学部とは藤堂藩を介してしょっとした繋がりがあることになります。もっとも、恥ずかしながら私自身その繋がりに(在学中に止らず卒業後幾十年もの間)毫も気付くことがありませんでした。
と言うことで、伊賀上野出身の芭蕉さんの秋の句を一句・・・ 三宅艮斎・秀父子の先祖(であり、我が家の先祖とも伝わる)・明知光秀の妻を詠んだ句です。
月さびよ 明智が妻の話せむ (芭蕉)
1689年(元禄2年)秋、芭蕉さんが「奥の細道」の旅の直後に弟子の又玄(ゆうげん:本名=島崎清集。伊勢神宮の神職)の家に泊まった時、当時落ちぶれて貧しい暮らしをしていた又玄夫妻の手厚いもてなしを受けたことに感激してこの句を詠んだそうですが、この「明智が妻の話」には解説が必要でしょう。福井県坂井市にある古刹・称念寺の公式サイトには、こう書かれています。
「(光秀は)称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。・・・朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを称念寺の住職が設定します。・・・光秀には資金がない中、妻の熙子がその資金を黙って用意したのでした。・・・煕子が自慢の黒髪を売って、用立てたものでした。光秀はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのです。
この「明智が妻の話」はあくまでも伝承で、「煕子」という名を含めた史料には記載がありません。「明智が妻の話」には、婚約後に痘瘡(天然痘)に罹って痘痕が残ったために妻木家が嫁入りを躊躇ったところ、光秀はそれを歯牙にも掛けずに娶ったという話もあります。それを想うと、彼等の末裔・三宅艮斎がお玉ヶ池種痘所の発起人になったことには、とても不思議な因縁を感じます。