津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■参戦・キュレター・バトル

2023-02-21 18:34:16 | 徒然

 コロナで全世界で行動が制限されると、例えばジャズ・ミュージシャンがPC画面を通じて演奏をしたり、某美術家のキュレーターが博物館や美術館に対して「キュレータバトル」と称してツイーターで不思議な所蔵品を見せ合ってバトルをしようと持ち掛けたりした。
これが受けて世界の博物館・美術館が共鳴、珍奇な絵や品物が紹介され大うけして広がったらしい。
目ざとくNHKがこれを見て、日本でTV番組にしたいと申し出ると快諾されて出来た番組が「キュレーターバトル」である。
タイピングに疲れてたまたまTVのスイッチをいれたらこれが放映されていた。
今回放映分は2022年2月4日分の再放送である。 オンライン展覧会 #ナゾすぎる

    1、板橋美術館    五百羅漢図
    2、国立科学博物館  ヘビのへミペニス
    3、山種美術館    裸婦図
    4、静嘉堂文庫美術館 地獄極楽めぐり図
    5、北九州市立美術館 マネとマネ夫人像

それぞれが大変面白かったが、1の五百羅漢に大変興味をそそられた。クローズアップ写真をご覧いただくと、法華経の経典が一筆書きの如くに綴られている。ある方が半年がかりで一筆書きの様に途切れのないその経典の動きを解明されたというから恐れ入った。
「参戦」としたのは、永青文庫に7代藩主・宗孝夫人静證院が書いた自画像があるが、この絵は南無阿弥陀仏の六字名号で輪郭線や打掛の模様などが描かれているものがある。(細川家の700年・永青文庫の至宝 掲載)
参戦されないかなと淡い期待をしながらご紹介申し上げる。次の放映は予定されていないようだが年1位なのかもしれない。

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑪~

2023-02-21 07:00:25 | 歴史

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:2:22日発行 第67号
     本能寺からお玉が池へ ~その⑪~        医師・西岡  曉


     桜ばな いのち一ぱいに咲くからに 命をかけて
        わが眺めたり   (岡本かの子)

 春がまた廻って来ました。日本の春と言えば、桜ですね。岡本太郎の母・かの子(1889~1939)も桜が大好きで、桜を詠った歌を数多く遺しています。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、岡本かの子には精神疾患の既往があり、精神科の入院歴もあります。入院したころの桜(の幻覚)を詠んだ歌があります。

     ふたたびは 見る春無けむ 狂人のわれに咲きけむ
        炎の桜   (岡本かの子)

これらのかの子の歌に加えて、ここでは俳句「桜」を味わってみましょう。何と言っても(?)「お玉ヶ池」は元々は「桜が池」だったのですから・・・・・

             花の雲 鐘は上野か浅草か   (芭蕉)

 この句は、芭蕉さんが江戸・深川の芭蕉庵(その北西3Kmほどに後年、「お玉ヶ池種痘所」が開かれます。)で詠んだもので、「上の」は「寛永寺時鐘堂」、「浅草」は「浅草寺弁天山鐘楼」を表しています。「時鐘」の文字でお解りと思いますが、当時江戸市中にあった「時の鐘」に中の二つを芭蕉さんが実際に聴いて詠んだ句です。何とその鐘は、二つとも(300年以上経った)今でも現役(毎時ではなく、日に2,3度だけにはなっています。)なので、私たちも聴くことが出来ます。

                                              上野寛永寺時鐘堂

 余談になりますが、江戸の「上野」という地名は、芭蕉さんの故郷である伊賀上野から採ったものだというのを御存知ですか?「そんな馬鹿な?」と(またもや)言われそうです(し、伊賀の他の地域では勿論異説があります。)が、藤堂高虎(1556~1630)が江戸下屋敷を建てた際、その地「忍が丘」(の地形?)が伊賀の上野に似ていたので、地名を「上野」に改めたと言われています。藤堂高虎の墓所は、江戸下屋敷内に造られ、今では(余り知られていませんが、その周りは)何と上野動物園(?)になっています。
寛永寺は、高虎の江戸下屋敷の敷地に建てられ、そのことは芭蕉さんの耳にはどのように響いたでしょうか。

 [13] 本郷(3)
 余り知られていませんが、春日局は徳川家光(1623~1651)の生母(異説の筈の浅井江(秀忠のの正室。信長の姪)生母説が通説になっています。)であり、家光の小姓に先夫との子・稲葉正勝を付け、家光を将軍に就けるのに尽力し(たことはよく知られています。)、そのことによって父・斎藤利三(家光が春日局の子なら利三は祖父)が主君・明智光秀と共に目指した天下泰平を成し遂げました。それこそが「本能寺の変」で斎藤利三を始めとする明智一族郎党が掲げた旗幟でもあったのです。
 1625年(寛永5年)、家光が痘瘡に罹ると、春日局は(日光)東照宮に詣でて「家光の病気平癒の暁には、その後一切薬を服用しない。」と誓いを立て、程なく家光が回復したため、局は本当に終生一切の薬を飲まなかったそうです。
「本能寺の変」から280年近く後、明智光秀末裔の三宅艮斎が発起人(の一人)となって、「お玉ヶ池種痘所」が開設され、更にその18年後、その種痘所を源流とする「東京医学校」が、春日局が眠る枳殻寺((からたちでら)とよばれる麟祥院)のほど近くに移って来たことは、何か不思議な深い縁を感じずにはいられません。
「お玉ヶ池種痘所」の発起人(の一人)坪井信良の長男・坪井正五郎(東京帝国大学初代人類学教授:1863~1913)は、母が坪井信道の娘なので、織田信長の末裔になりますが、「本能寺の変」の斎藤利三の娘・春日局の眠る麟祥院の境内にあった湯島小学校に通っていたことがあります。東京23区内で最古(都内では2番目)の小学校である湯島小学校は、その後1876年(明治9年)に(麟祥院の南西約400mの)湯島新花町(現・文京区湯島2丁目)に移転して現在に至っています。
 その同じ齢に東京医学校は本郷に移転しましたが、その時の校長は長与専斎(1838~1902)です。専斎は、肥前大村城下に生まれ緒方洪庵の適塾に学んだ大村藩医で、適塾では福沢諭吉の次(11代)の塾頭を務めました。そして東京医学校が「東京大学医学部」に(なった時の「医学部綜理」は池田謙斎(適塾、西洋医学所出身。三宅秀と同時に日本初の医学博士になったひと。)ですが、)なると、最初の「学部長」には三宅秀が就任しました。

                                      本能寺焼討之図(楊斎延一)

 さてここで、「本能寺の変」で坪井信道の先祖・織田信長を槍で突き、森乱丸を討ち取った安田国継が後に仕えた乱丸の兄・森長可(ながよし:1558~1584。美濃金山城(@岐阜県可児市兼山)主。実は[2]で既に登場されています。)にお出まし頂きましょう。長可の「長」を頂戴した主君・信長と血を分けた弟・乱丸の仇である国継を雇うという器量の大きさに関心させられる人です。森長可は、「本能寺の変」の2年後「小牧・長久手の戦い」で羽柴秀吉に与して徳川家康と闘い、その戦に敗れて討ち死にしました。享年27。
話は変わりますが、長可・乱丸兄弟の末の弟・森忠政(津山藩祖;1570~1643)の正室は、大蔵姫と呼ばれる姫です(森家や明智一族・三宅家の記録にはありません。)が、(創建1200年超の)世界遺産・春日大社の摂津での荘園目代(≒代官)である今西家の記録によれば、「第36代今西春房(ときふさ)と明智光秀の娘・美津([1]で挙げた光秀の娘たちには含まれていません。)との娘」となっています。それが史実であれば、長可の弟・忠政もまた、主君信長と兄・
乱丸の仇の孫娘を妻にするという器の大きな人だったのです。
 一昨年[3]で「各地の町で教会の鐘が鳴り響いていたことが、・・・無かったことにされた」とぼやいたことがありましたが、森忠政の築いた津山城(@岡山県津山市山下)は、天守の南蛮鐘を徳川幕府の終焉の日まで鳴らし続けた唯一の処とされます。その南蛮鐘は、1616年(元和2年)に城の新築祝いとして細川忠興(=ガラシャの夫)から贈られたもので、今では大阪の南蛮文化館に在って、開館期には当時の鐘の音を聞くことが出来ます。忠興が忠政に南蛮鐘を贈ったのは、忠政の正室が妻ガラシャの姪だという縁からなのでしょうか?(裏付けとなる史料はありません。)津山と言えば、お玉が池種痘所資金據出者筆頭の箕作阮甫は、津山生まれの津山藩医です。
 森忠政の兄・森長可の遺言状が、名古屋市博物館に遺されています。そこには「おこう(長可の娘とされています。)は武士ではなく、京の町人、例えば医者のような人に嫁がせるように」という意味のことが書かれています。「人間無骨」(その槍で突けば人の骨など無いに等しい、の意)と彫られた槍を振るい、「鬼武蔵」と呼ばれた長可ですが、その長可が、娘を医者(のような仕事の人)に嫁がせたかったというのは、戦国武士の人生が如何に厳しいものだったかを物語っています。
 戦国時代ではありませんが、大高源吾(=討ち入りの後切腹した赤穂浪士の一人)の介錯人を務めた松山藩士・宮原久大夫は、高名な俳人・子葉でもある源吾を討たなければならなかった武士という職業を儚んで藩を辞して武士の身分も捨てて酒屋に転職したそうです。武士の身分を捨てて作家になった人もいます。越前吉江(現・福井県鯖江市)藩士の三男(で母の実家が医家)の杉森信盛は、27歳頃に浄瑠璃作家・近松門左衛門(1653~1724)となりました。ご存知のように近松は「曽根崎心中」で有名で、その忌日は巣林忌、近松忌として冬の季語になっています。

    降りそめし 浮世の雪や 近松忌  (茂野六花)

 茂野六花は、新潟医大卒業の法医学者で新潟大学医学部長→学長を務めた茂野録良(1926~1985)のことですが、その俳号は、法医学と俳句双方の師匠・(俳句雑誌「ホトトギス」の)高野素十(1893~1976)から戴いたものです。
 また、武士の身分を捨てて絵師になった人もいます。「江戸琳派の祖」と言われる酒井抱一(1761~1829)です。抱一は、大名家(祖父や兄が姫路藩主)に生まれながら、37歳の時武士を捨てて出家し、後に絵師となって活躍した人で、大高源吾の師・宝井其角を敬愛する俳人でもありました。ただ、抱一の場合、武家を捨てた理由は、(長可や久大夫のように)武士という職業を儚んでという訳ではなかったようですが・・・
娘を医者(のような仕事の人)に嫁がせたい、と言う森長可の遺言は、坪井信道の先祖である織田信長が好んで(大河ドラマ「麒麟がくる」でも)舞った幸若舞「敦盛」の原作とも言うべき「平家物語・巻第九」に書かれている「・・・あはれ、弓矢をとる身ほど口惜かりけるものはなし、武家の家に生れず、何とてかゝる憂き目をば見るべき。」(【現代語訳】ああ、弓矢で戦う武士ほど嫌なものはない。武士の家に生まれなければ、今頃こんな辛い目に遭うことはなかった筈だ。)という台詞に重なるものがあります。
 そしてそれはまた、光秀の子孫(である三宅重之の娘聟・休庵、元哉、玄碩、英庵、艮斎(やその兄たち))も、信長の子孫(である坪井信道、(二代目信道=)信友、信道長女・牧の夫・信良、信道次女・幾の夫・為春)も江戸時代には医業を生業としたのを知っている私たちには(そして、こちらで知って頂いた読者の皆様にも、恐らく)酷く重く響いて来ます。更には、光秀の子孫との家伝を持つ者がこの時代に医師として暮らしていることにも、ずっしりとした重み、歴史的運命とでも言うべきものを感じずにはいられません。(大袈裟ですか?ならば、お口直しに酒井抱一の句を・・・ 抱一は、絵のみならず宝井其角の流れを汲む江戸座俳諧の俳人でもあり、狂歌や戯作の作者としても盛んに活動したマルチタレントでした。)

    晴れてまた しくるゝ春や 軒の松   (酒井抱一)  

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