津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明智家系喜多村系図に関する強力な補強資料

2023-02-07 07:39:43 | 史料

 このブログを始めて7月が来ると、満19年になる。
一番うれしいのは読者の思いがけない反応である。励ましや貴重なご意見や知見、また貴重なデータの提供など有難いご連絡をいただく。
先にご紹介した「明智家系・喜多村系図」に係わるご紹介論考に対し、この度ご厚誼をいただいているツツミ様から、これを強力に補強
することができる資料をコメントとして頂戴した。

コメントまでは目を通されるされる方は少ないのではないかと思い、御承引をお願いし全文をここに再掲する。
これにより「明智家系・喜多村系図」の信憑性がより増したと私は理解している。皆様のご意見を給わりたい。
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西郷局の親戚?

津々堂様
『柳営婦女傳系』の、徳川秀忠生母西郷局(寶臺院)の父とされる蓑笠之助(服部平太夫)についての説明に、
この話題(■弥兵衛・弥平兵衛・弥次兵衛)と関係ありそうな記述が有りますので、参考までに紹介いたします
漢文調の部分は読み下しています)。


「蓑笠之助、始は服部平太夫と云て伊賀の者也、其頃伊賀の名張の城主を服部出羽守保章(『玉輿記』に保景)と
云ひ、明智日向守舅也、明智反逆の時、家康公泉州堺に御座に付、平太夫早速馳せ参じ、此日堺の町人今井宗薫方
に茶湯して御入り故、罷り越し委細を告げ申す、驚かせられ評議の上、堺を御立ち、伊賀越えなされ、三州へ御帰
り有しと。彼の名張の城下御通りこれ有りたき故、城主出羽守は平太夫一族故彼の仰せ入れしかども、猶御用心に
て、山路の間道を御通り遊ばされ、此の路次御忍びなれば、平太夫蓑笠を奉れば是を召さる、夫より平太夫を蓑笠
之助と改號すべしと仰せ付けられ、常に近仕す。」

「彼の服部出羽守は明智滅亡に付沈淪し、江州北村に蟄し、北村と改稱す、その子孫、常憲公(綱吉)御代に松平
(柳沢)美濃守吉保を便り(ママ)、召し出されたき旨願ふと云へども、彼の出羽守が子との傳來のものは、光秀
が幼息にて嫡孫の由なれば、實父明智障りと成りて事調はず、之に依り是非無く、松平右近將監家老某が養子と成
る。」


付された系図を見ると、平太夫と出羽守は従兄弟の関係になっており、これが正しければ、西郷局と光秀の妻は、
またいとこの関係になりますが、平太夫を養父とする史料もありますので、真偽のほどは不明です。いずれにせよ、
喜多村を名乗る光秀の子孫の存在を、幕府が認識していた事は確かなようです。

ちなみに、江戸町年寄の喜多村家についても、大田南畝の『一話一言』や、『東京市史稿』などに採録されている
由緒書きが有りますが、明暦の大火以前の記録は焼失しておりはっきりしない、とされています。

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■猪俣先祖代々系圖

2023-02-07 07:06:33 | オークション

           文禄2年(1593年) 猪俣先祖代々系図 巻物 武家文書  和本 古書 古文書

            巻紙の一部

 私の母は T 家から嫁いできた。T 家の実父という人は若死にしたようだ。その3代くらい前の当主は、我が家から養子に入っている。
我が家の先祖はあまり出世とは縁がなかったみたいだが、T 家に養子に行ったこの人優秀だったのだろう、代々御番方の家ながら奉行副役迄なった。
伯父に言わせると、家禄(150石)からすると随分裕福だったと言っていたが、その人のことだろう。
家禄に加えて、副奉行としての「お足し高」があった。明珍の鎧があったとか自慢していたが、この話は随分盛ってある様に思える。
その T 家は、遠祖は「猪俣氏」だという。先祖附自体が火災で失われたらしく、あまり詳しいことが書かれていない。
ヤフーオークションに猪俣氏系図が出品されていた。少々気に成って応札するつもりでいたところ、入札時刻ころ読書に夢中になり、気が付けばすでに
どなたかが落札・・・しょぼんです。

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