今朝の熊本はあいにくの雨模様である。そんな中、コロナのブランクを埋める様に、今日は熊本城マラソンが3年ぶりに開催され、待ち望んでいたランナーたちが熊本城下を駆け抜ける。
奇しくも146年前のこの日は熊本城が炎上した日である。
多くのランナーたちがスタートしていくさまをTVでみていると、さぞかし146年前も形こそ違え、「射界の清掃」のために城下は火の海となり、人々は逃げ惑ったことを思うと、複雑な思いがする。数万のランナーはこの事を御存じだろうか?
平和の象徴のような「マラソン大会」、一方は「戦時の喧騒」とシーンの様相はまったく違えど二つの時代の喧騒がダブって見える。
朝早く御姫様三人が避難のために北岡の細川邸を脱出されて立田邸に逃れられる。
官軍から事前通告があったと思われ、その後城下に火が放たれる。「射界の清掃」である。
そして、谷干城將軍は専任従卒の村上軍曹に命じて密かに大天守と小天守の地下に積み上げさせておいた薪などに火をつけさせたのである。
この事実を姉が務める学校を訪れた際、偶然に用務員の話を聞き取ったのが、隈本商業学校の教諭で、二天一流・第8代師範の青木規矩男氏(1969・2・11死去)であった。
(宮本武蔵(藤原玄信)→寺尾求馬助信行→寺尾郷右衛門勝行→吉田如雪正弘→山東彦右衛門清秀→山東半兵衛清明→山東新十郎清武→青木規矩男→米原亀生)
この時はすでに谷干城は亡く、自分が死んだら熊本城の焼失の原因は闇の中になるからと、用務員を務めていたかっての谷将軍付きの従卒村上軍曹(当時55歳)が語っている。明治40年代の話である。そしてこの事は50年は秘すように言われたという。
熊本日日新聞が「近代肥後異風伝」(井上智重氏編)にこの事実が取り上げられたのは、青木の死去から34年後の2002年5月21日のことである。
昨日は熊本史談会の講演会で、勇 知之先生の講演を拝聴したが、熊本城の焼失についての先生のご見解は誠に明快で、谷将軍の指示に基づく上記「自焼説」である。
我が意を得たりという思いでお聞きした。
会員の他多くのビジターの参加を見て盛会であったが、市民の皆さんの大方の方は納得されたのではなかろうか。
吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2022:2:22日発行 第66号
本能寺からお玉が池へ ~その⑩~ 医師・西岡 曉
春立つを よろこぶ人に似る霰
少し落とせる 正月の空 (与謝野晶子)
「じんだい}読者の皆様、あけましておめでとうございます。
「本能寺の変」440周年の年の幕開けです。この年が、読者の皆々様にとって素晴らしい飛躍の年になりますように !
[12] 和泉橋(2)
「正月の空」も早や三度、それでも「本能寺からお玉ヶ池へ」の道行はまだ続きます。
ではありますが、その前に「お玉ヶ池種痘所」再建の功労者について今一度振り返っておきましょう。
作ねん秋に、大正・昭和時代の法律家&医史学者・山崎佐が講演で「お玉ヶ池種痘所が後に・・・ 東京帝大医学部となって・・・ これ等は実に三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績であること」と語った話をしました。「本能寺」から・・・ の流れを「お玉ヶ池」に流れ着かせたのは「三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績」(「浜口吉兵衛」は山崎佐の誤記で、本当は「浜口儀兵衛」。ヤマサ醤油7代目の濱口梧陵のことです。)だというのです。「本能寺」から「お玉ヶ池」へ流れ着くにあたって、明智光秀の末裔である三宅艮斎に「力をあはせて・・・ 種痘所を再營・・・」(「種痘喩文=うえほうそうさとしぶみ)」Byお玉ヶ池種痘所)いた江戸の蘭方医たちの中に織田信長の末裔である坪井信道(二代目とその親族)がしっかりと加わっていたことは、山崎の言う「三宅艮斎、濱口吉兵衛の功績」には坪井信道の力添えがあったことを現しています。即ち「本能寺からお玉が池へ」の流れは、光秀から艮斎減の明智家の流れと信長から信道への織田家の流れの合流でもあったのです。
そしてその流れの流れ着く先=「東京大学医学部」の「創立」は([19]で述べたように)「お玉ヶ池種痘所」の開所でしたから、私に言わせれば、「東京大学」はアメリカ式に命名する(ことはあり得ないでしょうが、)のであれば「濱口梧陵大学」になる筈なのです。
醤油蔵の 匂いも人も 冬ぬくし (服部嵐翠)
ヤマサ醤油の濱口梧陵は、お玉ヶ池種痘所の再建によって江戸の医療に多大なる貢献をしました。勿論梧陵は、江戸のみならず地元・銚子の医療にも貢献したいと考えて居ました。そこで、銚子の医師・関寛斎(1830~1912)を江戸のお玉ヶ池種痘所に派遣し、艮斎に種痘術や当時江戸で大流行していたコレラの防疫法を学ばせ、見事江戸のパンデミックが銚子に及ぶのを防いだわけです。
ヤマサ醤油
種痘は、人類初のワクチンです。予防接種薬が「ワクチン」と呼ばれるのは、最初のワクチンである痘瘡ワクチンの原料がワクシニアウイルス(≒牛痘ウイルス)であることに由来しています。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、「vaccine」(ワクチン)の語源はラテン語の「vacca」です。「vacca」は、日本語で(現代イタリア語でも)「(雌)牛(英語のcow)」の意味です。日本語の「ワクチン」はドイツ語の「vakzin」から来ています。
皆様ご存知のように、ワクチン(種痘)によって痘瘡(天然痘)は根絶されました。(1980年5月、WHOによる「天然痘根絶宣言」)日本では、1955年(昭和30年)が痘瘡発生の最期の年です。濱口梧陵は、(お玉ヶ池種痘所によって)種痘の日本、とりわけ江戸での普及に多大な貢献をした人です。
一方、山崎佐が「お玉ヶ池種痘所」(の再建)と言う「功績」を挙げた二人とした中のもう一人は、三宅艮斎です。艮斎の長男・秀は、([10]で述べたように)東大理学部教授の池田菊香は「うま味」を発見する基になるアイディアを提供しました。それによって池田は、1909年(明治42年)にうま味調味料「味の素」を発明します。味の素は「発酵法」で作られますが、その50年近く後、うま味調味料の製造法として「RNA分解法」を発明したのがヤマサ醤油です。そしてRNA分解の過程で産出されるうま味成分以外の核酸成分の活用法を研究する中で、1980年代に研究用試薬として製品化されたのがヌクレオチドの一種「シュードウリジン(psuedouridine)」です。そして2005年、ドイツの製薬会社ビオンテックのカタリン・カルコ上級副社長と、ペンシルベニア大学のドリュー・ワイスマン教授の2人によってシュードウリジンで構成したmRNAワクチンが開発されました。そして今、ファイザー社とモデルナ社に新型コロナウイルスワクチンの原料=シュードウリジンを提供しているのがヤマサ醤油なのです。
「お玉が池種痘所」から時(と言っても、150年近い月日)を隔てて、ヤマサ醤油は、国内にとどまらずグローバルな規模で、感染症医療に多大化貢献をすることになりました。そのお陰で、COVID-19パンデミックに苦しむ世界中の人々が救われることに繋がったのです。昨春[9]で「東大卒業生は、ヤマサ醤油には足を向けて寝られない。」と申しましたが、ヤマサ製のシュードウリジンがワクチンの原料になったことを思えば、灯台関係者ばかりではなく、世界中のあらゆる人々にとってヤマサ醤油は大恩人(?)なのではないでしょうか?
神田川 流れ流れて いまはもう
カルチェラタンを恋うることも無き (道浦母都子)
この曲は「神田川」を詠っていますが、東京の神田川にパリのカルチェラタンが何故出てくるのか?と、不思議に思われる方もおられるでしょうね。そこで詠われた「カルチェラタン」は、パリのそれではなく、1968年のカルチェラタンに呼応した学生運動が大きく興った東京・神田駿河台の学生街を指しています。神田川で言えば、御茶ノ水橋や聖橋の南側の地域です。その聖橋の1㎞下流に架かるのが和泉橋です。
「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、江戸・神田のお玉ヶ池には止まらず、「お玉ヶ池種痘所」の(誕生してすぐの焼失後、濱口梧陵の助けによって場所を変えての)再建によって下谷和泉橋通へと流れが変わり、明治維新後は「大学東校」「第一大学区学校」と名を変えて、下谷和泉橋通の藤堂藩上屋敷跡に1874年(明治7年)「東京医学校」が開講しました。(再びの余談になるのに)しつこいようですが、藤堂藩は、伊勢、伊賀の二か国を領国としていて、一般には「津藩」と呼ばれるようですが、伊賀では決して「津藩」とは呼びません。また、松尾芭蕉のことを伊賀では「芭蕉さん」と呼び習わしています。(それで、こちらでも同様にしています。何せ私は伊賀の生まれなものなので・・・)
東京医学校は、開校2年後に本郷の加賀藩上屋敷跡(現・東京大学本郷キャンパス)に移転します。こうして「本能寺からお玉ヶ池へ」の流れは、老子の「上善如水」の教え(=最上の善い生き方は、争うことをせず、誰もが嫌がる低いところへ流れてゆく「水」のようなものだ。の意)に反するかのように坂を上って本郷に流れ着いたのです。
東京医学校が本郷に移った後も、医学校の医院はそのまま和泉橋通に残り、本郷に新たに「東京医学校第一医院」(現・東京大学医学部付属病院)が会員したので、(「下谷和泉橋通」改め)神田和泉町の医院は「(東京医学校)第二病院」となりました。東京医学校が東京開成学校と統合されて「東京大学医学部付属第二病院」となります。
1886年(明治19年)3月、帝国大学令が公布され、東京大学医学部は「帝国大学医科大学」になりました。前々回述べたように、初代の医科大学長には(「東京大学医科区部開基の大功労者」である三宅艮斎の長男・)三宅秀が就任します。勿論「東京大学医学部付属病院第二医院}は、「医科大学付属第二病院」と名を変えて診療を続けました。
ところが、20世紀を迎えた1901年(明治34年)冬、医科大学第二医院は火事で全焼してしまいます。斎藤茂吉(1882~1953)の随筆「三筋町界隈」に「凄かったのは第二医院のかじで、あまりの驚愕に看護婦に気がふれたのがあって・・・」と書かれたように、96人の入院患者の内1/4近い21名もが死亡した、という大惨事でした。火事と言えば、医科大学の源流であるお玉ヶ池種痘所の開所時の火事が思い起こされます。
斎藤茂吉は、東京帝国大学医科大学を卒業して精神科医になった人ですから、私たちにとっては精神科の大先輩ということになります。斎藤茂吉には、或る御縁があって秋にも再登場して頂く予定です。
その後第二医院は、二度と再建されることはありませんでした。何と、帝国大学の「運動場」になってしまったのです。そして、第二医院が焼失して8年後の1909年(明治42年)春、第二医院の跡地に「三井事前病院」が開院します。「慈善病院」とは、徳川幕府の「養生所」のように無料で受診できる病院のことで、この三井慈善病院の場合は、(内科、外科、願か、耳鼻科、皮膚科の5科の)診療業務は医科大学に委託されました。「三井記念病院 百年のあゆみ」(2006年)によれば、「お玉ヶ池種痘所の社会福祉の精神は、東京帝国大学医科大学付属第二医院を経て、・・・三井慈善病院へと引き継がれていく・・・」ことになり、1919年(大正8年)には「泉橋慈善病院」、1943(昭和18年)「三井厚生病院」と名を変え、更に1970年(昭和45年)の新病棟建設に伴って「三井記念病院」に改称して、「お玉ヶ池種痘所の社会福祉の精神」が「引き継がれて」いきます。(勿論、「精神」だけしか(?)引き継げず、三井記念病院は他院と同じ保険遺漏機関ですから、慈善病院ではありません。)するとここで、当院との関りを思い出しました。三井記念病院精神科の中嶋義文部長は、かって当院に在籍されたことがあります。
ここ迄、京都の「本能寺」から江戸の「お玉ヶ池」(→下谷和泉橋通→本郷)への300年ほどの流れを辿って来ましたが、その流れの一部(?)は、こうして下谷和泉橋通に留まり、医科大学第二医院、三井慈善病院と姿を変えて、現在の三井記念病院に繋がっているのでした。