津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣ー(9)

2024-02-19 11:14:38 | ご挨拶

19 、寛政三年十一月十二日 三苫英助手討
    志水九左衛門組内藤平左衛門弟三苫英助儀昨十二日家来難差通致慮外候ニ付致手討御日が
    らの儀二付平左衛門儀如何程ニ相心得可申哉と相伺候ニ付相慎候様申聞置其段相達置申候処平左衛門
    儀慎ニ不及段十御奉行所御達有之候間則平左衛門江及達御請相濟申候由十一月十三日紙面を
    以被申越候事

  ■ 三苫苫三  (南東49-17)
     宮内大輔
     主水 
     田中太郎左衛門(初・半左衛門)
    1、治部右衛門
    2、惣左衛門
    3、十平太(惣左衛門)
    4、英助  三苫英介 名は征秀、藩に仕へ番士となり、頗る剛強の人たり。
                  寛政四年七月四日没す。年二十九。

20、寛政四年□月九日 不破素太郎家来手討
    藪内蔵允組富田兵次従弟不破萬平嫡子不破素太郎儀去月九日之夜於嶋田之駅家来
    一人手討仕其身も其夜致切腹候段江戸詰万平同役ゟ申越候 訳筋如何様とも不相分申候
    旅中之儀二も有之万平儀如何程ニ相心得可申哉同役月番上羽牧之允ゟ相伺候處旅中之儀と申
    先相慎居候様支配頭志水次兵衛殿ゟ被申聞置其段御用番江相伺候処兵次儀差扣居候ニ不及旨従
    御奉行所申来則及其達御請相濟候事

  ■ 不破源次郎  (南東39-5)
     忠左衛門  (1)側小姓・御扈従役歟 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・忠右衛門 
             (2)歩之御小姓頭衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
    1、十之允   (1)御小児性衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
             (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             (3)御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    2、新右衛門(養子 実・長瀬氏) 
               御詰衆・四番小坂半之允組 四百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、十右衛門・長政(実・前田氏 初・長十郎) 
               四百石 御番方九番 屋敷・山崎
    4、新右衛門  九番与 三百石
        昌命 室・松野七蔵妹 二子高瀬楯之助武延養子・文平勝正 職禄千石・側用人
    5、万平    (1)御番方・尾藤・組脇 二百石  (2)四百石
                 明和七年二月~明和三年五月 玉名郡代
                 安永三年六月~安永五年四月 山本郡代
                 寛政七年二月~寛政十年三月 川尻町奉行
                 寛政十年十月~寛政十二年七月 奉行
        不破観翁 名は昌之、萬平と称し、観翁と号す。藩に仕へて食禄三百石、使番、川尻作事頭、
             江戸留守居、奉行職等の数役を勤む。当時其名高し。享年未詳。坪井宗岳寺に葬る。

21、寛政五年十一月八日 伊藤権七太田要蔵手討
  寛政五年溝口蔵人組
    私儀昨晩沢村半兵衛方へ罷越八ツ半比罷帰申候処納戸ニ帯刀之者忍入申候ニ付私参之
    候処手向仕候 盗賊之躰ニ相見申候ニ付打果申候 勿論面躰も見知不申候ニ付得斗吟味仕候処坂崎五左衛門
    家来太田要蔵申者ニ而御座候 依之如何相心得可申哉奉伺候 此段可然様被成御達可被下候様
    奉頼候 以上
      十一月九日        伊藤権七
        伊良子市太夫殿
        小川兵太夫殿

  ■ 伊藤一革 (東南4-5) 【丹後以来】  百二十五石
    1、加藤(伊藤)金左衛門  
             (1)御鉄炮三十挺頭 千石 (於豊前小倉御侍帳)
             (2)御鉄炮頭衆 千石 (肥後御入国宿割帳)
    2、儀太夫   (1)供之者 御扈従与也 二百六十石 (於豊前小倉御侍帳)
             (2)御小姓組衆 二百五十石 (肥後御入国宿割帳)
    3、権之丞   (1)御詰衆 二百五十石 (真源院様御代御侍名附)・・権允
             (2)二百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・権丞
             (3)長岡帯刀組 二百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・権丞 
             (4)御馬廻衆六番嶋又左衛門組 百五十石
    4、梶右衛門   御詰衆・五組槙島半之丞組 二百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    5、権七 (養子 実・沢形右衛門弟)
    6、忠右衛門・金作 (1)二百五十石 幼少 
             (2)二百五十石 御小姓組五番幼少御中小姓御番方御小姓組五番 屋敷鷹匠町
                                                             
    7、儀太夫  四番与・二百石 (御国中御侍以呂波寄)
         伊藤儀太夫 名は直澄、世禄二百五十石。北条流の兵学に精通し、其師範となる。
                  門人頗る多し。天明五年十月六日歿す。年五十三。

         伊東儀太夫 北条流兵法師範--板根助十郎跡(諸師役流儀系図)
    8、金作(権七

 

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■西南の役勃発

2024-02-19 06:31:21 | 熊本

      
                                                  いずれも服部亮英氏の作品

 西郷隆盛は17日に鹿児島を発して、加久藤峠を越えて人吉に入り、球磨川を下りや八代へ出て、舟で川尻に入ったのは21日
である。
別動隊は積雪していたという三太郎峠を越えて進軍し、20日には川尻へ入った。
官軍の熊本城守備隊は19日には城下を焼き払い、熊本城を自焼させた。(ほぼ定説化しつつある)

 当時の著書に中に、熊本城炎上の理由と市街地延焼の様子が書かれている、関徳著・西南戦争記事がある。
この著は10年8月に出版されているが、当時の新聞各紙を情報源としている。その緒言は6月であり、記事の確かさが伺える。

「先ず守禦の便を取んがため、十八日鎮臺より命を下して、明十九日第十二時市街人民の家宅を焼拂ふべき旨を達しければ、
人民の狼狽言んかたなく、什具を背負て逃るあり,老幼を携て走るあり、東西に泣叫ぶものあれば、南北に逃迷ふものありて、
上を下への混乱は宛がら鼎の沸が如く、号泣悲哀の惨酷はあはれといふも愚かなり。斯て翌日定斯の刻限を遅るゝ三十分ばかり、
人民の悉く東西に退きしを見て,三発の号砲を相図に場内の天主閣を焼拂ふ、時しも西北の風烈しく、見る見る坪井千反畑等の
町家へ延焼し、渦巻上る黒烟は忽ち満空に漲りて、紅焔炎々天をも焦す勢ひなれば、さしもに廣き熊本城下も瞬く間に修羅の巷
と化し、其僅に禍を免るゝ市街は西に細工町五丁目、花岡町北岡邉、南は向町、本庄本山無臼町、白川新町、新屋敷、北は出京
町、新出京町、東は三軒町、松雲院町、立田口等に遇す。城の存する処は櫓二棟、土蔵一棟のみ、尤も市街は一時悉く焼失する
にあらず十九日、二十日、二十一日の禍災を連ねて算する所なり」
 細川家の姫君御三方は、火が発せられる前に北岡の御屋敷を出られて立田邸に避難をされ、以降4月27日にお帰りになるまで戦
況を見極めながら県下各地を避難の行脚を為された。三澤純氏のお姫様たちの西南戦争:資料の解題と紹介
に詳しい。

 高祖父・上田久兵衛が先の川尻奉行であったことから、乞われて川尻鎮撫隊を結成し川尻入りしたのは、26日だと鈴木崇先生
は種々の論考で披瀝されておられる。

以降、薩摩軍と折衝を重ね、川尻町民の生活に支障をきたさないように尽力した。
しかしながら、薩軍に協力したという稜で捕らえられ、家族に知らされることなく斬首の刑で落命した。
高祖父の無念を思うと、西南戦争を起こした西郷隆盛の行動には何とも同意しかねる心境である。
147年前の今日は、城下が焼かれ逃げ惑う人々は熊本城の炎上する姿を見ることになる。無念の一日ともいえる。

 

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