津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二月十二日、第九代藩主齊樹公逝去。

2024-02-12 10:31:57 | 歴史

                                                           

 齊樹(ナリタツ)公は先代・齊茲公のニ男である。齊茲公が宇土藩主(立禮)から宗家を天明7年(1787)9月19日相続した後、江戸白金邸で寛政元年(1789)正月13日に生まれている。
立禮公が本家を相続後、宇土支藩は嫡男で兄の立之が四歳で相続した。
齊樹の相続は文化7年(1810)11月10日、結婚は享和2年(1802)4月6日お相手は一橋中納言治済女紀姫、治済の嫡男・が徳川宗家を相続した家齊でありそれゆえ義兄弟である。
文政9年(1826)2月12日死去、39歳という若さであった。
跡は兄立之嫡男・宇土藩主立政が相続した。

 

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■手討達之扣ー(4)

2024-02-12 06:53:01 | 歴史

12、安永七年十二月 奥村八内手討
    小田原九郎左衛門組奥村久左衛門伯父奥村八内儀久左衛門知行所上益城木倉手永南上野村
    罷越候処百姓源右衛門・源次郎と申者難差通儀有之候ニ付右両人共ニ去ル廿三日討放申候段昨廿
    四日之夕久左衛門より相達候覚書一通并始末之書付一通右始末之様子昨夕にてハ慎不相分候ニ付
    昨夕は御奉行所御用請持大里角次迄及内達置今朝右始末相分候間八内儀は先ツ在宿いた
    し候様申聞置右書付御用番迄相達候事

    十二月
      口上之覚
    私育之伯父奥村八内儀上益城木倉手永南上野村知行所江罷越申候処右南上野村百姓源
    右衛門・源次郎両人之者共難差通過言いたし候ニ付今日御達申上候通源右衛門と申者昨朝手
    討仕候 両人之儀二候末源次郎儀手疵を負せ其場を迯去申候處同日八ツ時比同郡口村出八勢
    打留申候 今日源左衛門手討仕候儀御達申上置ニ私儀は南上野村江罷越申候處於途中八内二
    行逢申候ニ付直ニ出府所江罷帰申候 此段御達被成可被下候 以上
      十二月廿四日      奥村久左衛門
         中路勘太夫殿
         八木十太夫殿

      口上覚
    私伯父奥村八内手討仕候間南上野村江罷越申候処途中ニ而八内江行逢同道仕出府所江罷帰リ
    手討之始末承申候處右上野村江八内先在宅之家居賣拂申度為内談右両人之者共呼寄申候
    處両人之者とも如何躰之用事ニ而呼寄申候哉相尋申候故右家居賣拂呉候様為内談呼申候
    段申聞候得は其元家居之世話請合不申埒無事候被申間敷と致返答候故不届之申分と私咎メ申候
    得は又々両人共より申候は右上野村ゟも追立候■又々色々と申候ハゝ熊本居住も不相成様に
    可致抔と散々致悪口候ニ付不得止事両人共打果申候段八内ゟ申聞候 右之通御座候 以上    
      十二月廿四日      奥村久左衛門
         中路勘太夫殿
         八木十太夫殿

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■ 奥村久蔵  (南東15-22)
    1、久左衛門  (1)沢村宇右衛門組 五人扶持廿石 (寛文四年六月・御侍帳)
             (2)江戸・上方・長崎(衆) 四百石・外二高百石之役料被下候 (御侍帳・元禄五年比カ)
                   奥村久左衛門知行
    2、藤七・定寛  百五十石 御番方十番組・御小姓組五番
    3、久左衛門        細川綱利公御書出(貞享二年)
    4、久左衛門
    5、次郎助(次郎右衛門) 寛文三年~延宝二年  奉行
    6、藤七(次郎助)
    7、熊五郎(久左衛門・次郎右衛門) 顕光院様(斎護室)御附 百五十石
    8、鉄之助(久蔵)   百五十石

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