津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■薩摩衆どこをお通り・・?

2024-02-21 15:01:55 | 熊本

 薩摩藩の参勤については詳しく調べたことはないが、斉彬公や将軍家定に嫁いだ篤姫などは、すべて陸路で通している。(半田隆夫著‐薩摩から江戸へ 篤姫の辿った道)
NHK大河ドラマ「篤姫」では船旅であったと思うが、これは脚色である。
つまり、あの三太郎峠も越えたのである。熊本城下は一気に通過せねばならないから、川尻に宿泊して、御馬下の角小屋で御小休をしたのち、味取新町(植木町)のお茶屋(現・植木小学校)や味取の善行寺などで御小休、山鹿のお茶屋に宿泊された。
さて、薩摩街道(豊前街道)は、新一丁目御門から法華坂に入り、二の丸から二の丸御門をへて京町に入るルートが正式である。
随分時代は遡っているが、次のような文書が残されている。
これによると、参勤の本隊は城内を堂々と抜けていったのだろう。しかし、近道・裏道を通った者もあったことが伺える。

      一御曲輪内、薩州様御通之節、御家来之内又は旅人共罷通
       候節、間ニは本町通ハ不致、近道を存候哉、駕幷人馬之
       内裏町を通申者も有之由、本通之外外脇道堅不罷越様、
          きびしく
       下方え稠敷御沙汰候間、人馬會所之者共も兼て其心得仕 
       居候様可有申付候、尤右之通御同役中えも可有御通達
       候、已上
         寛延三年(1753)巳二月廿ニ日   奉行所

砂薬師坂から古京町を通って京町へ出たり、さらには杉塘から本妙寺田畑を通り京町に上るいずれかの急坂を上ったのであろう。
いずれにしても、薩摩から江戸はおおいに遠い。
しかしながら、西南戦争に於いてはやはり積雪していた三太郎峠を越えて進軍してきた。
往時の人たちの脚力、敬服に値する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■肥後古流茶頭・萱野家の茶杓二点

2024-02-21 08:24:49 | オークション

    肥後古流の茶頭の萱野家二代の茶杓だという。
10数年肥後古流のお稽古をしてきたが、茶杓について古流独特の作りがあるのかどうかは良くわからない。
6代・7代が揃って出品とは珍しい。

委託HK◇萱野仙遊 竹茶杓 共筒(茶道具 竹工芸 抹茶 点前 さじ 細川家 茶道頭)

                                                         

委託HK◇萱野宗保 竹茶杓 共筒(茶道具 抹茶 点前 さじ 竹工芸 )

                                                       

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   萱野宗保   御茶道 (後・茶道肥後古流 古田家家元) (南東59-2 茶・鷹・馬)
    (古田織部正重然   利休七哲の一人)
    1、甚斎(隠斎) 御医師衆・御茶道衆 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)   
      
 萱野正的 古田織部正の弟、萱野伝左衛門姉婿なるをもって萱野姓とす。
            幼名左五郎、後剃髪して甚斎、隠斎と号す。古市宗庵に茶法稽古を受ける。
            寛永十九年御茶道、寛文元年茶道頭二百石。元禄二年隠居。宝永四年没。 

    2、甚斎(養子 実・杉野加右衛門子 川游)
            御伽衆・御医師・御茶道 二百石 寿斎・宗国 (御侍帳・元禄五年比カ)
                 
 細川綱利公御書出(元禄六年)
       
萱野秀盈 号甚斎、隠居後泰慶。元禄二年家督、同三年御茶道頭、同六年ニ百五十石。
            命により水前寺御庭、白金邸御庭其の他の作庭を行う。享保十七年隠居、
            翌十八年没。

    3、甚斎(養子 実・宇田忠左衛門子 周悦)
       
萱野成商 初め周悦、後宗斎。享保十七年家督。元文元年御茶道頭。同四年没。
    4、宗斎        
 細川重賢公御書出(明和六年)
       
萱野正勝 幼名宗竹、円斎、宗斎。元文四年家督。安永四年五月御茶道頭。同九年没。
            室・蒲池喜左衛門正定妹和瀬。

    5、宗羽(養子 実・水足左助四男 甚斎)
     
  萱野正信 五才の時正勝養子となる。幼名庄助。安永三年古市宗円同席にて「極真ノ台子」を調ぶ
            
安永九年家督。寛政六年御茶道頭。文政三年七月没。室・同氏司馬太女
    6、仙游(正信二男) 御茶道御知行取・御近習御次支配頭之支配 二百五中石
       
萱野正名 幼名太三郎、仙雄、天真斎と号す。天保五年御茶道頭。弘化元年、嘉永四年各々
            五十石御加増。嘉永八年九月没。江戸、熊本に於いて茶室多数を指図す。
            室・中村助右衛門女時。

       
萱野天眞 名は仙雄、天眞斎と号す。父祖の業をうけ茶道頭となる。禄二百五十石。
              嘉永六年九月十八日没す、享年七十三。墓は唐人町古往生院。

    7、宗保  二百五十石
       
古田正房 幼名寿一郎。嘉永六年御茶道。作庭に長ず。明治三十七年一月、年九十才にて没
            室・深水頼経三女伊志。明治に至り古田姓に復姓。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする