津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣-(11-3・了)

2024-02-24 10:09:25 | 史料

         
               緒方平兵衛
   右は弟定八郎儀松本信平及刃傷候節之儀二付此節御尋之趣有之被相達候書付之内
   江田村安右衛門儀其節定八郎を抱留候由相違無之由相見候 然處安右衛門儀定八郎と取合候節
   罷越候以下定八郎刀ヲ信平捩取り安右衛門江相渡候事ニ候へハ刀持ながら左右ゟ抱留申候儀
   は難成可有之且大小共ニ信平捩取り候ニ付手懸りニ有之候 菜切包丁を以打懸信平迯出候由
   二候得共安右衛門は抜身之刀を脇江直し置候迄ニ而抱留可申間合は無之儀と相見候 尤急場之儀二而
   事の間違も難斗候間抱留候哉否之處定八郎今可應得斗被考候而猶又相達候様平兵衛江
   可有御達眨従御用番被申聞候 以上
     十月

         口上之覚
   私弟緒方定八郎儀松本信平江及刃傷候節抱留申候江田村安右衛門御穿鑿被仰付申出候
   趣御尋ニ付此間私ゟ御達仕置候書付ニ其節安右衛門抱留候儀相違無御座候断御達仕置候処
   猶又御達之趣奉得其意候
         此節御達
   安右衛門儀は定八郎と信平取合居候節罷越其即下定八郎刀を信平捩取安右衛門江相渡候事
   二候得は刀持ながら左右ゟ抱留候儀が難成可有之且右之通ニ而抱留候儀ハ難成相見へ候段
   御尋ニ付
     此儀定八郎と信平取合候節安右衛門罷越直ニ抱留ニ付夫ゟ信平定八郎刀を捩取安
     右衛門江相渡申候 勿論刀持ながらニ而は無御座候 刀を信平ゟ捩取相渡不申前二抱留申候
     右之通抱留候以後安右衛門儀二信平ゟ相渡候刀を受取暫ク定八郎そばを放レ申候と覚申候
     左候而定八郎儀ハ刀捩取候ニ付次ニ脇差を抜懸候處信平儀本ゟ定八郎手元に居申候ニ付
     定八郎ゟ抜懸候間二又々信平入付ケ脇差を捩取申候 右之儀は先達而本書兎哉角ねじ
     合之内ニ同村百姓安右衛門と申者後口ゟ抱留居申候内ニ其刀を信平ゟ取り安右衛門江相渡
     申候と認め御達仕置申候
   右之段定八郎江再々應委ク承り糾申候処右之通少も相違無御座候 此段御達仕候 以上
      十月十二日        緒方平兵衛

      
         申渡    平兵衛弟
                 緒方定八郎
   定八郎儀當七月玉名郡地士松本嘉吉御當ロ松本信平を打損候始末武士道難成立候ニ付士席
   被差放往々不被召仕旨被 仰出也
      十二月

   緒方定八郎打損候松本信平儀御侍ニ對し不礼之躰ニ付其座ニ而定八郎討果候得は其
   通之事ニ候得共囚人ニ相成候ニ付遂御穿鑿候処死刑ニ可被仰つけ罪状は無之候ニ付苗字刀
   御取上ケ熊本并八代御城下御構五郡御拂被仰付 且又 内田手永江田村安右衛門御侍之人を
   果候場江罷出不謂儀二携候ニ付熊本并八代御城下御構一郡御拂被仰付候
   此段定八郎兄弟江も可被申聞候 以上
      十二月廿七日

 

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■肥後守・清原元輔家と細川家

2024-02-24 07:19:02 | 人物

 今年の大河ドラマは、珍しく欠かさず見ているし「源氏物語」も順次読んでいる。
このドラマに「清原元輔」が出てきたのには驚いたし、清少納言をファーストサマー・ウイカ(初夏・初夏)が演じていたのには驚かされた。
清少納言の「枕草子」も読み返さなければならない。

さて、熊本にはお馴染みの清原元輔だが、最晩年を肥後守として任地熊本で過ごし、死去した。85歳。
そして小さなお社だが、元輔を祀った「清原神社」が存在するが、熊本人とて参詣したという人は稀ではないのか。
             熊本史談会・中村裕樹氏提供の写真をトリミングしました。
ご厚誼いただいているサイト「徒然なか話」では「清原元輔」と打ち込んで検索していただくと、写真や記事が度々紹介されていてお詳しい。   

私もここ数年出かけたことがないから、今年の内にお詣りをしてみたいと思う。
細川家と大いなる所縁を持つ「清原家」だが、元輔の血は受け継いでいない。
元輔の祖父・清原養祖父の兄弟から分かれたのが清原宗賢の系統らしいが、吉田神道家との血縁関係も兼倶以前にさかのぼっても深かった。
 又、一族とされる吉田兼好の著・徒然草は細川幽齋・忠興親子が大変愛読しその普及に尽力しているが、そんな時期兼好は卜部兼名の弟として知られていたようだが、最近ではこれが否定されて吉田一族とは関係ないように言われている。
興味ある論考「吉田家と徒然草」や、小川剛生氏の中公新書「兼好法師-徒然草に記されなかった真実」等が詳しい。歴史は非常に面白い。

                                         萩原家創家                             卜部兼名---吉田兼倶---+---兼政---兼満 ==兼右---+--兼見---兼治(室・藤孝女‐伊也)---+--萩原兼従
           |               |               |
           |               +--梵舜             +---兼英
           |
           +---平野兼永・・・・・・・・・・万久==長治---平野長泰(賤ケ岳七本槍)
           |                ⇧
           +---清原宣賢        +--長治(枝兼・弟)
                       |              
      清原宗賢====清原宣賢---+---業賢---+--枝賢---+---国賢---秀賢
                   |                              |
                   +---兼右(吉田兼満養子)  +---伊予局(マリア)
                   |
                   |    足利義晴
                   |      ‖-----細川藤孝
                     +---智慶院       
                      ‖-----細川藤孝---+---忠興---● 忠利
                    三渕晴員       | 
                               +---伊也(吉田兼治室)

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