山崎地区については、過去に「■「明暦前後」地図散歩」■発見「明暦前後」の桜町周辺絵図「我が家検索リスト・2(68-2 熊本所分絵図 山崎之絵図)」そして過日「再・山崎ー1」をご紹介したから都合5回目である。
朱の点線で示したのは過去の道の状況だが花畑邸の正面及び南側が大幅に広げられた。
その為に数件分の屋敷がその形状の変更を余儀なくされた。その他の道筋は全く変更されていない。
宝暦の頃のものである。
①現在の市民会館あたり
沢村宇右衛門尉屋敷は御作事所に代わっている。その他屋敷は、高瀬新十郎宅のみである。
②神西長右衛門尉の屋敷が引き続き残り、新たに山川兵左衛門・道家金吾が入った。
③11軒あった屋敷は9軒に区割りが変わり、すべて入れ替わった。右回りに
藤崎源太夫及び添屋敷・八木市郎左衛門・中嶋九郎左衛門・永良助之允・青地久左衛門・二宮万三郎・小島八之允・田中庄右衛門
④茶道・古市宗左屋敷は子の古市宗円屋敷となり、その他は福田善太夫・中瀬助之進・山中彦十郎・林藤蔵・小川兵太夫とそれぞれ入れ替わって入った。
⑤この区画もすべて入れ替わり、不破権右衛門・佐方宇小右衛門・永屋猪兵衛・吉富伊兵衛四軒となった。
⑥この区画では弓削五兵衛宅が弓削五郎次宅になり、清田左近右衛門宅が清田甚右衛門、大塚左次右衛門宅が大塚甚蔵宅となり、その他辛川孫之允・高橋喜左衛門・下村源兵衛・元田万平・池田佐五右衛門・坂根少九郎・横山九十郎が移り住んだ。
⑦西北角の岡田甚五左衛門尉屋敷が岡田久左衛門屋敷となったほかはすべて入れ替わり、千葉作兵衛・釘沢専太夫・内藤左五右衛門・富田小左衛門・高橋弥次兵衛・竹原清太夫らの居宅となった。
⑧花畑邸の南側の路地が大きく拡幅されたため、この区画はその影響により五軒あった宅地は集約されて、一族の長岡隼人(宜紀7男‐刑部家6代興彰)の邸宅となった。
⑨可児清右衛門・山田丹太夫・原田丹蔵・多羅尾市允・金森左五右衛門・吉海市之允
⑩嵯峨五郎右衛門・岩間三右衛門・高本玄碩・上田儀三太・小川元淳・伊藤長左衛門・岩崎武兵衛・成瀬治部左衛門・吉田才兵衛・的場勘平・相良又左衛門
⑪大洞弥一兵衛・熊谷市右衛門・辛川伝五郎・武田一次・村松長右衛門・加々美又兵衛・河田八右衛門・原田金兵衛・続庄右衛門・松野権右衛門
⑫7区画あった屋敷地は4区画となり、小笠原斎及び添屋敷が大部分を占め、安場五太夫屋敷と他は御用屋敷となった。
⑬すべて入れ替え、松本喜十郎・水野幸右衛門借置・元田尉太夫・吉田嘉左衛門・佐方伊右衛門・萱嶋彦兵衛6家となった。
⑭内藤彦太夫屋敷は内藤長十郎に替り、その他は谷貞次郎・寺本兵右衛門・伊藤角右衛門・木造源右衛門・魚住左伝次・不破新右衛門・金森三左衛門・磯谷源右衛門が入った。
⑮本庄伝兵衛・佐野左太夫・西沢太郎右衛門・長谷川七兵衛・渡辺武伝・脇山安太夫・杉本只之允・木野庄左衛門・平野太郎四郎等に入れ替わった。
⑯この地区もすべて入れ替わり、奥田安之允・辛川九兵衛・志水新兵衛・平川甚之允・神足兵左衛門・田屋尉左衛門が入った。
⑰松井家関係の屋敷がまとめられ松井典礼下屋敷となり、中山勘左衛門・和田文八郎屋敷が並ぶ。
⑱菅野宗斎・佐々牛右衛門・杉村角太夫・高見次左衛門・浅香一郎左衛門・田辺孫太夫・中山左太夫・佐田新兵衛及び添屋敷・田中長太郎借置など入れ替わった。
⑲南東角の大きな屋敷・河方半四郎跡には河方安右衛門が入り、他は伊藤権左衛門・井口庄左衛門と添屋敷・郷村宗珠・松崎市之允・成田源兵衛・星野左太夫・嶋田郷右衛門などが入った。
⑳すべて新しく境野又之允・速水儀兵衛・木村清兵衛・宮脇次右衛門・小島伊左衛門・山尾善兵衛が入った。
㉑は寺町である。玄覚寺に加え正法院が存在している。
㉒小林久左衛門跡に小林次兵衛が入り、その他松江文右衛門・中山左次右衛門・益田源之進・□□武左衛門屋敷が並ぶ。
㉓斎藤勘助屋敷はそのまま残り、その他は曽根兵助・宮村武左衛門・栗野平次・中山左助借置・岩尾嘉右衛門・□□右兵衛・福田杢平次・可児清蔵・氏家大喜とすべて入れ替わった。
㉔清田主馬の大きな屋敷跡には島権十郎が入り、その他林兵助・小島伊右衛門・宮脇次右衛門が入った。
㉕かっての出田作左衛門屋敷に平野新兵衛が入り、その他沢村弥平次・上野喜三右衛門・蟹江七太夫が入った。
㉖以前は足利道鑑嫡子の尾池(西山)傳右衛門の屋敷であったが、木村弁次屋敷となった。