津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣ー(2)

2024-02-07 14:18:49 | 歴史

6、明和六年七月 久武権之助仝金吾手討 宜敷トテ御褒詞
     上田卯助組 久武兵助嫡子久武権之助・二男金吾

 (この記事については過去■明和六年七月十日、坪井報恩寺にてでご紹介している。我が家の親戚に関わる記事でもある。)

7、安永三年八月 佐藤右衛門八手討
    志水三治兵衛組佐藤三郎右衛門養弟佐藤右衛門八儀一昨四日用事有之松橋村江罷越候而夜ニ
    入罷帰候処下益城河江手永浦河内村際を唄をうたい通候處村中ゟ稠敷咎メ申候ニ付
    道筋唄をうたい候儀何も妨ニ成候事ニ而も無之候ニ付構申間敷申し聞候得とも色々悪口仕候
                    (小文字ニテ挿入)
    二付不届ニ存候段申聞候処大勢罷出 相待居候處声をかけ候間待居候処棒■参仕先ニ進ミ候者 棒を打懸候
         はつ/\(古語・かすか)
    二付者川/\ながら抜打仕候得は手を打落シ面跡ニ懸ヶ深手ニ負せ申候 其外ニ手向仕候者
    有之候 其夜吟味仕候得とも相分不申候ニ付翌五日浦河内村江罷越吟味仕候處理右衛門と申者之
    由ニ而止メ指申候事

8、安永三年八月八月廿ニ日 荒瀬(牧か)忠次手討
    西山大衛組牧忠治儀宇土郡浦手永里浦村ゟ在宅仕居申候 荒瀬文次郎隠居荒瀬秋蛍儀も右
    忠治近所ニ在宅仕居申候 秋蛍儀は忠治実兄ニ而御座候 秋蛍妻ハ文次郎方へ幼年之孫共居申候
    二付一所に在罷折々秋蛍方へ罷越申候事ニ御座候 然処當月十九日秋蛍妻在宅所江参居候 去ル廿二日忠
    次宅江罷越彼ノ方ゟ帰り候節屋敷内ニ而嫡女か免後ゟ切懸申候 既二殺害仕候と相見候ニ付忠次儀娘ヲ
    早速打放候 左候而秋蛍妻を郡浦村江居申候醫師江口玄球松倉村江居申候江本多仲右両
    人を呼療治仕せ手疵之様子吟味仕候得は長サ五寸深サ六分程之儀二而命分ニ懸り申候程之儀二無御座候
    追々快方ニ相成申候由ニ御座候 右か免當年廿七歳罷成申候 秋蛍妻に對し何ぞ意趣ヶ間敷儀
    無御座候 右之通儀二御座候得は病乱之様子ニ相見申候由忠次親類中ゟ申聞候段牧才次郎ゟ相達候ニ付則
    昨日御奉行所江持参相達置申候事

9、安永三年十一月廿日 永井七十郎手討不首尾 扶持方召上ゲラル
    平井貞之允組国武十之進■(舅か)永井七十郎儀當九月十九日之夜田迎手永出中村(出仲間)ニ而田中又助組
    屋敷居申候太平次と申者打放申候 始末不宜候ニ付御合力御扶持方共ニ被召上候 依之十之進伺有之
    一日扣有之候事
      十一月廿日
     

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■参勤のお伴、選ばれた人々

2024-02-07 06:40:18 | 人物

 光尚公は御若くして亡くなられたこともあり、藩主としての7年の間、参勤の回数も5回とそう多くない。

一、同年(寛永十八年=1641)五月五日光尚公御遺領相続 同六日御拝礼 同十一日御暇被仰出
  同十九日江戸御発駕 六月十四日熊本御着
一、同年九月廿九日熊本御発駕 十月廿六日江府御着 十一月朔日御拝礼
一、同十九年五月朔日御暇被仰出 此時上位ニ今年茂滞府勤仕いたし度可有之候得共 去年国許不作
  百姓困窮之聞有之ニ付御暇賜也 帰国ありて政務可為専要之旨上使御演述之 同十四日江府御発
  駕 六月十二日熊本御着
一、寛永二十年三月十九日熊本御発駕 四月十七日江府御着
一、正保元年 寛永二十一年改元 四月廿四日御暇被仰出 五月三日江府御発駕 同廿七日熊本御着
一、同(正保)二年二月十二日熊本御発駕 三月十二日江戸御着 同十五日御拝礼
一、同三年四月十八日御暇被仰出 六月十三日江戸御発駕 七月十一日熊本御着
一、同四年三月十三日熊本御発駕 四月四日江戸御着
一、慶安元年 正保五年改元 二月御暇被仰出 同十四日江戸御発駕 三月三日熊本御着
一、同二年三月三日熊本御発駕 同廿五日江府御着 四月朔日御拝礼
一、同年(慶安二年=1649)十二月廿六日御逝去

ちょうどその中間期正保2年には2月12日に発駕しているが、そのわずか5日前に参勤のお伴の連中が正式に奉行所から仰せ出されている。
この年は2,720人(知行取149人、同下々1,266人、切米取1,305人)もの大行列であったが、以下の人たちは寛永20年も同じく上下したとあるから、よほどの光尚お気に入りの人々であろう。

    去年・當年續テ御供ニ被召連候衆
        小笠原備前守  ガラシャに殉死した小笠原少斎の嫡男・長光、6,000石・家老
        林外記     用人大目付光尚死後佐藤伝三郎により殺害さる
        有吉雅楽    有吉分家(英貴姉の子)重時
        平野九郎右衛門 父と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し置き。
                忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増。
                島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。小姓頭
        田中左兵衛   柳川藩主・田中吉政の弟・氏次を初代とする田中家の二代目。
                元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石(幻の一番乗り)

                同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石、肥後藩初の城代職 
                後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕
        藤崎作左衛門  2代目喜八郎か、千石(真源院様御代御侍免撫帳)
        高見権右衛門  肥後入国時、御側弓鉄炮頭并組外衆、阿部一族誅伐に当り裏手門よりの討手被仰付、
                後加増三百石、御使番衆 八百弐拾壱石四斗 (真源院様御代御侍名附)

        堀平左衛門   元和中忠利に仕、光尚付 寛永十年九月知行三百石 島原陣後加増弐百石、都合七百石 奉行役 
                慶安四年三月二十六日殉死(肥後藩・主要系図による・以下同)

        竹内七郎右衛門 原城にて武功之面々御褒美被下候(肥後様衆) 寛永十五年九月朔日
                清田石見組 三十挺(頭) 六百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
        岡田甚五左衛門 御右筆衆・頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
        明石玄碩    医師、林外記の岳父。
        永野慶巴    医師
        不破十丞    御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
        冨澤権佐    百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        東條新左衛門  二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        大塚甚左衛門  御留守居衆・田中左兵衛与 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
        山中又兵衛   二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
                阿部一族誅伐事件にあたり阿部隣家であった又兵衛は「御意」を守り「出合不申」おれば
               「人口悪敷聞へ候間、又兵衛是非に不及次第と存候而御暇願申候処、光直君聞召(中略)
                山中か御意を守りしハ其筈の事也とて御留メ被遊候、又兵衛是をふかく有かたく奉存候に
                付、御追腹仕候となり。 (綿考輯録・巻六十)
        柏原新右衛門  御側物頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附) 使番頭、小姓頭等を勤め、後城代となり
                家老職に進む。食禄三千五百石。

        宗像少右衛門  三百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        足見(垂水)惣兵衛  御側物頭衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
        高村安丞    二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        山形半介    御側物頭鮎右・歩之御小姓頭 二百石
        稲生七郎兵衛  二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        益田孫太夫   御小姓組 三百石 
        永井安太夫   奉行所ヨリ触衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
        坂井七郎右衛門 切米人数 二十三石 (於豊前小倉御侍帳)
        吉田加右衛門  三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        松崎勘兵衛   御台所衆 百石 (真源院様御代御侍名附)
        大槻勘丞    (不詳)勘十郎か? 御台所衆 七十五石 (肥後御入国宿割帳)
  右之衆跡扶持被遣衆ニ而御座候 以上
    正保二年
       二月七日 御印
                 奉行中

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