2月の史談会では「南洲翁(西郷隆盛)遺訓」についてお話をお聞きする。
私は岩波文庫の「西郷南洲遺訓」を持っているが、その由来については「書後の辭」の頭書に次のようにある。
明治三年荘内公の公子酒井忠篤・忠實を初め、藩士管實秀・三矢藤太郎・石川靜正等數十人來つて薩に寓し、廔々翁に就いて教を乞う。
已に歸り、其聞く所を纂めて一書となし、之を同志に頒ちしに起る。明治二十三年三矢藤太郎之を荘内に印行し、「南洲翁遺訓」と題す。
私には、荘内の人たちには会津に対する後ろめたさはないのかという思いがある。
そして会津の人たちには今でも長州(山口県人)に対する怨念めいた心情が生きている。
「長州と仲よくしよう」を公約にして、選挙に立ったひとはあえなく落選した。
100年先でも握手はしないという過激な話もある。
会津人は戦争で徹底的に抹殺され、その後斗南とという未開地に放り込まれ辛酸をなめた。
一方荘内藩は、金で藩の安泰を買った。西郷に恩義を感じて酒井忠篤をはじめとし、管實秀らが西郷の許を訪ね感激し、その結果としてこの「南洲翁遺訓」が世に出た。私たちはその内容には感服している。
荘内藩士2名が薩摩に派遣され世児どんたちと行動を共にして、つまるところ西南戦争に参加して戦死している。
しかし、管は庄内藩士の薩摩軍参加をとどめて居る。会津の人たちは怨念をはらさんばかりに多くの人たちが官軍に身を投じて、そして多くに人が死んでいった。
この差は一体何なのだろうかという、浅学の身ゆえのはがゆい思いが募っている。
例えば、私が敬愛する作家・藤沢周平は生粋の荘内人だが、西郷に関する積極的な発言を聞いたことがない。
藤沢には会津に対する後ろめたさが見えるように思う。荘内藩の運命は「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と歌われる日本一の商人と呼ばれる本間家の掌(たなごころ)の上でもてあそばされている。
藩主・酒井家が移封すれば、莫大な損害が生じるからだとされる。本間家と藩、そして新政府の利害が一致して75万両の金が新政府の懐に入ったという。(半分ほどは返還されとも聞く)
「南洲翁遺訓」が語る言葉は西郷の正義であろうが、たとえば西南戦争について、西郷の遺訓は答えを出してくれるのだろうか?