わが卓に めでたく白き寒牡丹
ひとつ開きて 初春はきぬ(与謝野晶子)
「じんだい」読者の皆様、あけましておめでとうございます。
読者の皆々様にとって、この年が福(しあわせ)に満ち満ちた年になりますように !
320年ほど昔、明智光秀の末裔である三宅家を医家に導いたのは、光秀の孫・三宅重利の(義理の)孫
の曽孫・休庵でした。この三宅家は、本家が熊本藩重役の家系として立派に続いていましたので、織田信
長の末裔である坪井家のように「再興の為に」「医家として身を立てる」必要はありません。
では、一体どうして医家の道を選んだのでしょうか?
からすまなかたちうり
[21]烏丸中立売
明智光秀の存在を示す最古の史料が、熊本の古文書の中から発見されたのは、今から8年前のことです。
それによれば、光秀には医学の心得があったようです。関西学院大学の早島大祐教授は「・・・・・基礎知識
は、『張薬方』の解読といった医学・薬学の学習を一つの柱にして形成されたこと・・・・・」「元亀3年(1572)に坂本城主となってからも、京に滞在する際には徳雲軒全宗の京宅に逗留している。・・・・・施薬院宗全と名乗った・・・・・両者を早くから結びつけたのも、おそらくは医学・薬学の知識がきっかけではなかろうか。・・・・・光秀の出自と活躍を考える上で、今度は、医学・薬学を中心とする知識人のネットワークも想定する必要があるだろう。」と述べています。早島教授は更に、一昨々年秋に「明智光秀 牢人医師はなぜ謀叛人になったか」(NHK出版)を著し、「光秀は、越前の長崎称念寺門前の牢人医師だったと考えられる。」と書かれました。(雲徳軒=)施薬院宗全(1526~1600)は、本邦最古の医学書「医心方」(今では国宝です !)の編著者・丹波康頼(919~995)の(自称?)末裔で比叡山の僧侶でしたが、信長&光秀の「比叡山焼き討ち」を受けて還俗し、「日本医学・中興の祖」と言われる曲直瀬道三(1584年からはキリシタン・曲直瀬ベルシヨール:1507~1592)に師事して医師になり、その後、光秀、秀吉の両者共と親交を結んだ人です。
まさきみのつかさ おおぎまち
ところで、古の都・平安京に、正親司(≒今の宮内庁)の宿舎が建つ「正親町小路」という小路がありました。「応仁の乱」(=1467年⦅応仁元年⦆から10年以上に及んだ大乱)で焼け野原になった後、町屋街として復興し、「本能寺の変」の頃には立ち売り(=無店舗販売)が並んだので「中立売通」と呼ばれるようになります。それから百余年後に中立売通の町屋に生まれた蕪村門下(ながら其角・嵐雪等「蕉門十哲」の作風も受けた)の俳人が黒柳召波(1727~1772)です。
北そらや 霞て長し 雁の道 (黒柳召波)
この通りの御所の西、烏丸中立売にあった全宗の屋敷(現・京都御苑中立売休憩所付近)を、一時期明智光秀が京屋敷(別邸?)として使っていたようです、烏丸中立売の全宗(兼光秀?)の屋敷を一大拠点として、光秀の「医学・薬学を中心とする・・・・・ネットワーク」が築かれたのかもしれません。
後の世に、光秀の末裔である三宅家が医家になったのは、光秀のこの【医】の「ネットワーク」が時空を飛び越えて三宅休庵(+それ以降の子孫)に繋がった(?)、と云うことなのではないでしょうか?
[22]駒込西片町
大昔(=6世紀)に仏教とともに(? 異説あり)伝来して以来、日本は種痘(天然痘)の流行に苦しめられ、18世紀には死因の第一位までになり、(患者数のではなく)全人口の約2割もの人が死亡した年もあったと云われますが、千年もの長い間、(病原体は未発見だったため)その原因は「疱瘡神」だと考えられ、「本能寺の変」から「大坂の陣」も頃まではほぼ慰労の対象とはされませんでした。1653年(承応2年*本能寺の変の71年後)、明国(は6年前に滅びていましたが・・・・・)から戴満公という医師が長崎に来て「痘医術」を伝え、日本でもようやく種痘の医療が始まったのです。
更にその90年近く後の1744年(延享元年)、(明の次の中国王朝である)清国の医師・李人山が長崎を訪れ、日本に初めて「人痘接種法」を伝えました。ですが、日本では人痘接種法は広まらずに百年という歳月が過ぎ、1849年(嘉永2年)になって佐賀藩医・楢林宗建が初めて成功した(イギリスの医師・ジェンナーが発明した)牛痘接種が、それ以降の日本での種痘遺領の主流になりました。[4]でのべたように、楢林宗建は三宅艮斎の(長崎での)師・楢林榮建の兄で(兄弟二人とも)シーボルトの弟子です。
「本能寺の変」で敵同士となった明智家と織田家でしたが、その百年ほど後には「明智」改め「三宅」家も「織田」改め「坪井」家も医家になりました。そして時代が【医】に求めるもの=痘瘡との闘いの先頭に立ったのです。彼らは、日本に牛痘接種が伝来した9年後=1858年(安政5年)に江戸・お玉ケ池に種痘所を開きました。

江戸の人々に「鉄門」と呼ばれていた「お玉ケ池種痘所」は、1863年(文久3年)「医学所」に(その後4度の改称で)1874年(明治7年)「東京医学校」となり、1876年に下谷和泉橋通の藤堂屋敷(跡)から本郷の前田屋敷(跡)へ移転し、1877年には「東京大学医学部」になったこと、そして(新制大学になった今の東大医学部は)現在もなお「鉄門」と呼ばれ続けている(正確に言えば、今では「呼ばれ続けて」はいなくて、ほぼ自称ですが・・・・・)ことは[9]でお話ししました。
こうして、「本能寺の変」から280年近く後に、明智改め「三宅」と織田改め「坪井」の両家は、江戸・お玉ケ池で「東京大学のファウンダー」(「東大病院だより」)として再び手を握ることになりましたが、更にその40年後には、本能寺のある京都で「京大医学部のファウンダー」として再び手を握ることとなりました。「本能寺からお玉ケ池へ」の三百年の流れは、下谷和泉橋通、本郷へ、即ち日本初の医科大学である帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)へと、そして(京都に戻って)第二の医科大学・京都帝国大学医大学(現・京都大学医学部)へと(ひょっとすると、更に第三の医科大学=京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)へも?)繋がっていったのではないでしょうか。
[5]で述べたように、織田信長の孫・秀信の末裔である坪井家を医家に導いたのは、「織田信長後胤である坪井家の再興とその為に医家として身を立てること」を考えた坪井浄海でした。そしてそれを受けて浄海の弟・信通は、医家・坪井家を開き、「江戸三代蘭方医」と呼ばれるまでになりました。
坪井の二代目は信道の長男・信友が継ぎますが、それは名ばまりで、信道の長女・牧の夫になった越中高岡出身で信道門下の佐渡良益が「坪井信良」の名を貰って事実上医家・坪井家の二代目の訳を果たすことになりました。信良は(名ばかり)二代目信道とともに「お玉ケ池種痘所」の資金醵出者となり、その後幕府奥医師に取り立てられます。明治維新後は静岡病院副院長、東京府病院(=愛宕下病院)長を努めました。
その昔の「中山道駒込宿(正式の宿場ではなく、俗称)」は、「本能寺の変」(とは無関係ですが)から半世紀もすると、中山道の西側に武家屋敷が立ち並ぶようになり、町家は街道の東側に移って道の片側の町に住んだので「駒込片町」と呼ばれます。駒込片町は、明治維新の後「駒込東片町」(源・文京区向丘一丁目)に改名しますが、それは西側の福山藩阿部家の江戸中屋敷が東京府民の住宅地に変わって「駒込西片町」と名付けられたためでした。東京大学(1877年に法学部・文学部、1878年に理学部)が神田錦町から(先んじて医学部があった)本郷に移転して来ると、駒込西片町(現・文京区西片)には大学の教員たちが住むようになり、いつしか「学者町」と呼ばれるようになりました。
医者町・薬研堀に始まった医家・坪井家でしたが、坪井信良の長男(=信道の孫)・正五郎(1863~1913)は、医師ではなく東京帝国大学理科大学人類学教室の初代教授になった人(で、「弥生土器」の発見者として有名)です。正五郎の長男・誠太郎は東大理学部地質学教授、次男・忠ニは東大理学部地球物理学(現・地球惑星物理学)教授になります。この兄弟は。坪井信道の曽孫に(同じくお玉ケ池種痘所発起人箕作阮甫の曽孫にも)あたり、弟の忠ニは、明仁上皇が「自分に影響を与えた」と云われた3人の中の一人です。正五郎は、大学に近い駒込西片町に居を構え、「学者町」の十人になりました。また、信良の甥(義弟・為春の次男)坪井次郎も駒込西片町に住まいながら帝国大学に通った時期がありました。
明智光秀の孫・三宅藤兵衛の末裔である医家・三宅家は、三宅休庵が初代になりますが、三宅秀の孫(=10代目)三宅仁も、同じく三宅秀の孫である三浦義彰(千葉大学医学部生化学名誉教授)三宅秀の長女・教の次男)も、三宅秀の曽孫(義彰の兄の子)である三宅恭定(自治医科大学内科血液学名誉教授)も西片町の住人でした。また三宅仁の父(=三宅秀の長男)・鉱一の先代精神病学教授の榊俶の住まいも西片町に在りました。彼らが学んだ東京大学医学部の始まりは、(しつこいようですが)「鉄門」と呼ばれた)「お玉ケ池種痘所」です。
散りそめし桜を見れば 今宵ふる雨のうちにや 春は行くらん (樋口一葉)
西片町は、(今、五千円札で有名な)樋口一葉(1872~1896)所縁の町でもあります。西片町10番地(現・文京区西片一丁目11番)に一葉の師匠半井桃水が住み、近所(菊坂町70番地。現・本郷4丁目31番地)の一葉が屡訪れました。

西片町10番地(現・西片一丁目12番)には「漱石・魯迅旧居跡」があり、その案内板にはこう書いてあります。
「通称『猫の家』に住んでいた夏目漱石は、明治39年(1906)12月、ここに転居した。・・・・・この地に転居した漱石は、明治40年6月に『虞美人草』を発表、・・・・・この地は漱石にとって新たな一歩を踏み出した地である。・・・・・その後明治41年4月、この地には魯迅が弟・友人ら5人と生活をするために移り住み・・・・・」

漱石が去って7か月後、若き魯迅(1881~1936)が漱石が住んだこの家の住人になりました。後には坪井正五郎の従甥(=坪井信道の曽孫)・坪井芳治の友人になる魯迅ですが、妹を乳児期に痘瘡で喪くしています。また、漱石も幼児期に痘瘡に罹っています。
漱石の西片町時代、町内には漱石の義弟(=妻の妹の夫)で名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)建築科教授・鈴木禎次(1870~1941)の実家もありました。鈴木禎次は、妻同志が姉妹だった漱石のユニークな椅子形の墓(@雑司ヶ谷霊園)を設計した人です。