津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣-(12)

2024-02-26 08:13:25 | 史料

34、慶長七年二月十一日 林 弾八手討(物貰ヒ)

   筑紫左一右衛門組
   拙者組林弾八ハ今十一日国武十之進門前ニ而難差通儀ニ付手討いたし候 依之別紙覚書相達
   申候 最善相達候書付ニ而ハ始末も不委猶又覚書相達候様申聞置候処覚書相達候 則相添
   御達申候 以上
     二月十一日        筑紫左一右衛門
       御奉行衆中

       口上之覚
   私儀十一日国武十之進於門前悪口慮外仕候者有之難差通手討仕候 尤下人と相見
   何方の者共生所相分不申候 此段相達可被下候 以上
     二月十一日        林 弾八
       須佐美権之允殿
       波々伯部甚内殿

       
   今十一日八過不浄揚参り裏廻り居候内何方之者共相知不申門内ニ入込人音無之様子見繕右
   不浄揚馬ニ付置候鳥目油入候徳利盗取迯申候を下女見届声を懸候ニ付右不浄揚追懸国武
   十之進門前ニ而■合居候処ニ参り遂吟味を候処及過言剰乍寐足ニ而腰を踏申候故難差通手討仕
   候 先之者先刻御達申候通何方之者共相知不申候 片付方之儀被成御達可被下候 以上
     二月           林 弾八
       前条両人完

   御組林弾八今十一日国武十之進門前ニ而難差通儀ニ付被致手討候 依之別紙覚書二通御達仍而
   被仰越候御紙面之趣致承別書付受取申候 以上
     二月           御奉行中
       筑紫左一右衛門殿

   御組林弾八被致承■候者ハ教悦支配物貰伊勢次郎と申者之由相聞候間早々人を差越見届
   させ伊勢次郎ニ相違無之候ハゝ右死骸直ニ受取相片付候様及達候条引渡を被申候様可有御
   達候 以上     二月十一日        御奉行中
       筑紫左一右衛門殿

   御組支配林弾八昨十一日被致手討之者ハ教悦支配之物貰之由ニ付死骸片付方之儀教悦江
   及達候段弾八江被及御達候様今朝申達候 然處教悦支配之物貰ニ而も無之生所不分明之由
   尚又相達候ニ付先ツ右之死骸仮埋之儀飽田託麻御郡代江相達候間此段弾八江可被有御
   達候 以上
     二月十二日        御奉行中

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 津々堂解説
 非常にてきぱきとした事務処理の状況が見て取れる。11日八つ過(午後2時頃)に起きた事件だが12日には万端解決している。
文中の「不浄揚」とは「雪隠の汲み取り」である。汲み取り作業にきていた者が、林弾八家の馬につけていた「鳥目=銭」及び「徳利の油」
を盗んだので吟味する中不届きの事があったので「難差通」成敗したとい
う事件である。
「難差通」という言葉は、このような事件に関する文書では決まり言葉になっているが「許しがたく」といった意味であろう。

相手が誰だか分らなかったが、「教悦配下」の「伊勢次郎という物貰い」だということが判明したので、遺骸を「教悦」に引き取らせている。
「教悦」とは「非人頭」で、処刑場があった下河原に起居していたらしい。
「物貰い=物乞い」は許可制であり、まさしく非人頭
の支配下にあった。
非人頭支配の「物貰」が「不浄揚げ」の仕事もしていたことが判るが、百姓衆の下請けでもあったのだろうか?
興味深い資料である。

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■細川幽斎 消息 里村昌叱宛 慶長元(1596)年霜月十四日付 真筆

2024-02-26 06:56:13 | オークション

  【深和】細川幽斎 消息 里村昌叱宛 慶長元(1596)年霜月十四日付 真筆
                      (戦国武将 戦国大名 書家 歌人 連歌 中世古文書)

        

  細川幽齋の資料研究に於いては、この十一月廿日の連歌の催しについては『連歌総目録』などで良く知られているらしい。
  ここにある名前は招待客で、「其外人数、一両輩給此方可申候」とあるように、薩摩から上洛した玄与(阿蘇惟賢=玄与日記)
   呼ばれたりしていて、豪華なメンバーが勢ぞろいしている。誠に貴重な文書と言える。(津々堂)


  

  商品説明

細川幽斎の消息です。
里村昌叱に宛てた書で、連歌を興行するので発句を頼む旨、連衆として玄仍・弥次郎(里村景敏)・友益(速水友益)・能札(北野社僧)を呼ぶ旨を認めたものです。
『連歌総目録』によれば、昌叱が発句を務めた霜月(旧暦十一月)の興行は慶長元(1596)年十一月廿日の「昌叱玄旨等薄何百韻」に絞られ、昌叱の「氷ゐて行水ふせぐ川辺哉」を発句として、連衆も上記の他玄与(阿蘇惟賢)・輝資(日野輝資)・兼如(猪苗代兼如)・恕仙・賢治らが居たことが分かります。
なお、この年の九月には秀吉の命で明使の接待に伏見へ赴いております。
幽斎はこのころ従兄弟兼倶が神職を務める吉田社境内に「随神庵」に閑居し、古典の書写や連歌に興じました。幽斎の暮らしぶりが端整な書蹟とともに綴られた逸品です。

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                    御同心              久玉句不承候間、
                           可為                 さて申事候、
                              本懐候、
  

          遥久不懸御目候、御床敷
          存候、此間在伏見候て、一両日
          已前吉田草庵迄罷出候、聊
          隙之躰候、然者廿日頃、於草庵
          一会興行申度候、発句者
          貴斎相定候、玄仍・弥次郎殿・
          友益・能札なと被仰候て可然候、
          其外人数、一両輩給此方可申候、
          今出京可申候へ共、来客事候間、
          一筆申候、御報ニ可被預候、
                                              かしく

           霜月十四日

           昌叱まいる人々御中      幽斎

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