津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠興、淀川べりに利休を見送る

2024-02-13 11:24:00 | 歴史

 天正十九年(1591)二月十三日羽柴与一郎(羽与=細川忠興)は秀吉に蟄居を命じられ舟で堺に下る利休を、古田織部と共に淀川べりにて見送っている。  
               
          千利休絶筆.jpg
      二月十四日付のそのことを謝す松井佐渡(康之)宛書状 財団法人松井文庫所蔵

                   態々御飛脚過
                   分至極候 冨左殿
                   柘左殿御両所為
                   御使 堺迄可罷
                   下之旨
                   御諚候条 俄昨
                   夜罷下候 仍淀 
                   迄羽与様 古織様       
                   御送候て舟本ニて
                   見付申驚存候
                   忝由頼存候 恐惶謹言 

                    二月十四日 宗易(花押)
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    〆      利休
                   松佐様      宗易
                     回答

 利休七哲の一人と称された忠興の、この行動は大変称賛されているが、まさに真実利休を師と仰いだ忠興の真骨頂と言える。時に忠興29歳。
熊本に伝わる茶道・肥後古流は、利休の茶道の形を保持したまま現在に伝えられている。
熊本の誇りであり、10余年その茶道のお稽古を続けたことは私の財産となっている。
二月廿八日、利休は切腹した。

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■手討達之扣ー(5)

2024-02-13 07:20:58 | ご挨拶

13、安永八年正月廿五日 松本傳蔵手討

  堀丹右衛門組松本傳蔵儀町屋之者不届之儀有之昨日手討御日柄之儀心附ながら難差通様
  子ニ付不止事打果申候由依之傳蔵儀如何程ニ相心得可仕申哉之段覚書相達候ニ付先相慎居候様
  申達置猶又始末之委細承届別紙書付相添昨夕御用番江相伺候處近日可被申達被申聞候事
    正月廿五日         堀 丹右衛門

     
  熊本中唐人町砥石屋善次郎借家ニ居申候薩摩屋伊右衛門と申者ニ而呉服物等商ニ買仕今日
  私宅江参商賣之儀二付私方へ茂無之候處不埒之筋を申出難差通有之候得とも御征(祥)月御日柄
  儀之ニも御座候故再應罷帰り候様申聞候得とも承引不仕色々悪口仕難差通無余儀打放申候
  御日柄ニも御座候ニ付私儀如何程ニ相心得可申哉此段可然様奉願候 以上
    三(正)月廿五日      松本傳蔵

     
  別紙を以御達申上候私手討仕候訳は去夏之比私方江暫召仕候下女私方江相勤居申候内右
  伊右衛門ゟ帷子を調申候由私方ゟ暇を出し申候後も右銭相拂不申由ニ而伊右衛門旧冬も度
  たび私宅江共罷越相拂候様申候ニ付右帷子賣買いたし候ハゝ其方相對之事ニ候へは手前ゟ相拂
  申筋無之右下女江申通請取候ニ而可有之存候段申聞候得共右帷子賣申候も御家を見懸ケ賣
  渡申候間御屋敷ゟ御渡被成候様申候 然共私方ゟ相拂可申様も無之其段申聞候得は旧冬其分ニ
  引取申候 然處今日罷越居銭相渡候様二と断たん声高二申候ニ付私臺所江罷出直ニ承り候処
  前条之通申聞候ハゝ難差通御座候得共御征(祥)月御日柄之儀二も心付声強くハ不申聞又明日
  二も罷越候様申聞候得は弥以承引不比目色を替へ私居申候和気に腰ヲ懸申候ニ付不届成ル躰ニ有之
  下ニ退申候様申聞候処却而氣色を替へ私江手向可仕様子ニ見申候ニ付肩を打申候得は弥申募り如
  何被成筋ニ而打申候哉私事も承り桶屋も仕候 私一類は堀様江も刀を差御奉公相勤申候 惣躰御侍
  之振合私は存居申候 私は御士衆へ頭を下ケ手を■申候儀は無之御座如何ル訳ニ而御打被成候哉右訳を
  不承候而は帰り不申と申て中〃退キ申躰無御座候ニ付御日柄之儀氣付ながら不得止事討放申候
  右之次第御座候 以上
    正月廿五日         松本傳蔵
      熊谷市郎右衛門殿
      吉田傳右衛門殿

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■ 松本甚次郎  (南東38-14)
     次郎右衛門
     茂兵衛
    1、甚九郎
    2、甚十郎   三百五十石 御取次役
    3、傳蔵
    4、丹有(甚十郎)  御鉄炮拾挺頭・薮組 三百五十石
    5、甚助    旧知三百五十石
    6、次郎八(甚十郎)  御目付 三百五十石
    7、鶴彦(傳十郎)
    8、次人(甚次郎)   三百五十石

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■足利道鑑の嫡男・尾池傳右衛門の肥後における屋敷

2024-02-13 07:20:20 | 地図散歩

    近々■我が家検索リスト、再・「山崎」-1をご紹介すべく準備をしている。
そんな中、紺屋今町(日本銀国南側)に尾池伝右衛門の屋敷があることに気づいた。

先に■足利道鑑の子・相場彌左衛門、正保弐年二月十一日病死仕を書いた際ご紹介したが、13代足利将軍・義輝の子が道鑑(義辰)、
その嫡子が西山伝右衛門至之(左京)であり、尾池伝右衛門その人である。

今まで、かなり地図帳を眺めてきたつもりだが、今回一人ひとりの名前をチェックしたことから発見できた。
場所は日本銀行の南ブロックのやや三角形の場所だが、町名は紺屋今町である。
当時は白川に面し、大きく広がる対岸の景色は素晴らしかったと思われる。
伝右衛門はのちに、父道鑑や弟・勘十郎と共に京に上っているが、このようなところで肥後での生活をしていた。

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