天正十九年(1591)二月十三日、羽柴与一郎(羽与=細川忠興)は秀吉に蟄居を命じられ舟で堺に下る利休を、古田織部と共に淀川べりにて見送っている。
二月十四日付のそのことを謝す松井佐渡(康之)宛書状 財団法人松井文庫所蔵
態々御飛脚過
分至極候 冨左殿
柘左殿御両所為
御使 堺迄可罷
下之旨
御諚候条 俄昨
夜罷下候 仍淀
迄羽与様 古織様
御送候て舟本ニて
見付申驚存候
忝由頼存候 恐惶謹言
二月十四日 宗易(花押)
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〆 利休
松佐様 宗易
回答
利休七哲の一人と称された忠興の、この行動は大変称賛されているが、まさに真実利休を師と仰いだ忠興の真骨頂と言える。時に忠興29歳。
熊本に伝わる茶道・肥後古流は、利休の茶道の形を保持したまま現在に伝えられている。
熊本の誇りであり、10余年その茶道のお稽古を続けたことは私の財産となっている。
二月廿八日、利休は切腹した。