記
期日:令和6年2月17日(第三・土曜日)午前9時45分~11
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入
講師:論語研究家・図書館講座「出水論語講座」元講師 阿田俊彦氏
演題:『西郷南洲翁遺訓』の誕生、そして頒布
一般参加自由:
資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話( 090‐9494‐3190 眞藤)
参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
又、マスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします
以下の10・11は同一の事件にかかわるものであるが、我が祖母の実家に関わる事件ともいえる。
10、安永四年七月四日 伴儀兵衛手討仕損シ差扣
西山大衛組伴儀兵衛當分雇置長屋ニ召置候久左衛門と申者去ル四日之夕不届之儀有之手討仕候
處間合遠ク手疵を負せ申候 儀兵衛儀数年足を痛近キ比ニ至候而者別而不時由之程ニ有之
難住存念討損門外江迯出申候 依之方々相尋候得共行方知レ不申候處翌五日流長院住僧狩野兵
太夫(伴儀兵衛実弟)宅ニ罷越久左衛門儀寺を頼ミ参候儀二付何卒彼ノ者慮外之筋差免候様兵太夫まて
頼申候 右之趣儀兵衛江兵太夫申聞候得とも如何躰ニ有之共難差免様子ニ付久左衛門儀是非相渡
候様再應流長院江及取遣候得共決而相渡不申候而申越候間猶又申向置候儀二御座候共右之通手
延ニ相成候次第難住心底奉恐入候 依之儀兵衛儀如何程ニ相心得可申哉と相達候ニ付先相慎居候
様申聞置右書付御役所江持参相達置候處儀兵衛儀慎ニ不及旨御用番ゟ即答被申聞候叓
七月十日
西山大衛組伴儀兵衛儀雇置候久左衛門と申者手討致損候ニ付再應書付今日御役所江相達申候
處儀兵衛儀雇置申候久左衛門と申者を手討致損候依頼延々ニ押移同十三日差出候書付之趣重畳
不埒之様子ニ付依之儀兵衛儀差扣候様可申達旨申来候事
(実弟) (従兄弟) (小舅)
11、安永四年十二月 狩野兵太夫・西村角左衛門・木村武右衛門逼塞
安永四年十二月 狩野兵太夫
兵太夫儀実兄伴儀兵衛儀當七月手討致損流長院江迯入住僧ゟ助命之儀相断手討延々ニ相成
始末兵太夫儀差添申談候事ニ候得者儀兵衛不覚悟之処を差詰心被付可申處不埒之心得ニ付被下置
候御知行之内五拾石被召上御留守居御番方ニ被仰付弓削一角組二被召加旨仰出候事
・十二月六日
中瀬助之進組西村角左衛門儀従弟伴儀兵衛儀當七月手討致損流長院江迯入住僧ゟ助命
之儀相断手討延々ニ相成候一件ニ付始末申談も可仕候処角左衛門儀行届不申不心得ニ付逼塞被
仰付旨被仰出候事
・十二月六日八ツ時分ゟ廿六日御免之事
松野外記組木村武右衛門小舅伴儀兵衛儀當七月手討致損流長院江迯入住僧ゟ助命之儀
相断候ニ付手討延々ニ相成其節武右衛門儀病中ニ手申談ニ相加不申候ニ付数日不埒ニ押移居候ニ付而
病中たり共心を付存寄之儀共可申遣儀二候處粗略之心得ニ付逼塞被仰付旨被仰出候事
・十二月六日 儀兵衛従弟等ニ者御咎無之儀兵衛江被仰渡ニ依而身分伺
西山大衛組伴儀兵衛儀雇置候坪井町久左衛門と申者當七月四日不届之儀有之候由ニ付手討いたし候処
討損流長院江迯入住僧助命之儀相断候ニ付数日延々ニ押移候次第其内差出候書付を以達
尊聽候處寺院へ入込寺僧ゟ相断候ハゝ猥ニ押懸ケ討放候儀者可致遠慮事ニ候候得とも既二手負候者其上
難差許段書付をも差遣上ニ而其上再應茂尋常に申断夫共ニ不致承引候ハゝ不得止事是非
請取候而遂吟味不缼武士道様可致覚悟事ニ候処畢竟差詰候取斗之後難を考不埒ニ押移候旨
被為 思召上未練之至ニ御暇被下置候旨被 仰出之候由御用番助右衛門(米田是福)殿ゟ書付相渡と
儀兵衛江私可申渡旨ニ付則儀兵衛宅江罷越申渡候事
・十二月六日 西山大衛
覚
伴儀兵衛儀致手討候久左衛門儀遂穿鑿候處元来可致手討罪状は無之候ニ付何事可被遊
御免者ニ候得とも儀兵衛不始末之一件も右久右(左)衛門ゟ事發り無節被仰付候通ニ付聊之
事とハ乍申御士ニ對し候儀久右(左)衛門存命ニ居候へ者御城下拂被仰付筈ニ候處先達而牢死
いたし候 此段承置候様儀兵衛一類中江貴殿より可被申聞候以上
十二月
儀兵衛御暇被下候節御用番より西山大衛江被相渡候書付
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ここに登場する主人公の伴儀兵衛の弟である狩野兵太夫とあるが私の祖母の実家の6代目である。
兄・儀兵衛は伴家の養子となり、三男兵太夫が狩野の家を継いだ。
その儀兵衛が事件を起こした。下人の久左衛門を手討にしたが、病身で足元がおぼつかなく討ち損じてしまった。
そして逃げられてしまい方々探したところ、久左衛門は流長院に助けを求めて逃げ込んでいる。
そこで、足が悪い兄に代わって兵太夫が引き渡しを求めるが、流長院側は寺則によりこれを拒否する。
従弟や小舅(儀兵衛の奥方の兄弟)も関るも話は進まず、日が経過していく。
奉行所の調べによると、原因が些細なことらしく手討にするようなことではなかったという。
久左衛門は本来ならば御城下払い程度の事であったらしいが、拘束されたなかで牢死している。
そこで事件の顛末としては、儀兵衛は知行召し上げという過酷な処断を下された。
祖母の実家の兵太夫は50石を召し上げられた。元々は200石の家だがこの事件後は100石となったのだが、これは
宝暦期の世減の規矩(50石減知)によるものと合わせ100石減となったようである。
無礼討ちは武士の特権だとされるが、このように正当な処断もなされたことをご理解いただきたい。