この手討事件も少々問題になった。門池弥五右衛門は大園村の尉助という人物に悪口雑言されたが、「御日柄」の日であったため、殺生は避けようと二度宗打(みねうち)している。
処がそのことが自分自身で不本意なことと感じ、日を改めて出かけて手討にしたという事件である。
奉行所としてはすんなりこれを受け入れるわけにはいかなかったのだろう、「不届きの軽重」に対して問い返している。
形式的なものであったのだろうか。弥五右衛門にとっては無事に一件落着した。
「御日柄」とは将軍家や細川藩主家の系属の祥月命日を言う。
28、寛政十一年二月八日 門池弥五右衛門 大園村尉助手討
小笠原庄左衛門組
口上之覚
私儀玉名郡小田手永横嶋村江逗留猟ニ罷越居申候処同手永大園村江居申候尉助と申者慮外
之儀有之昨八日御日柄之儀は乍心附難差通右尉助討果申候 重キ御日柄之儀ニ付奉恐入候
如何程ニ相心得可申哉此段奉伺候 以上
二月九日 門池弥五右衛門
口上之覚
私儀玉名郡小田手大園村尉助と申者打果候旨趣次第儀ハ同手永横嶋村伴助と申者請居
候鴨網場之内私譜代之家来とも催合ニ相加網ヲ張候ニ付私儀も見物旁罷越逗留とも仕候處
此節は去月廿三日ゟ罷越去ル二日迄滞留仕居候内右尉助と申者私江對し難差通悪口雑言追々
仕候様子承候ニ付為糺猟宿善右衛門と申者所ゟ呼寄候へとも不罷越候ニ付右尉助所へ去二日罷越前段
悪口次第不届之由申聞候處誤(謝)不申候ニ付不得止ことを打擲之心ニ而刀之宗(棟)ニ而ニ刀打候得は迯去
申候 元来打擲之心故其分ニ而差置尤右之子細村庄屋江懸合置一先ツ在宅江罷帰り候得共退而あひ
考候得は宗(棟)打と申儀不本意過失之先非後悔仕其分仕置候而は不相濟事ニ付早速大園村江罷越
遂始末可申と奉ね候処折悪敷腹痛仕候間保養仕候上去ル六日ゟ久光小右衛門養子久光八助・門池亀之允
右両人猟之躰ニ而同道仕罷越申候処尉助儀居合不申候故村之者共江も相頼申候而尋出候間猶■仕候ハゝ
迯去可申哉も難斗直ニ差通始末を申聞昨八日夕方討果申候 尤亀之允儀ハ用事有之一昨日在宅へ
罷帰り八助儀ハ相滞居候ニ付右之場へも立合始末見届申候 且又村庄屋共呼寄置死骸等引渡罷帰申候
此外相違候子細無御座候 以上
二月九日 門池弥五右衛門
當なし
覚
右は玉名郡小田手永大園村尉助と申者を討果申候而始末之覚書付を相達候 右ニ付而弥五右衛門江相尋
候趣左之通
一尉助儀難差通慮外候ハゝ即座打果可申処弥五右衛門書付之趣ハ元来打擲迄之心故其分ニ而差
置候処退而相考宗(棟)打不本意之由ニ而討果申候由右躰不届之軽重は其座ニ而分明之事ニ付元来
打擲迄之心ニ候ハ事物軽キ方と相聞候処宗(棟)打不本意を以追而討果候ハゝ不届き之軽重ニかかわ
さる存念ニ候哉
一追而事を起シ討果候上は御日柄之處心付候ハゝ手堅キ仕法を以翌日討果候而可然事ニ候
右之趣如何相心得候哉被承糺書付取次可被相達候 以上
二月
口上之覚
私儀玉名郡小田手永大園村尉助と申者討果候ニ付始末之書付相達候 右ニ付御尋之趣左之通
一尉助儀難差通慮外候ハゝ即座ニ而打果可申処書付之趣元来打擲迄之心故其分ニ而差置候処退而
相考宗打不本意之由ニ付討果申候由右躰不届之軽重は其座ニ而分明之事ニ付元来打擲迄之
心得ニ候ハ事柄軽キ方と相聞候処宗打不本意之由を以追而討果候ハゝ不届き之軽重ニかかわざる
存念ニ候哉
此儀御尋之趣奉得其意候 尉助儀追々悪口雑言仕候次第承候ニ付為糺明旅宿江呼寄
候得共不罷越候ニ付尉助所江罷越候上猶不届之躰ニ罷在候ニ付討果可申処打擲之心ニ而
人命を馳候趣は不軽所ニ相■即座之決断不分明ニ而疑惑仕先宗打迄ニ而差置候處
退而後悔仕と申訳身分既ニ抜刀仕候て宗打之侭閣候而は難相濟誠ニ不届き之次第も打果た候程
之者と治定仕候處故追而討果申候 尤此跡ニ至り候而は不届之軽重ニかゝわらざる儀御座候
一追而事を起し打果候上は御日柄之所ニ心付候ハゝ手堅キ仕法を以翌日討果可然事ニ候
此儀御尋之趣奉得其意候 尉助儀去ル二日ニ打擲仕罷帰候上引返シ打放候存念ニ有之候処
脇痛難儀シ候故保養仕候上同六日大園村江罷越候処尉助儀居合不申何レ身を隠シ候と相
聞候ニ付若手入不申候而は身分難相立村之者抔ニ頼置策を以尋出候ニ付而は暫も猶豫
難仕併重キ御日柄之儀手堅キ仕法を以翌日討果可申哉の儀も思■仕候得共旅宿之儀付
萬一不慮の変有之候而は難相濟旁以即日打果申候儀ニ御座候 御尋之趣ニ付は右両条
之儀當否之儀如何程右御尋之趣ニ付夫々御請申上候 以上
二月 門池弥五右衛門