津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■足利道鑑の子・相場彌左衛門、正保弐年二月十一日病死仕

2024-02-11 07:54:02 | 人物

 「手討達之扣‐(3)」をご紹介した中で、伴儀兵衛が所属した組頭が「西山大衛」とあった。
西山家のご先祖は足利将軍13代義輝の足利道鑑(義辰)だが、道鑑とその息・左京と勘十郎が細川家の客分となり、勘十郎の息・八郎兵衛
が細川家に仕えて、これが西山家の初代である。
時折何気なく「細川家臣略歴」に目を通すのだが、先の「手討達之扣」を書く中でページをめくってみたら、西山大衛家(南東8‐1)の項に
相場彌左衛門正保弐年二月十一日病死仕」朱書きの書き込みをしていた。
その死亡の日がまさしく今日の日付で驚いてしまった。

2009:8:27相場彌左衛門という人という記事を書いたことを思い出した。
これは、私にとっては少々自慢できる発見で、ある方からお褒めをいただいたものである。
「真源院様御代御侍免撫帳」『熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記」p399』「有馬ニ而牢人衆城乗之刻働之様子」(熊本縣史料・近世編
三p170)を総合してまとめたものだった。
彌左衛門の息左太郎と弟辰之助以降の消息は知れないが、道鑑にこのような子・孫が存在したことを知ることができて、2009年の記事にも書
いているが、「文書漁りもこんな事があるから止められない。」のである。

 12代      13代   足利道鑑   伝右衛門・左京    
 足利義晴---+--義輝-----義辰---+--至之---+--重辰
      |  14代         |    |
      +--義昭        |    +--之氏---氏清---+--氏一---景備
                 |              |
                 |              +--氏政---氏景
                 | 勘十郎  初代
                 +--義茂---八郎兵衛・・・・・・・・→(細川家家臣・西山氏)
                 |
                 +--義次
                 | 藤左衛門
                 +--之直---次之
                
                 +---相場彌左衛門---+--左太郎 (以降不明)
                              +--辰之助 (以降不明)

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■小倉戦争余話「落書上達」ー3・了

2024-02-11 06:49:34 | 史料

 惣師一統ヲナダメ半地押ニ隠居、其以下夫々ノ財科ニ處セラレ、御物頭以下ハ屹ト御賞美被仰付、滞陳中分外ノ義ニタヅサワリ、御預ケ
 被置組方ヲ残シ置、早打ニテ御國ニ来リ、平四郎ト相談ナド、不都合ノ者ハ其罪惣師ニ可准ス、平四郎ヲ早ク死罪二行レ、餘黨ハ罪ノ軽
 重モ可有之、賞罰分明ノ上ニテ各罪ヲ可受間、決テ死ニ入程ノ事ハ無之、タトエ死罪二被仰付トモ、惣師ゟ順々二可被仰付モノナラズハ
 安心ノ場ニ至ルヘシ、依テ趣意嘆願書認メ、差出可申候、理非分明二申内、庄屋差出、乱炮ニハ不居ト聞及候間、御引モ道理カト云、社
 人静ニ受ケ、不知ヲ不知トセヨ、汝ハ平四ガ肥へ取カト云時二、當村百姓ノ帳口ト見エ、狂歌云フタ〃〃〃ト進出テ    
     マルゴシノ、ヌケタガムリカ、庄屋ドン、ケンモツテサエ、二ケタモヲモノ

 初テ一座笑ノコエ有リ、時二神主、無用ノ長居返テ妨ケルナル、只今迠ノ咄ハ此地二流シ、願書ハ差上可然、アゝコゝロナラヌ罪、帰ル
 カト思ヘバ行方不知、百姓モ消失ス、是ハ是、仁和寺ノ六本杉ノ古事ト驚キ、釣竿ヲカタゲテ、明方近ク我家へ帰リヌ、
 此書ヲヒロイ是ヲ考ルニ、文王狩ニ出テ、太公ヲ獲、天皇笠置ニ楠ヲ■ム此人釣ヲ好ヲ名言ヲ聞皆同日ノ論ナルベシ、上聞ニ達シテ、政
 府ノ眠ヲ覺ンヿヲ思ヒ、卑身ヲウラミ、予二タスクルモノカ、惜ラクハ、其名ヲカクスヿヲ志ヲツイテ上達スル者也、
        寅十月     去隠士
       愚家老
       愚中老
       臆病中

 此落書丙寅小倉凱陳之時分之事
   慶應ニ丙寅十月廿二日御花畑御門前ニ落居候由

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