津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お詫び

2007-11-23 09:02:31 | 熊本
 「肥後六花」についての新聞記事(12回分)のタイピングを終え、UPの準備をしながらいろいろ考えた。実はこの記事が載せられていた新聞やその日時が分からずにいた。昭和49年頃の毎日新聞だと思い込んでいたのだが、切抜きの裏面の記事をいろいろ読んでいると、どうもそうではなくて朝日新聞らしい。我が家は当時、「毎日」と地元の「熊日」の二紙を取っていたのだが、これは勤務先で切り抜いたらしい。いろいろ調べていたら、昭和50年頃朝日新聞社が「新風土記」という本を数冊出している事を突き止めた。どうやらこの中に熊本県編として「肥後六花」が掲載されているらしい。ほぼ間違いないと思われる。そうなると著作権の問題もあって、サイトに上げるのは無理のようだ。ここ一週間ほどの苦労が水泡に帰したが、それはともかくとして、約束を果たせなかった事が悔しい。お詫びを申上げなければ成らない。
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お家騒動・・?

2007-11-22 17:43:17 | 徒然
 中津奥平家では中津城売却の話しが持ち上がっていたが、何だかきな臭い話しが持ち上がっている。はてさて今後目が話せない状態である。これはもうお家騒動ですな。
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沢村大学介吉重のこと

2007-11-22 17:37:26 | 歴史
 西川与助の足軽として戦場を走り回り、家老職までに上り詰めた大学介吉重だが、順風満帆でもなかったらしい。綿孝輯録・巻三十に、松井式部宛の忠利の御内書の一部に、次のような記述が有る。

 大がくハきつかい仕、中津御前あしく成よし風聞申候、何やらん百姓之事を我等ニ申なとヽ、御ミヽニたち候ものニての事と申候、其分候哉、よき事もあしき事も承候ハて叶ぬ事ニて候間、少もきづかいなき事ニて候、其上其儀ハ大学少もしらぬ事ニて候(以下略)

 こればかりでは何のことやらさっぱり分からないが、この年(寛永元年)四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたというのである。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されている。三齋とは寛永二十年まで御目見はなかったとされる。

 肥後人のモッコス気質は、三齋のこの頑固ぶりが伝染したものかもしれないなー。

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肥後ツバキ

2007-11-22 13:26:32 | 熊本
 熊本が生んだ日本画家・堅山南風の大きな「肥後ツバキ」の絵が熊本で公開されたのはいつの事だったろうか。二メートル四方ぐらいはあったであろう、大きな画面に沢山の花をつけた「肥後ツバキ」の老木が、ただ一本描かれた大作だった。大きな花芯を持つ熊本独特のツバキである。さきにブログに書いた、昭和49年頃の新聞に掲載された、「肥後六花」についての記事をタイピングし終えた。肥後ツバキ、肥後アサガオ、肥後シャクヤク、肥後サザンカ、肥後キク、肥後ハナショウブ夫々が、肥後モッコスの武士の手により厳格な管理の元に育てあげられた経緯を、この機会を通じて改めて知る事が出来た。良い仕事をしたと思っている。武ばった肥後武士の印象が、改めて感じられるし、また花にかける一途さがいっそう熊本の保守性を思わせる。ほかの地では決して見ることが出来ない花の姿を、一度だけでも御覧いただきたいものだと思う。肥後六花には、端座した裃姿の肥後武士の姿が良く似合う。
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爺のときめき

2007-11-21 18:54:28 | 徒然
 楠本健吉の言葉に「本と、酒と、女に使った金は、何らかの形で必ず帰ってくる」という迷言(?)がある。女性に金を使った覚えはないが、本と酒には随分奉仕したように思う。歴史狂いした昨今、本棚の奥に思いもかけない本を発見して、大いに参考になっている事を思うと、「俺も馬鹿じゃーなかったな」と合点したりする。お酒とて若い頃の無茶飲みも、下戸の方より社会勉強をした事は間違いない。赤提灯に数時間居座って、おでんなんぞで角打ちを数杯あおり、議論をし、喧嘩をし、茶碗を叩いて「ちゃんちきおけさ」を歌い・・・良い友を得た。
 そんな友人から久しぶりの電話、「赤提灯で忘年会をしよう」との誘いである。必ず出席を約して電話を切る。メンバーも想像できるし、場所も同様だ。こんな事で胸がときめく。爺になった証拠だなーと頬がゆるんだ。
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御煩之次第之覚

2007-11-21 11:26:18 | 歴史
 細川忠利の絶筆とも言える「右のてくひより手なへ申計ニ候、しに可申様ニハ無之候、可心安候、已上」の書は、あまりにも痛々しい。これは寛永十八年三月十日に、江戸に居る光尚に対しての書状の裏面に書かれている。本文では腰湯をつかったら右手が聞かなくなり舌が麻痺したとある。そんな状態での自筆の書である。三月十七日に忠利は亡くなるのだが、御医師・高本慶宅が記した上記の文書は、同年正月十八日からの忠利の容態が記されている。この年の正月二日には道鑑(足利義輝・子)や宮本武蔵などと杯を交わし、翌日は鷹狩なども楽しんでいる。そんな中でも忠利の病状は深刻なものに進行していることを伺わせる。二月には松井興長に「もしもの事があれば、光尚のことを頼む」と話したとされ、それなりの自覚を持っていたことがわかる。田舎に居ると治療もはかばかしくないので京へ上りたいという希望も、病の進行がそれを許さなかった。
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肥後六花

2007-11-20 15:25:55 | 徒然
 10/24当ブログでご紹介した、肥後六花についての記事をご紹介すべく、現在タイピング中。唯今半分完了。花に係わる、肥後侍の異常なまでの取り組みが、大変興味深く紹介されている。日曜日位にはUPしたいと思っている。しばしお待ちください。(急がないと後がつかえていますから)
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忠利の気持ち

2007-11-20 14:57:10 | 歴史
 細川立允、刑部兄弟に対する忠利発言(思い)が興味深い。(綿孝輯録から)

■寛永15年12月5日光利(光尚)江之御書之内
 同名刑部事身上成不申候、迷惑仕付而金子かされ候由、我等分別に相不申候、子之事ニて候へは三齋様御こらし候ハんと思召、迷惑仕様ニ被仰付候ニ、肥後取持候事、却而刑部為如何と存よし、其上其方より銀なと参候由、八代へ聞候ハヽ、弥跡を御詰候事可有之候、又御失念ニ而候事も可有之候、とかく御分別之子細可有之ニ不入儀と存候、我等為にハ弟、其方為ニハおちニて候へハ、悪敷仕ものにて無之候ニ付、弥刑部為如何と案入候

■寛永16年正月6日光利君江被仰進候御書(抜粋)
 (正月四日忠利は八代に三齋を見舞っている)
 同名刑部事中を御たかい候而御誓文にて御直り候ましきとの儀ニ付而、左候へハ人しちニ進上被成候、刑部三齋様と中たかいニ落付候へハ、 公儀へ人しちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間、立允を替りニ江戸へ可被召連と御老中へ御談合候へハ、尤との被仰様ニ候(以下略)

■寛永16年9月2日光利(光尚)君御自筆之御口上書之控
  八月卅日ニ酒讃岐殿へ私参申候、口上之覚
 立允事越中弟ニ而御座候へども、越中肥後へ罷下候刻、又越中江戸へ罷越候刻計ニ八代より参候まで、ふだんハ八代ニ計居申候故、立允心をも越中ハ不存候故、兄弟之儀ニ御座候得共、大国をも拝領仕、立允かくごをもミとヾけ不申候而、むさと知行なと遣ハけニ而も無御座候、然共為能力三万石遣置申候事

 扶持をまったく与えられず、光利に借金の申し入れをした刑部の経済状況や、三齋との修復不可能な仲違い状況、そして立允が刑部に替わり証人として江戸へ下されるであろう前段の話として、大変興味深い。「仲違い状態の人間を(江戸に)人質として置くのは公儀に対して役に立たない」という認識が大変面白い。
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冬の気配

2007-11-19 08:24:48 | 熊本
 お向かいの屋根の上から、お天道様が顔をお出しになる時間が随分遅くなった。もうすっかり冬の気配、起き掛けの室内の温度は10度しかない。これで一気に紅葉も進む事だろう。我が家の老犬は後ろ足がすっかり萎えてしまい、それでも徘徊して少しのくぼみにあおのけにひっくり返り、悲しい泣き声で助けを呼んでいる。もう体中が汚れてしまって、洗ってやらなければいけないのだが、こんなに寒くてはどうしようもない。プランターに植えてあったベゴニアが、種を飛ばしたのだろうか、コンクリートの小さな割れ目や、塀の脇に10数株目を出したと思ったら一斉に花をつけた。掘り起こしてプランターへ植え変えようと思ったが、せどや風の冷たさに思わず身が引けて、これはもう少し暖かくなってからの作業にしよう。8:22一気に太陽が顔を出した。さて今日も一日元気で頑張りましょう。
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岸本新五左衛門

2007-11-18 18:48:58 | 歴史
 今日の「なんでも鑑定団」の出張鑑定が、熊本の山都町だとは全然知らず偶然TVをつけた。母親から「絶対開けてはいけない」と、子供の頃に言われたといういう箱を持って登場された方の、其の箱の中身は慶長五年・六年の加藤清正の宛行状だった。其の主は「岸本新五左衛門」という人だそうだが、まさしく本物二つで100万だったかな(記憶がとんでいる)何だか聞いたような名前だが、細川家の「侍帳」にも「有禄士族基本帳」にも、岸本姓がみえない。手持ちの「加藤家侍帳」にも見えない。絶対岸本氏だったと思うのだが・・・段々不安になってきた。明日TV局に連絡してみようかしら。
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ロワッソ

2007-11-17 16:04:14 | 熊本
 来年のJ2リーグ入りが殆ど決定した「熊本ロッソ」が、突然チーム名の変更を言い出した。どうやら「商標権」に引っかかったらしい。買い取るには金も懸かるし、いっそのこと名前を変えてしまえというわけだ。ロッソに熊本を代表するアソ(阿蘇)を引っ掛けたらしい。社長が中学のクラスメイトという事もあって、わがサイトにロゴなどを貼り付けたり、リンクさせたりしようと思った矢先の事で、ちょっと吃驚。
がんばれ「ロワッソ」
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綿孝輯録VS細川小倉藩「日帳」

2007-11-17 15:29:03 | 歴史
 綿孝輯録と「日帳」を並べて置いて読み比べている。小野武次郎(綿孝輯録・編者)という人の能力の高さをつくづく感じる。「日帳」は、奉行所においてその日の出来事を記録したものだから、生活感に満ち溢れていてそれが大変魅力だと同時に、悲惨な出来事がありのままに書かれていて気持ちを暗くさせる。武次郎は当然この「日帳」にも目を通しているはずだが、大変上手に取捨選択している。藩から逃亡する「走り者」や、人妻と通じたいわゆる「女仇(めがたき)」はほぼ誅伐されている。後に宝暦の改革で、このような死刑制度が改められるわけだが、寛永初期のころにはいまだ戦場を走り回って命のやり取りをする感覚が残っていたのかもしれない。「はたもの」と呼ばれる死刑者を「様斬」したり、自ら刀をふるって新刀の試し斬りをいることが数度にわたり記されている。そのことを詳らかにしたいとも考えたが、そこだけ引っ張り出してしまうと、事が強調されて誤解を招きそうな感じがして思いとどまった。二つの貴重な記録はまさに「光」と「影」といった感じがするが、正史である。
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お言葉ですが・・・

2007-11-17 11:38:37 | 書籍・読書
 最近のTVのバラエティー番組を見ると、漢字の読みとか、筆順、四文字熟語等々を扱ったものが多く見られる。「お馬鹿タレント」などと言われる人たちの、素っ頓狂な答えに、あまり何でも演出だろうと思っているが、本当だとしたら・・・危うい。私自身も毎日ブログを書く中で、ボキャブラリーの貧困を十分自覚しているのだが、六十数年の勉強不足のなせる業で如何ともし難い。最近高島俊男氏のいろいろな著作にとりつかれている。(「とりつかれている」も、どの漢字を当てれば良いのかまよってしまって・・平仮名)「李白と杜甫」などというお堅いものから、第11回の講談社エッセイ賞を得られた「本が好き、悪口言うのはもっとすき」等多彩である。週間文春に連載された「お言葉ですが・それはさておきの巻」を現在読んでいるが、目から鱗がぼろぼろ落ちる感じである。65年生きて「百姓ことば」なる存在を始めて知った(汗)
1997年のベストエッセイ集「司馬サンの大阪弁」を数ヶ月前に読み返し、同氏の「昭和三四郎」に再遭遇して事ここに至った。面白い事請け合います。
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次はこれだ

2007-11-16 17:25:12 | 徒然
 図書館の書棚を眺めていてふと思った。「次はこれだな・・・」と。
「大日本近世史料・細川家史料」は既に二十巻が発刊されている。総てではないが巻末に人名索引がついている。大体10~15ページ位のもので、P15×20巻として約300ページ、約150枚をコピーするのはそう骨ではないだろう。一度に4,5巻、五回位足を運んでコピーをしょう。そして、「人名索引」を作ろうという訳だ。「どうです、いいアイディアでしょう・・・」家臣はともかく、細川家にかかわりある人たちが網羅されるわけだ。熊本県史を2、000頁ほどコピーするつもりだったが、悪友から「馬鹿」呼ばわりされてしまい、95,000円(古書籍店での近世史3巻分)をぽつぽつ貯めることにして、コピーは諦めた。「朝令暮改」はもっとも私が得意とする所で、次の目標が決まった。(もっとも誰も使ってはいただけないでしょうけど・・・)これは絶対やる。
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御掃除奉行の仕事ぶり

2007-11-16 11:36:43 | 歴史
 田辺城籠城衆の一人で討ち死にした上林助兵衛の子甚助は、豊前に召し出されて御掃除奉行となっている。確たる証拠はないがいろいろな傍証から、宇治の御茶奉行上林氏に関係していると睨んである。そんな甚助の仕事ぶりを「日帳」から追ってみた。

福岡県史・近世史料編 「細川小倉藩」日録より
御掃除奉行・上林甚助消息

■寛永元年
・九月十日:「あゆ玉」
  上林甚介登城にて、明日よりあゆ玉いさせ申候まヽ、御奉行被仰付可被下候、先百斤仕候ハヽ、しれ可申候間、其以後は御奉行不被付ケ候て(も)不苦之由、則田辺作介を奉行ニ被申付候事
・九月十七日:「鍬新調」
  上林甚介御うたせ候くわ九丁出来仕候、持参申候、則伊佐源七方へ可渡候由ニ候事
・十月廿七日:「土龍ノ黒焼」
  土龍を上林甚介与より上ケ申候、則作庵所へ遣、くろやきニ仕候へと被申付候事
・十一月十二日:「花ノ種蒔ヲ命ズ」
花ノたねふせ候へと、上林甚介ニ申渡候

■寛永二年 (欠)

■寛永三年
・五月十八日:「大橋ノ柵建設」
上林甚介ニ、大はしのしからミ仕候へと申渡候、奉行無之候■、弥五右衛門組を付候へと申候事
・七月廿四日:「水替桶」
水かへ候用ニおけノ事、八右衛門方より申来候間、上林甚介与手前ニ有之除掃(ママ)おけ遣候へと申付候事
・十一月四日:「曽根ノ土手ノ柳ノ枯枝ヲ茶屋ノ薪ニス」
そねの土手柳の枝かれ申候をきらせ、御茶の屋の御薪ニ可仕通、上林甚介ニ申候事
・十一月十三日:「風呂屋ノ紙張ノ釣手ノ鉤調整」
御風呂屋ノ御しちゃう(紙帳)つりてのかき(釣手ノ鉤)、上林甚介与之者ニ、さいくの衆候間、仕せ候へと、甚介ニ申渡候事


■寛永四年
・二月七日:「掃除ノ者ヲ普請ニ遣ウ」
上林甚介与を、瀬戸五左衛門見立所へ、普請遣可被申由、甚介所へきりかミ遣候事
・五月三日:「宇治屋ノ茶壷」
(宇治屋)ちや助仕候御茶壷壱つ詰候而、上林甚介持参仕候事

■寛永五年
・正月廿八日:「西ノ茶屋柿ノ台木ノ植付」
夕部道倫被申候ハ、西ノ御ちや(屋)ノ前ノ畠ニ、柿ノ台木をうえ候へと、前廉上林甚介ニ被仰へ共、右ノ畠ハ水つき申候間、清水(小倉城下)辺ニて、甚介見立次第ニうへ置候へと、可申渡由被申ニ付、其段甚介ニ申渡候事
・二月九日:「あんめんとの種子ヲ植ヘシム」 
(国遠)道倫被申候ハ、あんめんとヽ申ものヽたねにて候、廿(甘)御座候間、上林(甚介)ニ被仰付、畠ニうへさせ可申由、持被出候事
・二月十一日:「あんめんどノ種子」
あんめんど廿粒、甚介ニうへさせ可申旨、道倫奉ニて被持出置候を、則上林甚介ニ渡申候、うえ様ハ道倫ニ可被尋由、申渡候事
・二月十四日:「楊梅ノ継穂五百本」
かんしやく(岩石・田川郡)より、楊梅之つきほ五百本参候を、上林甚介ニ渡申候事
・二月廿五日:「枸杞ノ用」
くこ(枸杞)御用之由、被成御意候間、則上林甚介を召寄、申渡候事
・二月廿六日:「枸杞ノ用」
くこ御用之由、被成御意候条、昨日上林甚介方へ申渡候、上り候共、不上候共様子無之付、今日右之趣、甚介所へ尋遣候処ニ、はや昨日六升御台所へ上ケ申候へハ、大分候間、是より以■後は、毎日壱升宛上ケ可申由、被成■■■■■
御意之由候事
・二月廿七日:「掃除奉行組ノ小頭見分」
上林甚介与之小頭四人、今日めしよせ見申候事
・三月十八日:「使番ノ鉄炮足軽ニ掃除者ヲ交代セシム」
上林甚介与ノ内より四人、今日より御使番ニ上ル也、さ候て、御鉄炮衆四人戻申候事
・三月廿八日:「鉄炮足軽百人召抱」
上林甚介、■今度百人抱申候御鉄炮衆百人ノ内、林甚右衛門と申もの下ノ北方ニ而すへ上候由ニ而、はいたか(逸鷹)一居すへ来候、則横沼(横野間)権八をよひ、見せ申候処ニ、上野太郎兵衛預ノ御鷹ノ由申候、則様子申上候事、よくすへ上申由、被仰出候事、九郎兵衛を以申上候処、右之御意ニ候事
・四月八日:「宇治屋茶介没ス」
うちや(宇治屋)茶介今夜相果申由、上林甚介申来候事、但、茶介つねヽヽ泰岩寺たんなの由ニ而参候つる間、右之寺へ、桶ニ入、又茶介銀子少在之通、やしないむこ申候間、是も相当可遣由申候、其分可然由申候事
・六月六日:「台所茶ノ用」
当年上林甚介仕候御茶、大つほ弐つニ詰、御台所の御茶の御用ニ上申候事、但、皆川治部ニ渡候へと申渡候
・七月八日:「京菜ノ種子」
京なノたね杉箱壱つ、築山兵庫より、進上被申候、則上林甚介ニ蒔せ可申旨ニ而、林隠岐被持出候事
・七月廿五日:「上林甚介茶壷」
上林甚介仕候茶つほ壱つ、治部所より御奉行所へ遣被置候を、御茶道之(古沢)真斎ニ渡候事
・九月八日:「棕櫚ノ移植」
築上郡岩丸のしゅろ三本ほり、右之内、壱本七日・八日両日ニ椎田へ出申候、壱本ハ須田ノはしニ有之、〆弐本ハ御郡奉行衆・御惣庄や九日之御礼ニ罷出候間、舟津へ出申事不成候由、上林甚介より、同くミノ新右衛門ヲ使ニ被越候事
・九月十六日:「築城郡ノ棕櫚ノ移植 運漕」
築城郡へ、しゆろ掘せニ遣候御鉄炮衆牧丞太夫与村上久次罷帰候而、申候ハ、上林甚介申候も、しゆろほり仕廻申候、舟ニつミ被申候へと、御船頭衆へ申候へ共、未つミ不申候、就夫、甚介も与ともニ未逗留仕候、つミ仕廻次第可罷帰通、申越候由申候、甚介与ノ外ニ、跡より被遣候鉄炮衆、小頭とも廿人罷帰候
・九月十七日:「棕櫚移植」
上林甚介・野村孫兵衛しゆろをほり仕舞、舟につミ候て、罷帰候事

■寛永六年
・二月十七日:「客人屋の燗鍋ノ鉉鍛冶奉行へ懸ケシム」
御客人屋之かんなへ四つノつるかけさせ候へと、住江甚兵衛より切帋被差上候、御かち(鍛冶)奉行ニ被申候て、上林甚介与かちニかけさせ候へと、中江作右衛門・武藤加右衛門ニ申渡候事
・閏二月十六日:「焼土払切ル」
上林甚助(ママ)申越候ハ、焼土之事被仰候へ共、仕置候分ハ、去年不残払きり申候而、少も無御座候間、唯今やかせ可申候や、得御意候由申越候、林隠岐ニ被相尋、をき被申次第ニ仕候へと返事候事
・閏二月廿六日:「白蓮花ノ根」
寺嶋主水へ、白蓮花ノ根事、上林甚助よりきりかミニ状ヲそへ、上せ候事
・四月五日:「忠利牡丹ノ実ヲ植ヘシム」
上林甚助呼、江戸より被仰下候、ほたんの実取、植させ候へと、被仰下候間、時分ぬけさる様ニ植可被申候、なく候ハヽ、御家中ニてもらい、うえ可申旨
御意之通、書付渡候事
「牡丹ノ種ヲ小壺ニ詰ム」
甚助被申候ハ、ちいさき壺壱つ御詰被成候而、江戸へ御下被成可然存候由、被申候、得其意候由申事
「あひん製作ニ浅葱椀ヲ求ム」
あひん御誘被成御用ニ、浅黄椀拾人前入申候間、上林甚助ニ可有御渡通候、そこね申儀にては無之由、住江甚兵衛所へ切帋遣事
・四月八日:「家中侍へ茶ヲ賜与スルハ恒例」
弓削與次右衛門被申候ハ、御茶申度由にて、御家中御侍衆より壺持せ給候、いつも詰被遣由ニ候、当年も御詰候て可被遣哉と被申候間、それハ此方へ御尋ニ不及候、此方より指図も不成候、いつも仕付たることくニ、(上林)甚助ニ仕候へと、可被申由申渡し候事
・四月九日:「土手廻ノ苺ノ採集ヲ上林甚助加々山可政ノ乞ニヨリ許ス」
上林甚助より、使ニて申越候ハ、土手廻之いちごう(苺)時分も能御座候、御取せ候而可然存候、左様ニ御座候へハ、かヽ山主馬(可政)殿より、先日取せ可申由被仰候間、各様へ御尋可申と存候つれとも、其砌すきも無御座、又各様へ主馬殿より御尋候而も被仰候哉と存、とらせ申候、今時分ニて御座候間、御とらせ可然由申候間、いつもはつをとらせ候而、 三齋様へ上申候ニ、主馬より被上候へハ、 殿様より被進候ハ二番ニ成申候、主馬所へハ遣候儀ハ甚助越度にて、 三齋様へ 殿様より御上ケ候てのち、主馬より上候てこそ可然存候ニ、主馬より上候てのち、 越中様より御上候とハ成かね申儀ニ候、さたのかきりにて候由、返事申候事
・四月十六日:「なべ苺ヲ求ム」
御ナへ様(南条元信室・細川興秋女鍋)より、遠藤吉右衛門を以被下候ハ、いちごを御もらいなされ度■被思召由ニ付、上林甚介ニ申候へハ、各へ申候而へと申候間、さ候て被仰下旨ニ候、奉得其意候事由申候事
・四月十七日:「あひん出来ス」
上田太郎右衛門登城にて被申候ハ、あひん悉仕廻申、ほし申迄ニ仕、上林甚介ニ渡置候由、被申候事 
・四月十九日:「花畠ニ淡竹ヲ植ユ」
上林甚介をよひ、は竹(破竹)西之御畠ニうえられ候儀、其方奉ニて候哉と、尋申候処、御書付を被下置、うえ申由申候、はや大形うへ仕廻申候、今少だめをうえ申由候事
・五月二日:「茶壷」
林隠岐預ノ御つほ弐つニ、上林甚介ニ御茶つめさせ候、又ちさき御つほ一つ、合三つ、何も隠岐へ渡置候へと申付、又右衛門ニ持せ上ケ候事
・五月十一日:「客人用茶壷ノ茶詰」
御客人茶つほ一つ、上林ニ詰させ、玄徳ニうけとらせ候置候事
・八月十六日:「田町ノ鷲部屋小屋懸撤去一件 掃除奉行ヲ訊問ス、諸牢人煙草刻売
        ヲ願ウ 侍町 豚部屋跡或ハ大橋ニ小屋懸ハ可ナリ」
田町之わしへや(鷲部屋)の左右小屋かけを仕り、売買仕ニ付、田町のものとも迷惑かり申候、昨日吉田縫殿登城ニ而(被)申候、今朝上林仁介をよひ、彼所之小屋かけの様子ハ其方被存由聞及候、御意ニ而被申付哉と相尋候処、甚介申分は、御意にてハ無御座候、町人にても無御座、諸牢人とも、彼所ニきさミうりなと仕度由申候、左候而左御座候は、其近所掃除をもきれいニ可仕由申ニ付而、諸状をとりをき、こやかけ申付候ニ付、此方より申候ハ、左候は早々のけさせ被申候へ、其子細は、侍町ノ中ニかようニ候てハ見苦敷も候、其上田町ノものともめいわく仕儀候、式部殿も被成御聞届、のけさせ可然通被仰候間、可被得其意由申渡候、甚介申候ハ、彼所をのけ申候とも、又いつれへも参、小屋かけ仕にて可有之候、きさミうり御法度にて御座候哉と申候間、たとへ小屋をかけ、しょうはい仕候とも、御町奉行ニ相尋、ためいけへ出候ぶたへやノ跡なとにも、こやかけさせ被申由候間、左様ノ所ニ成共、又ハ大橋なとにても、こやをかけ来候所ニかけ候へハ無申事候間、其分ニ仕候へと可被申付通、申渡候
・九月六日:「鷲部屋ノ左右ニ小屋掛商売ノ者運上ニテ
上林甚介登城ニ而申候は、篠崎(規矩郡)わしとや(鳥屋)の左右ニ小屋かけ申候而、商売仕候もの、先日退候様ニとの被仰付にて退申候、彼者申候ハ、運上を上候而、右ノ所ニ被召置被下候は、左様ニ仕候而罷居度通申候、如何可仕やと申候へとも、一通御家老衆被仰付、御退させ候上は、今又か如何○(様)とも仕儀ましく候間、右ノ分ニ可被仕之由、申わたし候事
・九月十二日:「掃除奉行元安国寺ノ枯松ヲ奉行等ニ伺ハズ処分ス 忠利ノ下国ニ
        備ヘ門ノ内外ヲ入念ニ掃除セシム」
上林甚介ニ申渡候ハ、元安国寺ノ枯松を、其方切せ売被申由風聞候、左様之儀ハうり被申候か、御薪ニと被申候かを、惣積衆又ハ我々ニも様子可被相尋由儀を、下にてさようニ被仕儀ハきこへ不申候由申候へハ、大学殿(沢村吉重)殿へは、くさり候分ハ御薪ニ仕、其外はうり候へと被仰候ニ付、其分ニ仕候、直段ハ材木屋をよひ、申付候由申候、并御下国ニ候間、御門内外御そうち念を入可被仕由、申渡候事
・九月廿三日:「東ノ追廻馬場ニ草生エ見苦シ」
ひかしのおいまわしニ、草事外はえ候て見くるしきよし、御家老衆被仰候間、からせ可被申候、鍬にて打申候へハ、馬をせめ候時、足ぬかり悪敷由、安大夫も被申候、かまにてからせられ候へと被仰候、又おいまわしの土手ニ、竹をうえおき被申候、若御馬なとかけ上り申儀も可有之候、左様之時、御馬ふミぬきなとを仕、又は乗手落候而、けかなと候へハ、悪敷事候間、竹を土ノそこよりきらせ候て、取候へと被仰候間、右ノ通、上林甚介ニ申渡候事
・十一月十二日:「上林甚助生姜ヲ上グ 生姜ヲ能ク埋ル者アリ 忠利ノ痰ノ薬」
上林甚助より、せうが(生姜)を持せ越候、何かたへ成共御渡候様ニと、申越候ニ付、足立與兵衛ニ相封仕、当分御用程は與兵衛ニ渡候而、残分は、当郡(規矩郡)貫村ニせうが能いけ申者在之由申候間、彼者ニ尋候而いけ、損シ不申候様ニ仕置候へ、御たん(痰)の御薬ニ入候間、念を入候へと、甚助ニ申渡候へ之由、御掃除の又右衛門尉申渡候也

■ 寛永七年
・三月十八日:「二重咲ノ白躑躅」
白つヽじしかぶ(四株)、くろはる(黒原村・規矩郡)へ送夫ニ而、何方共不知、小倉へ遣候へと申、参候由ニ而持参候を、平野九郎右衛門(長氏)を以、得御意候へハ、請取置候へと被仰出候由ニ付、うへ所茂不被仰出付、御掃除之宇兵衛ニ申付候而、上林(甚介)所へ遣候而、西ノ御花畠へうへ置候へと申付、遣候事
・四月朔日:「上林甚介挽茶ノ見分ヲ願ウ」
上林甚介御茶仕上候色を見候へと申候而、引茶少持参申候事

福岡県史・近世資料編 細川小倉藩(全三巻)より一・二巻分了
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