津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

季刊誌「季刊・永青文庫」

2008-06-23 18:24:17 | 歴史
 永青文庫のHPを見ても情報が公開されていない季刊誌についてご報告しておきたい。
季刊誌「季刊・永青文庫」が復刊されている。これを入手する為には「永青文庫友の会」
入会する必要がある。年会費5,000円(学生3,000円)入会費は無料である。

 会員特典
   ■永青文庫所蔵の美術品をデザインした会員証
   ■同伴者1名まで、永青文庫入館料が無料(有効期間中、何回でも)
   ■季刊誌「季刊永青文庫」が年4回送られる(無料)
   ■ミュージアムショップにて20%割引
   ■メールマガジンの無料配信
   ■各種イベントや企画展の後援会の案内

 美術館窓口でにて直接、又は郵便振替による申し込み

   郵便振替口座 00150-6-17558 財団法人永青文庫
   通信欄に「友の会会費」と記入、氏名、住所、電話番号を忘れずに記入する事

 これですばらしい季刊誌「季刊永青文庫」が、あなたの手元に届けられますよ・・・
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のんびり日曜日

2008-06-22 21:29:46 | 徒然
 藩校サミットが終わり、本当に肩の荷が下りた感じでほっとしている。
何をする気持ちにもならずのんびり過ごしていたが、うれしいメールが入ったり、又御先祖(一族)探しのメールが入ったりで、そのご返事のみが今日の仕事と相成った。
読書も一切せず、昼寝を二時間ばかりして、雨の合間をぬって草むしりをしたり、夕方TVの「笑点」で笑い「篤姫」を楽しんだ。又明日からの「歴史狂」に、充分すぎる英気を養った感じがする。
玄祖父上田久兵衛についての、新しい資料の公開も出来そうだし、出来れば独立したサイトにしようかなどと妄想が膨らんでいる。
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長岡へ

2008-06-22 10:30:09 | 熊本
 「第7回全国藩校サミット熊本大会」が、1,000名以上の皆様の出席を得て無事終了いたしました。
大雨の中での開催となり、出足が懸念されましたが、続々と会場においでいただき、ごった返すロビーの状況に感激いたしました。次回開催地・長岡に無事バトンタッチを終え一安心と云ったところです。

 大会での感動は、小さな幼稚園児たち数十名による「論語」の暗唱でした。お揃いのハカマ姿が愛らしく、「子曰く・・・」と発せられる声に、参会者の皆様の中に目頭を抑える方が居られる程でした。我々の祖先もそうであったろうと感慨に浸るとともに、江戸期の教育の素晴らしさを実感させられました。悲惨な事件が度重なる今日、現今の教育の限界が感じられるとともに、「徳育」の充実が叫ばれているなか、子供達の可愛らしい大合唱に一筋の光明をみた感じがいたします。感動の一日を過ごし、疲れ果てて爆睡し遅い起床となり、ご報告が今となりました。ご協力いただきました皆様に、深く御礼申上げます。そして次回「長岡大会」も又、盛会になりますよう願ってやみません。
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細川氏動向--兼見卿記から(4)

2008-06-21 07:12:09 | 歴史
天正六年(1578)
■三月一日:長岡兵部大輔来
■三月八日:長兵来、明日下向坂本云々
■三月廿三日:右府信長御上楽、召具侍従兼治、至山科罷出、申刻御上洛、於路次申入御礼、諸家各粟田口邊へ被出云々、長兵於路次参会、皈路同道直皈京
■四月九日:(略)長兵在京、罷向對談
■九月十二日:長兵来
■十月八日:(略)長兵来、後刻皈京、来十日於勝龍寺興行圍碁、可下向之由、契諾同心
■十月十日:依兼約下向勝龍寺、出長兵門外面会、同道宅(略)入夜圍碁(略)
■十月十一日:於沼(沼田弥七郎入道)入在朝飡、長兵相伴
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「学而創新」藩校サミット--いよいよ明日

2008-06-20 09:05:32 | 熊本
 いよいよ明日に迫った「藩校サミット」・・関係者の奔走は続く。球磨工業高校で制作されていた「藩校時習館」の模型が出来上がった事が、今日の地元紙で報道されている。明日早朝会場に持ち込まれて、お披露目となる。素晴らしい出来栄えのようだ。時を得て川口恭子氏の「重賢公逸話」の著作も出版された。新たに出来た熊本県立美術館の永青文庫展示室には、まさに熊本の至宝とも云うべき名品の数々が展示されている。又美術館別館に於いては肥後先哲遺墨展が催されている。藩校サミット関連行事であるが、このような機会を得て初めて目にするものばかりではないのか。

 懸念されるのはお天気だが、こればかりは人智の及ぶところではない。足元が懸念されるが、沢山の皆様に是非ともご出席いただきたい。熊本の教育・文化・思想の原点を確かめて、新たなる熊本を創造しなければならない。まさに学而創新につきる。
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勇姫様

2008-06-19 10:50:22 | 歴史
 細川家十二代斎護公の姫君だが、越前松平家の春嶽公夫人と言ったほうが、分かりやすいかも知れない。「いさひめ」と読む。天保五年七月十四日龍口邸にて生まれる。同十六年松平越前守へ縁組、その後疱瘡に罹ったため、細川家より婚約解消の申し入れが成されたが、越前福井藩はこれに応ぜず、嘉永三年三月に輿入れしている。

 越前福井・松平家といえば、家康の二男結城秀康を家祖とする名家である。
春嶽は天保八年前藩主斉善(19歳)の死去に伴い、十六代当主となった。当時福井藩は大変な財政難であり、藩士の禄高半減を行っている。初入国は六年後の天保十四年、そして嘉永三年の「勇姫輿入」の慶事である。安政四年春嶽は肥後細川藩士・横井平四郎(小楠)の招聘に動く。細川藩の抵抗があったが翌年小楠は福井に赴く。当然勇姫の助言があったろう事は想像できる。「国是三策」を呈して福井藩改革を指導した。小楠はいわゆる「士道忘却事件」で帰国するが、春嶽は小楠の為に経済的支援を行うほど、その力量を大きく評価している。春嶽をして「幕末の四賢公」の一人とするが、勇姫がおり小楠がこれを支えた。熊本市と福井市の友好都市締結の所以である。

 春嶽は明治23年(1890)没・62歳、勇姫は明治20年(1887)没・54歳。仲睦まじい夫婦であったと伝えられる。

 
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藩校サミット--あと三日

2008-06-18 14:30:24 | 熊本
 今日未明から雨という天気予報は、見事に外れてしまった。気温は32℃を越えているし、湿度も60%となんとも暑苦しい。又明日頃から雨模様のようだ。21日の「藩校サミット」は何とか雨が降らないようにと祈るばかりだ。私の中でトラウマになっている昭和28年の熊本大水害は6月26日だった。それを思うと21日などという日は、梅雨の真っ只中でこれはもう神頼みしかない。
 それにもめげず、沢山の皆様にご参加いただけると信じている。こちらも神頼みである。兎にも角にも盛会裏に終わらせて、次の開催地へ引き継がなければならない。
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細川氏動向--兼見卿記から(3)

2008-06-18 13:51:24 | 歴史
天正二年(欠)
天正三年(1575)
■十一月廿七日:入夜長岡兵部大輔(藤孝)自岐阜上洛、直ニ来(略)
■十二月十八日:(略)依兼約直下向勝龍寺了、於沼田弥七郎長兵面会

天正四年(1576)
■正月九日:(略)入夜長岡兵部大輔来、樹齋同道、及深更相談了
■三月十六日:東寺宗及所ニ長兵(藤孝)滞留也、予約諾之間罷向、参会、及深更
■三月十七日:長兵江州へ下向也、三十三間迄同道(略)
■十月十六日:長兵自安土上洛之次来、重服之間請入神竜院、滞留
■十月十七日:齋了長兵出京
■十月十八日:長兵在京也、罷向(略)
■十月廿七日:(略)直罷向勝龍寺、長兵へユカケ一具、与一郎(忠興)太鼓徽一懸、舎弟頓五郎(興元)小鼓之徽一懸各遣之、古今傳授之内所々不審在条書、日本記神代之巻之内也、注之令持参、今夜夜抑留滞留、入夜乱舞
■十一月三日:(略)長兵来、明日左大将殿御上洛也、為御迎罷出之由也、重服之間一宿
神竜院
■十一月四日:長兵差朝飡、午刻左大将殿為御迎(略)
■(信長内大臣に任ぜらる)
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「一位日本武士眼中的中国」

2008-06-17 10:18:14 | 歴史
 中国の文学資源研究系助教授、陳捷(ちんしょう)氏の論文、「一位日本武士眼中的中国」というものがある。明治八年三月八日、玄祖父上田休(久兵衛)は四十日間に渡る中国の旅に出ている。其の時の「日録」に関する陳捷助教授の論文で、『中日文史交流論集―佐藤保先生古稀記念』(上海辞書出版社、2005年9月)に掲載されている事を知って図書館に出かけた。残念ながら熊本県立図書館には蔵書としてなく、福岡大学図書館からコピーを贈っていただいた。・・・全く分からない・・・どうしようもなくお蔵入りとなっていたが、今般その翻訳文が送られて来た。「ある日本武士がの目から見た中国」と訳されている。直系の玄孫上田氏のご努力で、前四川外語大日本語学科准教授の楊霞斐氏の翻訳によるものである。著作権の関係もあろうし、ご紹介するのは難しく思われる。

 二年後の熊本は西南戦争の戦渦に巻き込まれ、上田休も川尻地区の住民の要請を受けて鎮撫隊を結成して住民の安全の為に奔走する。その結果謂れのない罪を得て刑死するのである。新しい時代の草創期とはいえ、その死は余りにも無残である。公武調和に身を挺し、帰国の後は民政に全力を捧げ、藩の崩壊後も己の信ずる道を失うことなく中国を訪れて見聞を広める努力を成した。川尻に於ける住民の自治によっての一つの成果は、明治新政府にとっては、「危険思想」と写ったのかもしれない。子孫であるが故の感傷に浸るのではなく、歴史に真実の貴さを後世に伝える責任を思うのである。
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藩校サミット・・あと五日

2008-06-16 17:34:08 | 熊本
 「第7回全国藩校サミット全国大会」は「学而創新・仁義礼智信」をスローガンに、平成20年6月21日(土)、熊本市民会館でいよいよ開催される運びとなりました。たくさんの皆様のご出席をお待ちいたしております。

   11:00~歓迎行事
        小岱流斬試・葦北鉄砲隊射撃演舞(熊本城長塀前)
   13:00~サミット(熊本市民会館)  指定席以外入城無料 
        ●記念講演Ⅰ「江戸の徳育と平和教育」
              講師・徳川恒孝氏(徳川記念財団理事長・徳川宗家18代当主)
        ●基調講話 「肥後時習館にみる人材育成」
              講師・堤克彦氏 (文学博士・元菊池高校教諭)
        ●記念講演Ⅱ「秋山玉山の漢詩」
              講師・石川忠久氏 (斯文会理事長・前ニ松学舎学長)
        ●パネルディスカッション「藩校教育を今日に生かす」
              コーディネーター 白石宗靖氏 (漢字文化振興会事務局長)
   19:00~交流会 (ホテル日航熊本) 有料
         詳細については藩校サミット熊本大会実行委員会におたずねください。
                         TEL(096)319-1552

   藩校サミット関連行事
        ・肥後先哲遺墨展(6/17~22 県立美術館分館3F)
        ・徳川恒孝氏著書サイン会(6/21 熊本市民会館)
        ・能楽金春半能「高砂」他(6/21 熊本市民会館)
        ・細川活花肥後宏道流・肥後未生流(6/22 熊本城本丸御殿)
        ・細川流盆石 (6/22 熊本城数奇屋丸 但し・来県者)
        ・永青文庫展 (熊本県立美術館本館・永青文庫展示室)

 
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細川氏動向--兼見卿記から(2)

2008-06-16 16:05:53 | 歴史
元亀三年(1572)
■五月十四日:辰刻信長下向也、今道也、罷出、有路次之傍申礼了、家君へ石成(友通)来、其跡へ
          細兵・三太・弥四郎(三淵秋豪)来了(略)
■五月廿四日:向細兵了
■六月三日:細兵・三太(三淵藤英)・小笠原(貞慶)・清少(舟橋國賢)・徳大寺(公継)殿参了
■九月十四日:向細兵・三太、自江州北部上洛也、今度信長一段之機嫌、對両人懇情之由相談了
■九月十七日:勝龍寺細兵へ以書状・使者、蓮養防(坊)知行分之事申遣了、明十(明智光秀)へ申理
          義也、自三太相添書状了(略)
■九月十八日:伏見へ三太見廻了、直勝龍寺細兵へ罷也、今夜滞留也
■九月十九日:大覺寺門跡、勝龍寺細兵へ御見廻也、有一献之義、予罷出也、今日依抑留逗留了
■十月廿二日:向細兵・三弥(三淵秋豪)、蓮養防知行山門領地、此間明智(光秀)存分也、此儀細
          兵・紹巴(里村)令馳走也、未相済了
■十一月廿五日:(略)午刻依所用向細兵(略)
■十一月廿六日:細兵来、直坂本へ下向也(略)家君堂上之事、以細兵申入武家(足利義昭)御(所脱
          カ)之処、御許容也、然間去十五日被仰出傳奏飛鳥井黄門(雅教)、而黄門奏問
          云々、忝之旨、令祗候申入了、不可有御別義之旨仰也

元亀四年/天正元年(1573)
■四月七日:以和平之義、自信長名代織田三郎五郎・佐久間衛門尉(信盛)・細川兵部大輔(藤孝)、
         武家(足利義昭)御所へ祗候也、各御對面云々、後刻参武家御所了
         (信長、足利義昭と和議を講ぜしめらる)(八日信長岐阜へ還る)

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細川氏動向--兼見卿記から(1)

2008-06-15 16:05:09 | 歴史
兼見卿記に細川氏に関する記述が初見されるのは、元亀二年(1572)正月の項である。
「細兵」と表記あるのが、細川兵部大輔即ち細川藤孝である。

元亀二年(1572)       38歳  10歳  9歳
■正月六日:細兵親子三人(藤孝・忠興・興元)、松井(康之)、観世与左衛門尉来了
■二月九日:向細兵、皈城勝龍寺也、直ニ罷下、於路地云(略)
■二月十七日:(略)細兵・三太(三淵藤英)・家君(兼右)御出也
■三月十五日:於細兵各有舞曲、家君・予罷向了、十番過歸了
■十一月廿八日:(略)細兵・三太・明十(明智光秀)来、今般之御下向無用也
  *「毛利輝元が厳島神社正遷宮のため、吉田兼右に下向を請う」た事に対し
元亀三年(1573)
■閏正月十日:向細兵、及晩各相談了
■閏正月十三日:休齋(細川孝之)屋敷東堀之普請申付了
  *孝之の生まれは天正十三年であり、休齋を孝之とするのは、明らかな間違いである。
■閏正月廿九日:向三太、細兵各参會了
■二月九日:細川兵部大輔女房衆以書状申来云、三月可参宮、依其年不参宮、又廿六歳者不参宮云々、如何、且以無正説事也、何時モ不苦、忌重軽服神事之儀肝要之由返事
   (近日天変ヒカリ物、御殿之邊飛散云々)・・彗星カ
■三月五日:向細兵
■三月廿七日:信長屋敷之築地、三太・細兵自今日普請云々
■四月十六日:至河州表出陣、佐久間(信盛)・芝田(柴田勝家)・明智(光秀)・細兵(細川藤孝)・三太(三淵藤英)・池田(勝正)・伊丹(親興)・和田(惟長)、貮萬計在云々
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地震

2008-06-14 17:42:18 | 徒然
 又宮城で大きな地震が発生、山崩れ現場のすさまじい映像に息を飲みました。被災された皆様にお見舞いを申上げます。実は熊本でも16:19、16:21の二回に渡り震度1の地震が有り、TVの画面を見ながら思わず身構えてしまいました。九州は数億年後には上下二つに分かれると言われるほど、でっかい活断層が熊本を真横に走っていますから、人事とは思えないのです。その真中にある阿蘇山は有史大爆発し、その灰を北海道まで降らせたといいますから、並では有りません。阿蘇の巨大なカルデラはその名残です。中国の大地震など地球の小さな「咳払い」なのかもしれませんが、驚きますねー。こうなると神様仏様に祈る事しか無いようです。日頃無信心のこの私ですから、とてもお聞き入れにはなら無いでしょうが・・・
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細川伊也・再嫁

2008-06-14 16:37:24 | 歴史
 細川家記は「伊也」について、次のように記している。
「女子・伊也(一ニ也伊)吉田左兵衛督卜部兼治室 永禄十一年(1568)戌辰生レ・月日不明・初メ一色左兵衛督義有ニ嫁ス、義有亡キ後更ニ吉田左兵衛侍従卜部兼治(身上千石)ニ嫁ス、幸朝(又幸能、愛宕山下坊福壽院住持、妙庵幸賀弟子ナリ、僧正)ノ母ナリ 慶安四年(1651)辛卯二月廿四日洛外吉田山中神龍院ニテ卒去ス、年八十四、法号浄勝院雄誉英光」

 忠興が妹婿・一色義有を謀殺したのは天正十年(1582)九月八日、忠興は20歳である。忠興は永禄六年(1563)の生まれ、妹・移也は五ツ違いである。綿孝輯録の第二巻(藤孝公p139)には、(天正九年)「五月、藤孝君御女伊也一色義有に嫁せられ候」(p139)そして「十二月朔日義有男子出生、五郎と名付らる」(p142)とある。僅か一歳の愛し子五郎は、伊也から引き離され愛宕山福壽院へとやられ、二十五歳で亡くなっている。

 兼見卿記にその後の伊也の消息は詳しい。
天正十年十一月廿七日という義有謀殺から僅かの時期に、伊也の縁談が持ち上がる。
「丹後長兵(藤孝)へ差下飛脚与三太郎、侍従(兼治)縁之也」幽齋のもとへの使者が十二月三日に帰り「祝義之事延引、来正月也」とある。十三日藤孝・忠興父子は、秀吉の長濱(柴田勝家)攻めに出陣。年が明けて正月廿六日「當月中丹後長岡兵部大輔(藤孝)息女、侍従為縁邊上洛之由・・」とあるが、三十日には「自丹後未上洛、如何不審了」と伊也が未だ上洛せぬ事に首をかしげている。そんな時期二人の為の普請も出来上がった。五日の日記には大雪の為に上洛が延引、この月が閏月であるから上洛を来月にするという。三月一日、いよいよ輿入れの荷物が到来、廿三日伊也上洛の為出立の報せが入り、廿八日夜祝言が執り行われた。

 時は秀吉と柴田勝家の決戦が始まる直前である。

 天正十二年三月六日、伊也は女子を出産、四月八日伊也は兼見宅を訪問社参の後、兼見が「御満(オミツ)」と名づけている。侍従兼治の幼名が満千代で有った事による。幽齋の伊也に対する心遣いが隋所に伺える。先夫・一色義有謀殺事件からわずか二年後のことである。伊也十七歳。多くの子供に恵まれ、長生きした事は先に記した。
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阿呆の仕業 taspo

2008-06-14 15:05:23 | 些事奏論
 
                街中に むなしきタバコ販売機

 全国たばこ販売協同組合連合会とか、社団法人日本たばこ協会とか・・・「どうなってますの」といいたい。未成年者に対するたばこ販売を規制する為に考え出された事だろうが、ひとりコンビニを利する仕儀と相成った。自分で自分の首をしめた形だ。報道によると、成年の識別を運転免許証でやるシステムもあると聞くが、個人経営者を見殺しにする上部機構というのは、なんともお粗末の極みである。私はタバコを吸わないから、どうでもいいけど・・これは「阿呆の仕業」だな
  
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