津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興弟・細川孝之と忠利の仲違い--Ⅱ

2008-11-20 17:29:56 | 歴史
 昨年の11/27日のブログ「忠興弟・細川孝之と忠利の仲違い」について、全文を知りたいとのリクエストがあったのでここにご紹介する。宛先は家臣仁保太兵衛・下村五兵衛宛てであるがいつの頃のものか特定できていない。

       我等おち休斎事我等申候事を不被聞候間中を違候 就其
       又上度由被申候間主儘与申候 乍去我等者中違二而候
       故、三齋ハ御構候事不成候故、立允笑止かり主知行所へ
       よひ候て置候様ニ聞候緞(ママ)又其替り被上候事も可在之
       候 段々約束違候て心儘二候間右之分ニ候 それ故主身
       躰之事も今ハ構不申候 何事そと可存候間申遣候 段々
       御入候なかき儀ニ候間、此度不申候 左門殿なと御尋候
       ハゝ此前かしらをそり京へ被上候時 色々かための書物な
       と被申付候 左様之事違候とて腹を被立しかり被申候由ニ
       候 今弟之知行へはいり候而被居候由承候通御尋候ハゝ
       可申事

        (熊本縣史料・近世編第二 p140 該当部分抜粋)

 親族の仲違いはなんとも厄介なものである。忠興・忠利の一門払いの結果であろう。
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徒歩一分

2008-11-20 12:31:03 | 徒然
 我が家の隣のスーパーが閉店して不自由していたが、地元のデパートが経営するスーパーとして今日開店した。九時の開店に100台ほどは入る駐車場も満車状態だそうで、ミーハーな妻は早速出かける。いわゆる「デパ地下」の郊外版といったところか。「高い・高い」と言いながら帰ってきたが、何の事はない沢山買物をしてきた。
徒歩で二分かかっていた距離が、大改装で玄関の位置が変わり徒歩一分となった。背中合わせ状態のお隣といった感じだから、賑わいぶりが伝わってこないのだが路上駐車の車がちらほら見える。「ポンパドールが出店してるよ」と妻が娘に電話をしている。娘が好きな横浜元町のお菓子屋さんらしい。小生もお酒でも買いに、現場視察に参上してみようかと、こちらもちょっとミーハー気分である。
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荒木村重系細田氏消息

2008-11-19 21:04:24 | 歴史
 熊本縣史料近世編第二所収「部分御舊記二--賞賜并選挙部五」p469に、荒木左馬介(細田清印=栖隠)の消息が見える。

■細田清印へ為合力金小判三拾両當年より永可相渡者也
    寛永拾九年五月十一日 御印
         奉行中

■荒木左馬介殿へ為合力金小判三拾両當年より毎年被遣
 之旨津川四郎右衛門殿を以被 仰出之条 御印之儀被
 仰上被下候 以上
    寛永拾九年五月十三日 御印 奉行中
         御取次衆中

 荒木左馬介(細田栖隠)は、家光室付奥女中・荒木局の養子となったが、荒木局が罪を得て流罪となり、左馬介は細川家預けとなったものである。先にご紹介した荒木村重系細田氏の祖である。
その時期が寛永十九年であったことが伺える貴重な史料である。
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寛永十年の奉行・代官衆

2008-11-19 20:28:19 | memo
    御奉行所
一、千五百石           浅山修理亮
一、六百六石一斗五升      横山助進 
一、五百五十石          佐藤安右衛門

    御國之惣奉行 
一、千五百石           田中兵庫助
一、三百石             宗像清兵衛
一、四百石             牧丞太夫
 
    御町之奉行并公事聞
一、千石              吉田縫殿助
一、五百石            河喜多五郎右衛門尉 

    惣惣積之御奉行
一、弐百石            福田吉介
一、三百石            荒瀬左太右衛門
一、百五十石           小林半三郎

    御借方之御奉行
一、百石             木村甚五郎
 
    御算用奉行
一、三百石            財津惣兵衛
 
    付替御奉行 切米を取候者を付替可申候
一、百五十石           上野左右馬助
一、弐百石            元田彦丞

    御天守道具奉行
一、弐百石            林隠岐守
一、弐百石            安場仁左衛門
一、百七十石           矢嶋平三郎

    小物成請取奉行
一、三百石            皆川治部丞

    御馬具奉行
一、百五十石           小林吉太郎
一、百五十石           寺川源太郎

    直段究之御奉行
一、百五十石           岡本源次

    御客人賄奉行
一、四百石            住江甚兵衛

    御普請奉行
一、千五百石           寺尾左助
一、六百石            坂崎半兵衛

    御普請道具并屋敷奉行
一、弐百石            中山左次右衛門尉
一、弐百石            不破平大夫

    御作事奉行
一、百五十石           矢野勘右衛門
一、百五十石           和田傳兵衛

    人割之御奉行
一、弐百石             沢田吉右衛門
一、百五十石           余田三右衛門

    御掃除奉行
一、弐百石            上林甚介

    御材木奉行
一、百石              駒井太左衛門尉

    鉄苧并御普請道具奉行
一、七拾五石            伊佐源七

    惣銀之御奉行
一、百五十石            寺川兵右衛門
一、弐百石             宇野理兵衛

    御國中廻り奉行
一、三百石             阿部弥一右衛門尉     森鴎外著「阿部一族」主人公 細川忠利殉死
一、弐百石             荒瀬角兵衛
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徳川の国家デザイン

2008-11-19 13:31:55 | 書籍・読書

徳川の国家デザイン (全集 日本の歴史 10)
出版社名:小学館
発行年月:2008年09月
販売価格:2,520円(税込)


【本の内容】
 戦国時代に終わりを告げた徳川の治世。徳川社会の成立には政権づくりの巧みな手腕があった。

【目次】
 はじめに 徳川の日本人
 第1章 京都と天下人
 第2章 首都と城下町の建設
 第3章 村づくりの諸相
 第4章 神国日本と「国民」
 第5章 農と自然の風景
 第6章 内国のネットワーク
 第7章 徳川の「自治」と「権力」
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跡目申付覚--寛永十九年七月七日

2008-11-18 20:15:13 | 歴史
     跡目申付覚
一、道家帯刀知行弐千弐百石ニ同左近右衛門本知千五百石之内五百石右之弐千弐百石ニ加
   左近右衛門ニ遣
一、松野七左衛門知行三百石同平八ニ遣
一、湯浅角兵衛知行五百石同三太夫ニ遣
一、井門亀右衛門知行千石一職同弥佐之介ニ遣
一、前川三平次知行三百石同縫殿介ニ遣是ハ右之跡目ニ者無之候へとも遣也
一、大石長右衛門知行三百石同新右衛門ニ遣
一、樽井左衛門知行百石同久太郎ニ遣也并久太郎ニ今迄遣置候三人扶持方弟共やしないの
   ためニ候間百石之知行ニ右三人扶持方指添候而久太郎ニ可渡也
一、竹内吉兵衛知行同作丞ニ遣
一、八木田新太郎知行百五拾石同弟長七ニ遣

     扶持方遣覚
一、竹内吉兵衛末子歳八ッ男子五人扶持方可遣也    阿部一族誅伐の際討死した竹内数馬カ
一、国友太郎助弟小熊十二 五人扶持方可遣也
一、井関左源太子市十郎七ッ 八人扶持方可遣置十五ニ成候ハゝ親之跡を可遣也
一、有吉舎人子無之候間弐拾人之扶持方如定置女房ニ可遣也
一、上野角左衛門子無之候間女房ニ六人扶持方如定置可遣也
一、藤寺次郎右衛門拾人扶持方・大判弐枚遣置候 子七太郎太鼓親よりよくうち候間親之跡可
   遣也
                              以上
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山鹿の湯の効用

2008-11-18 14:30:24 | 歴史
 寛永十七年十一月四日、山鹿に出かけた忠利は波多中庵に宛て書状を発している。

 山鹿へ参湯へ入申候 此前も入候 餘りあか落候心候哉身はしゝゝと覚へ
 此度も其分候間我等身内少も無之間さらに入ぬ事と存ニより疝氣斗あらい
 申候へハはや事之外能覚へ申候 加様之きとく成事無之候 其方なとのた
 めにハ如何可有之候哉兎角あたゝめ候湯と覚候 謹言

   www.y-kankoukyoukai.com
 細川忠利公ご推薦の、山鹿の湯宿にお遊びになりませんか・・・
 
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有吉平吉(英貴・頼母佐)再婚

2008-11-18 10:50:08 | 歴史
 9/11ブログで「有吉平吉・後室」を書いたが、大間違いをして変なコメントをしてしまった。ここでいう平吉とは英貴(平吉・頼母佐)のことであり、9/11のブログでは四郎右衛門・立行と間違えていた。(朱書きで訂正いたしました)

有吉英貴は当初、朽木明昭(幽齋兄三渕藤英孫・朽木家ニ代)の妹を迎えたが、此の人は輿入れ後すぐに亡くなったとされる。三齋がすぐに行動を起こしている。

■熊本県資料・近世編(一)p78
 已上
 小倉より幸便之由候間申候有吉平吉女房共煩候て相果候 然者薮小吉所へ遣候伊賀殿(三渕好重)むすめ之いもと御入候それを遣度候 但其方無用と被存候ハゝ遣まゝしく候六兵(朽木家初代明貞)入むすめ果候てから十日の内にて候間勿論平吉ニも又いか殿むすめ方へも何共不申候 同心ニ候ハゝ来冬之時分可申出候 合点候ハゝ去りとも先々さためされましく候 無同心ハ不及申候 恐々謹言
    五月十四日                   三齋(御判)
      内記殿
        進之候

 これに対する忠利の返事が下の書状である。

■熊本県史料・近世編(一)p397 (抜粋)
(前略)平吉女房相果申候ニ付而伊賀殿むすめ薮小吉所へ被遣候いもうとを平吉所へ被遣度之由奉得其意候 拙者ハ只今存寄儀も無御座候 當暮ニ可被仰付候間沙汰を仕間敷之由畏(ママ)存候 此等之趣御披露所候 恐々謹言
  青木与吉罷上候時
      六月五日
         魚住傳左衛門殿

 此の伊賀殿むすめが古屋であり、三齋が養女となして平吉(英貴)に嫁がせた。
 蛇足:三渕好重は慶長七年、従五位下伊賀守に叙任されている。この時期細川家臣での叙任は珍しく、何故なのか首を傾げている。


 +--三渕藤英---+--秋豪
 |          |
 |          +--朽木昭貞---+--昭知-------→(朽木家)
 |                     |
 |                     +---●
 |                         ∥
 +--細川幽齋---三齋(忠興)---忠利   ∥
 |                         ∥
 |         有吉立行---+--興道  ∥
 |                 |       ∥ 
 |                 +-------英貴 
 |                         ∥
 |          +---------------●古屋(三齋養女)
 |          |
 +--三渕好重---+--重政----------------------→(三渕家)
            |
            +--孝紀(長岡中務少輔孝之養子)
            |
            +--山名藤十郎
            |
            +--●蔵(薮市正室)-------------→(薮 家)
            |
            +--●幾久(谷内匠允室)---------→(谷 家)
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くまもと四街道をめぐる

2008-11-17 08:40:24 | 熊本
 国土交通省・北九州国道事務所のウェブサイト「道千キロ漫歩」は中々のもので、日頃親しんでいる。
     www.qsr.mlit.go.jp/kitakyu/history/index.html
 ここでは旧官道、街道に関する情報を発信していて大変面白いのだが、北九州圏に情報が限られている。他の国道事務所が同様の物を作ってくれないかとせつに願っている。

 一方熊本県では、菊池地域振興局が「熊本四街道ホームページ」を最近開設している。
     http://cyber.pref.kumamoto.jp/yonkaido/
北九州国道事務所のサイトのような緻密さには欠けるが、地方の出先事務所の仕事としては評価に値する。豊前・豊後・日向・薩摩の四つの街道を何時の日かじっくり尋ねてみたいと思っている。


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旧陪臣代数及原禄根帳目録

2008-11-16 12:45:15 | 徒然
「旧陪臣代数及原禄根帳目録」を先に公開したのだが、今ひとつ評判がよくない。というのは主家別に編集されているから、探したい人名での索引が出来ない事にある。いつも口の悪い悪友の言である。「わかっとる」んだが、人から言われるとむかつくし、「そんなら人名索引型に作り直す」と開き直ってしまった。          ・・・後悔している・・・
しかし言ったからには、遣り上げなければ男がすたる。分厚い原本コピーを眺めながら大きな溜息を何度もついている私である。
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槙嶋昭光の機転

2008-11-15 14:53:01 | 歴史
 元和元年大坂夏の陣を前にして、大坂方からは大野治長を通じて、秀頼や淀殿の味方を請う書状が度々寄せられている。ちょうどその時期、忠興の愛娘と烏丸光賢の婚礼が予定されていた。そのことを伝え聞いた大坂方は、「是を大坂江人質に取においてハ、秘蔵娘の事なれは同心なくて叶ふまし」と評議一決したという。そのことを槙嶋玄蕃昭光が知るところとなり、かねて忠興と懇意であった昭光は密かに此のことを報せたという。
「能こそ知せ候とて、御婚礼を被差延候」になったのは当然の事である。 (綿孝輯録・巻十九)

 【槙嶋玄蕃頭昭光】
■足利将軍家執権職・宇治槙嶋城主、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、剃髪の名言庵と云  (綿考輯録・巻二)

■慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)  (綿孝輯録・巻五)

 昭光はその後、三齋忠興の側を離れることなく仕えている。綿孝輯録は136歳まで生きたとしているが、菩提寺である禅定寺の過去帳によると「正保三年正月廿日・行年百十歳」であったとする。三齋歿後一月ばかり後の死である。「一空宗也居士」
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光琳寺通り

2008-11-14 15:23:12 | 熊本
 過日車で夜の繁華街に紛れ込んだ。脇道に入って近道し様と思ったのが、それがかえって災いし、にっちもさっちも動けなくなってしまった。若い男女が車が走る道であることを忘れて、勝手気ままに歩いている。
 夏目漱石が、「涼しさや裏は鐘うつ光琳寺」と詠んだかっての光琳寺町、いまは酔客で満ち溢れた歓楽の町である。江戸期の地図を見ると、現在の光琳寺通りはない。終戦後の都市計画で出来た通りだろう。両隣や裏の方は侍屋敷だが、道前は御長柄や中間の小さな家が立ち並んでいた。道筋は昔も今も殆ど変わっていない。今はただ下通り○丁目などという、旧郵政省の都合による町名に変わってしまった。光琳寺も太平洋戦争で焼失したとかで廃寺となって、今は全く其の痕跡を残していない。細川忠利に殉死したお犬牽の津崎五助のお寺であったらしい。
 通りを歩く酔客は、その通りの名の由来などまったく御存知なかろうし、漱石の俳句など論外の事だろう。不景気な世の中だが、酔客が集う街「光琳寺通り」である。
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宇土細川家藩主肖像画・三件

2008-11-14 11:19:41 | 新聞
                    「細川忠興像」(ウィキペディアより)
 
 今日の熊本日々新聞は、宇土市在住のH氏が宇土細川藩の藩主三人の肖像画を、宇土市に寄贈されたことを報じている。初代藩主・行孝公、九代・行芬公、十一代・行眞公だそうだが、写真をみたところ光永文煕氏編の「平成宇土・細川家系譜」に掲載されているものだと思われる。光永氏がH家所蔵の物を紹介されたという事だろう。この写真を見ると、行孝(立允)公の肖像画は、三齋公肖像画にそっくりだという事が分かる。親子だからありうる話ではあるが・・・。11/21から宇土市立図書館で公開されるというから、是非展観しておかなければならない。
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長岡監物 21年、沢村大学 17年

2008-11-13 20:12:24 | 歴史
 寛永二十年(1643)正月十日ころ、光尚は八代に三齋を見舞っている。亡くなる三年ほど前の事だが、綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」とある。どうやら三齋の方から「被召連候様」にとの事であったらしい。さて両人の「帰参以後初而」とはどういうことであろうか。

■長岡監物とは、米田家三代目米田興季(与七郎)のことである。慶長六年長岡の姓を賜るとともに、諱を頂戴して興季監物となった。慶長十二年監物は豊前を退去して京に奔っている。(22歳) 前年の飯河豊前・長岡肥後誅伐に関しての抗議の意味合いが考えられている。末の妹が肥後に嫁いでいた。
同十九年秀頼の招きにより大阪入城、元和八年(1622)春に息・是長(5歳)と共に帰参二千石、寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
(2008年03月13日のブログでは、元和八年の帰参時の記録(熊本縣史料・近世編第二p377)「監物人数之覚」をご紹介した。共に帰参した母・女房・せかれなどの人数が記されていて面白い。)
それ以降、家老職などを勤めた監物だが、再御目見まで21年の歳月を要している。

■沢村大学については、寛永元年四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたというのである。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年(1626)九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されているから、再御目見まで17年を要した。

 熊本人の「肥後モッコス」気質というのは、三齋忠興に発していると言えば言い過ぎか・・・
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八代城(松江城・白鷺城)

2008-11-13 17:45:31 | 歴史
 「松江城」でグヽって見ると、出雲の松江城が紹介され、我が八代城が出てこない事に気づいた。そこで今日は八代城(松江城・白鷺城)とする事にした。

「大きいお城なんですねー」などと言って頂くと、ちょっと嬉しくなってしまう。良く分からないが十万石以上の格式はあるのではないか。熊本城の大きさに驚いた三齋が、八代城の大きさにも「城郭の大にして、自余之取出ニ異り、十万余石の大名居城同前なりと御悦ひ斜ならす云々」と、綿孝輯録は記す。
「八代存之外石垣堀なと見事ニ御座候」とも記されているが、石垣は石灰石が使われており、白く美しい石垣から白鷺城の別名がそれを伺わせる。

2004年市道建設予定地から、八代城石垣が出てきた折の状況についてのサイトがある。
写真から、白い石垣の美しさが良く分かる。
  「石垣出土 江戸初期の八代城の城壁か 球磨川沿いの市道建設地」
    www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics040902-2.html

 ■旧藩主御茶屋・松浜軒(しょうひんけん)
    www.suizenji.or.jp/shohin-ken.htm
 ■松井神社
    pref.kumamoto.jp/arinomama/contents_dbpac/asp/bunkazai/s_frame.asp?...
 ■春光寺(松井家菩提寺)
    city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex1/.../pdf/shunkoji.pdf
 ■八代市立博物館・未来の森ミュージアム
    www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum
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