津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

失火法

2012-08-25 17:05:38 | 史料

 寛永九年十二月廿九日、江戸の細川家上屋敷(竜ノ口邸)は、同じ大名小路の池田(松平光政)家屋敷の失火により類焼焼失してしまった。
                 火元は池田光政殿
現代では失火法により「燃やされ損」(?)となるが、この時代でも同様であったのだろうか・・・

翌年正月十一日、幕府から造作の費用として銀三百貫が下賜された。この火事による被害が大名屋敷などにどの様な被害をもたらしたのかはっきり判らないでいる。寛永十年二月十八日、親しい間柄である曾我古祐にあてた書状(2045)の文面に、火事ニ関した記述がある。

     一、火事ニ相申衆へ被遣候銀子之書立被下候 見申候
        扨々か様之忝儀も御座候哉と奉存計候事
     一、松新太郎殿ハ火本故 無拝領之由 御下候へ共 未
        神奈川ニ御入候由 承届候事

当然といえば当然だが、火元の池田家には銀子の下賜がなかったという一文には笑ってしまう。

又、四月十日付池田光政宛の書状(2118)が存在するが、これは「肥後入国祝儀」に対する返書で火事に関わる文言がまったくない。
処が同日付の日置忠俊宛書状(2119)があるが、これが火事に触れている。
 
       従新太郎殿被下御使者付而芳札 殊入國之為御祝
       儀失送給候 御懇志之段申盡候 遙々御使者別而
       忝候由 能々御心得頼入存候 如御帋面 舊冬新太郎
       殿御屋敷火事之儀 不慮之儀共候つる 委曲御使者
       へ申入候 恐々謹言
            卯月十日

             日置豊前守殿
                     御返報 

日置豊前守については細川家史料・索引には次のようにある。

       日置忠俊 池田光政家老。豊前守。一万六千石。元亀三年生る。寛永十八年隠居。五月十九日没。年七十。

その他WEBによると

              http://ashigarutai.com/shiro003_shikano.html
                http://matinami.o.oo7.jp/tyugoku1/sikanotyou.htm


 

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気になる書状

2012-08-25 08:33:55 | 史料

大日本近世史料・細川家史料にある二三の気になる書状を挙げる。

 ■三宅藤兵衛宛忠利書状(2069)

      爰元へ参候為祝儀 此者進之候 小袖・馬代黄金十両令進入候
      幾久と祝候而迄ニ候 恐々謹言
         (寛永十年)三月二日
                 三宅藤兵衛(重利)殿         
                            御宿所 

 三宅藤兵衛に宛てた珍しい書状である。肥後入国の祝儀の使者を送っている。
 過分の祝儀が親しい関係を物語っている。

 こちらは贈物に対する返礼の書状(2326)である

      近々罷上ニ付而遠路被差越使者 生毒漬一壺・鹽鰹三・同にとり一
      壺送給 令満足候 猶江戸より可申入候 恐々謹言
         (寛永十年)九月四日
                 三宅藤兵衛殿

        尚々 江戸ニ而萬事兵庫殿相談申候而可申承候 兵庫殿御入国
        迄萬かたく御申付候而尤候 九月十二日ニ罷上候 留守用之事
        長岡佐渡迄御申越尤候 以上

 尚々書の相談事が大変気にかかる。例えば藤兵衛の細川家召出し(?)などという話だと面白いのだが・・・・・
 気になる/\。 

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 ■齊藤利宗宛書状(1672-抜粋)

      松下市進殿之儀 則人を進候 爰元ニ御越候様ニと申遣候 宿以
      下申付置候間 可御心安候事
             (中略)
      尚々 市進殿より之御返事懸御目候 彌此方へ可有御越之由候
      間 可御心安候 以上 

 ■齊藤利宗宛書状(1689)

      貴様御使被上候間申入候 市進殿之儀 此朔日二日ニ熊本を出
      船にて此方へ可被廻之由候 先書ニも如申入 在郷ニ宿以下申
      付置候間 可御心安候  上使衆も肥後を當月八日ニ御立候而
      小倉より可有出船旨候 委可申入候へとも 丹州(稲葉正勝)頓
      而可為御下向候間 不具候 春日(局)殿も御上洛之由承及候
      漸々可為御上著と存候 恐惶
         (寛永九年)八月四日
                 齋伊豆様
                      人々御中 

 ■齊藤利宗宛書状(2093)

      二月六日之御状令拝見候 先途は遥々御使忝存候 卻而為御禮
      御念入候御書中共候 并松下一進へ前々家屋敷・本知なと申付
      候為御禮 是又被仰越候 御慇懃之儀候 猶重而可申承候
      恐惶謹言
         (寛永十年)三月廿五日
                 齊伊豆殿
                      御報 

 齊藤利宗は旧・加藤清正臣である。松下一進は利宗の女婿であり、彼もまた加藤清正に仕えていた。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E5%AE%97
松下一進の細川家召出しを忠利に頼んだのであろうか、その報告(1673)(1689)や、御禮に対する返書(2069)
である。齊藤利宗は春日局の兄、寛永11年3月5日春日局の息・稲葉正利(徳川大納言忠長・家臣)が肥後配流と
なり、一進は正利が亡くなる延宝3年までの約40年間を近くにあって見守ることとなる。
この時期二人にとっては予想だにしないことであったろう。 

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■榊原職直宛書状(2096-抜粋)

      其元ニ而申談候蘆十郎左衛門尉(蘆村家勝)事 五百石可遣由
      心得申候 御書中之通見申候而 知行すたり不申 満足仕候事
          (寛永十年)三月廿四日 

■榊原職直宛書状(2287-抜粋)

      蘆村十郎左衛門事 追而具被仰越候 未つかひ候て未不申候
      躰ニより江戸へ之供ニ召連可申かと存候へ共 それも身上之よ
      ハミと思案半ニ候事 

 榊原職直は長崎奉行を務め、はげしい切支丹弾圧で名を馳せた人物である。その肝煎りによる蘆村
十郎左衛門の召出しに関わる返書である。職直は天草嶋原乱における軍令違反(軍監を勤めた佐賀藩・
鍋島勝茂の抜け駆けに行動をともにした)で免職閉門となったが、後許されている。細川家とのかかわり
深い人物である。蘆(芦)村氏召出の経緯が判る貴重な書状である。

  芦村嘉左衛門  (南東44-6)
      芦田備前守     丹波赤井一族・・・・・・・・・・・・・・・・・(芦田とあるが間違いではない)
    1、十郎左衛門・家勝  
        原城にて武功之面々御褒美被下候 出丸一番乗廿挺頭
        寛永十五年九月朔日 本知五百石・五百石加増 (綿考輯録・巻四十九)

              御鉄砲頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
              千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
              真源様代・二十挺頭 万治元年十月病死・鉄炮五十挺頭




 

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児玉四郎兵衛宛 御書出

2012-08-24 15:21:31 | オークション

                  cap■細川忠興■消息分幅■保証■肉筆■掛軸■掛け軸!_画像1 
                                 cap■細川忠興■消息分幅■保証■肉筆■掛軸■掛け軸! 

慶長十六年九月の児玉四郎兵衛宛の御書出である。花押についてはまったく知識をもたないが、こんなものもあったのかと驚いてしまった。
東大史料編纂所・加藤秀幸氏の、「細川忠興花押の編年的研究:附ローマ字印章」を読んで見なければならない。(忠興の花押かな~~~~~~~)


                    http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/17/syoho0017-kato.pdf

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 ■ 児玉四郎兵衛  (南東40-30)【代々御中小姓】

    1、四郎兵衛     細川忠興朱印状(慶長十九年)忠興ローマ字印

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「生誕450年記念展 加藤清正」 図録

2012-08-24 10:44:06 | 展覧会

熊本県立美術館では、「生誕450年記念展 加藤清正」 の図録を販売しています。加藤清正についてこれだけの資料が一同に集まる機会は
又とはないのではないでしょうか。遠くにお住まいで展覧会をご覧になれない方は、このすばらしい図録をぜひご覧ください。 

     http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20120720-0902_katokiyomasa/pmp.html

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地震

2012-08-24 08:14:24 | 地図散歩

 寛永十年一月廿一日小田原で地震が起きている。忠利は二月八日付書状(2014)において、八人の幕府重臣に発している。

              態令啓上候 小田原大地震にて町屋なとも損申候由承候 更共
              其元は相易儀無御座候由承及候へ共 無御心元存候 各様迄
              以使者申上候 恐惶謹言 
                   二月八日
                        
 細川家史料に於いては、八人の名前が横並びに書かれているが、これはどうやら同文にて八人の人に別個書かれたものと思われる。
その八人とは、酒井雅楽頭(忠世)・土井大炊頭(利勝)・稲葉丹後守(正勝)・井伊掃部(直孝)・松平伊豆守(信綱)・永井信濃守(尚政)・青山大蔵少輔(幸成)・酒井
讃岐守(忠勝)である。別個であろうとするのは、氏名の下に「自筆」「尚々書」の書き込みがあることによる。
自筆は小田原城主である稲葉丹後守である。尚々書の書き込みがあるのは、土井大炊頭と酒井讃岐守である。
ここでは特に土井大炊頭宛の尚々書(自筆)を取り上げる。

              尚々 昨日承かけに早打上申候へ共、海上不存候而 又如此ニ
              使を各様へ進上申候 御本丸ニ此前のことく御庭無御座候哉 爰
              元も 細々御本丸御庭なく 常々無御心元奉存候 以上

              只今右近殿より状参 ゑと御城御庭(殿)少も不苦由申来候 尚々
              目出度存候

 ここでは、忠利は江戸城に庭がないことに触れているが、これは殿舎のことを指しており建物が建て込み、とっさのとき避難できる広い庭がないことを心配しているのである。

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三月十八日の土方雄高に宛てた書状(2088・抜粋)に於いては、熊本城の事に触れている。

              城之儀は事之外矢倉多 家もつまり 少も庭無之候上 度々地震
              淘申候故 本丸ニ居申様無之候て 下ニ花なと作候て事之外廣       
              屋敷御座候間 先それニはいり候て居申候 

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又、五月朔日の盛甫宛書状(2155)にも同様のことが記されている。(抜粋)

              小田原地震ニ丹後殿御家中衆一人も無何事之由 珎重候 江戸
              も此中ハ地震止申候由 爰元も此間は一切地震淘不申候 今迄
              は花畠へ移候而居申候 所も廣能御入候事

この盛甫成る人物は、稲葉正勝家臣と考えられている。

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更に五月十一日の森忠政宛書状(2177)にも次の記載がある。

              爰元ハ切々地震少宛淘候て 本丸ニハ無庭気遣ニ御座候而 二
              ノ丸へ下候て居申候 此比も淘不申候 

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年表稿などを見ると、熊本入国以来城内本丸に在った忠利が、度々花畠邸に移る様子が伺えるが、その理由が地震を恐れてということが判る書状である。
城内に地震間が作られ、その後整備が進んだ花畠邸にも藩主の常の御間近くに、地震間が造られることになる。

                     「地震之間(屋)」情報を集めてみる

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家臣への贈り物

2012-08-23 08:31:16 | 史料

 細川家の肥後入国に関する沢山のお祝いに関する返書を見ると、何とも微笑ましい書状がある。
藩主に対するとともに、家臣にも祝いの品が贈られており、これに対する忠利の率直な考えが反映されている。

    寛永十年二月十六日相良長毎宛書状(2039)とその追而書(2040)を見る。

     (2039)    肥後國へ罷越候付而被差越御使者御状 令拝見候 仍為御祝儀
              御太刀一腰・馬代銀拾枚并白柄百本・漆五桶拾貫目 御在所之物
              之由候而被懸御意 忝存候 貴様之儀御在江戸之處 遙々如此之
              段 難申盡候 猶御使者へ申入候 恐惶謹言
                   二月十六日
                    
                   相良左兵衛佐様
                             御報
 
     (2040)    追而申入候 我等内長岡佐渡守・有吉頼母佐・長岡監物・かゝ山
              主馬・筑紫大膳・筑紫左近かた迄も御太刀・馬代被遣候由 申聞
              候 忝存候 為御禮如此候 恐惶謹言
                   二月十六日

                   相良左兵衛佐様
                             人々御中

                 尚々 私へ御使なと被下候さへ御座候ニ 下々迄か様ニ御座
                 候ヘハ 他國へ之聞えも如何と 何も御理申入儀ニ御座候
                 以上 

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一方昵懇の間柄である浅野長直からの書状 (2049)に於いても、家臣に対する祝儀について触れている。

              肥後國拝領仕為御祝儀遠路三左衛門被下 御太刀一腰・馬代黄
              金壹枚・蝋虎鞍覆被懸御意 忝存候 并貴様御継目之為御祝儀
              御太刀・馬代金子壹枚被送被下候 是又過分至候 目出度祝存候
                    辰珍        波多     可政        友好
              次 津川四郎右衛門・中庵・かゝ山主馬・澤村宇右衛門ニ御小袖一
              重宛被遣候 何もへハ御理申入候へ共 貴様之儀は各別ニ而御座
              候間 拝領仕候へと申付候 寄思召忝存候 猶御使へ申候
              恐惶謹言
                    二月廿五日

                    浅野内匠様 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相良家との付き合いは同じ九州の大名であるが、特段親しい間柄でもない。それ故、家臣への祝儀は受け取れないという訳だが、その理は言を尽くしている。
一方浅野家との付き合いはまさに格別なものがあり、こちらは有り難く頂戴するとしている。
このあたりの機微がなかなか面白い。 

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進士作左衛門宛て書状

2012-08-23 08:30:39 | 史料

7月23日のブログで 進士作左衛門  を書いた。

日本近世史料・細川家史料に、その作左衛門に宛てた忠利の書状を見つけた。忠利と作左衛門は沼田家の家系を通じて再従弟の関係にある。
しかしながら、作左衛門については詳しいことが判らないでいる。細川家史料による人名索引によっても「未詳」とある。

     寛永十年二月十六日書状(2037)は、前年の細川家肥後拝領の祝儀に関する礼状である。

             就肥後國拝領申遥々被差越飛脚 殊祝儀と候て手綱十筋并かすの子
                                             大音主馬首
             一折送給候 御志之程別而祝著申候 貴殿煩之由 大主より申来候 如
             何御入候哉 無心元存候 爰元之儀 事之外見事成大國拝領申 忝仕合
                                                吉重     元五
             申も疎之儀候 頓而有付可申候間 可御心安候 尚澤村大學・志水伯耆
             申入候 恐々謹言
                  二月十六日

                  進士作左衛門殿
                           御返報


 作左衛門の煩を伝えた大音主馬首に対しても、同日日付の書状(2038)がある。
こちらも肥後入国祝儀の使者に対する礼状である。伊賀焼の水指その他を贈られて喜んでいる。
なおこの書状の尚々書には「我等事 目少悪候而 為養生以他筆申入候」と、自筆でないことを断わっている。
この人物を通し作左衛門の情報が得られないかと考えている。(加賀前田家臣・大音氏)

この年の正月四日から二月いっぱいに掛け、三齋や御六などを除き175通もの書状が発せられている。
「肥後拝領御慶」「御歳暮」「江戸上屋敷火事見舞」などに対する返書で、忠利は多忙を極めている。目が悪くなるのも納得である。 

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春日局と細川家

2012-08-22 11:08:32 | 歴史

   +---明智光秀---玉(ガラシャ)
   |              ∥------------忠利
   |           細川忠興
   |
   +----妹
        ∥---------齊藤利三---+--齊藤伊豆守利宗(立本)
   齊藤伊豆守利賢            |
                        | 徳川家光乳人
                         +--於福(春日局)---+--稲葉正勝(老中)
                                      |
                                      +--稲葉正利(徳川忠長臣・細川家御預) 
 

  
細川家と齊藤(稲葉)一族とのかかわりは、略系図で判るように明智の血を通じての血縁である。光秀謀反のとき利賢は磔となったが、齊藤利三とその息らは細川忠興がかくまい、のち忠興の願いにより秀吉から助命されている。細川家に対する春日局、その子稲葉正勝、そして春日局の兄齊藤利宗などの厚誼は、齊藤一族の旧恩に対するものといっても過言ではない。
忠利は慶長五年證人として江戸に赴き、将軍秀忠にかわいがられ、養女千代姫(保壽院)を正室に迎えた。家光との関係も格別であったことが伺える。

さて細川家には春日局の書状が五通残っており、その全てが忠利宛だとされる。そのそれぞれの内容は、単なる儀礼的なものにとどまらず、大変親密で豊かな表現が特徴的である。あるときは自分の財産である250両の利殖を忠利に託したりしている。(いつも金欠病であった細川家としては、有難い申し出であったかもしれない)

寛永九年12月9日細川家は大国肥後国に入部する。江戸に於いては29日千代姫や嫡男御六(光尚)がすむ、竜ノ口邸が消失するという一大事が起こった。当然のことながら多くの人がお見舞いの書状を送っている。その中は当然春日局の書状も含まれていたであろう。(未見)
将軍家からの御見舞い(柳生但馬守)に対し、春日局にあてた忠利の書状が以下の如く残されている。
家光に対して御禮の取次ぎを頼むものである。

          寛永十年正月廿九日春日局宛書状(1981)

  一ふて申あけ候 われ/\やしき火事ニつき 上様より御つかゐと候て
  柳生但馬殿を被下 銀子三百貫目はいりゃう仕候 さて/\かやうにか
  さね/\のはいりゃう何とも申上候ハん様も無御座候 御としより衆まて
  御禮に使を上申候 御ついでのときしかるへきやうにたのミたてまつり候
  上殿御きけんよく御さなされ候や うけたまわりたくそんしたてまつり候
  なおかさねて申入候へく候 かしく
         正月廿九日

         かすか殿にて
               誰にても申給へ

そして二月五日に二通の書状を発している。
一通は将軍家光からの御歳暮に対するもので、これも家光に対して御禮の取次ぎを頼むものである。(春日局宛・1999)
今一通は私信であり宛名はおふく殿とある(2000)

  ひごへ参候御しうきと候て はる/\人を下され 御ふミ 殊ニづきん二ツ
  御こゝろさしのほと過分に存候 爰もといまた用のミひて取亂シ罷有候
  御すいりやう有へく候 やかて有付可申候まゝ 御こゝろやすかるへく候
  我等も一たんそくさいニ罷有候 猶重て申承へく候 かしく
         二月五日
 
         おふく殿
             御返事 

加藤忠広の改易に伴う熊本城の受取の大役を担ったのが息・稲葉正勝である。
一方、弟正利は大納言忠長の側近であったが、忠長の処分の後細川家に預けられることになる。寛永11年3月5日のことである。
すでに配流が決定的であったことを病の床で知った兄正勝が、昵懇である忠利に頼んだという経緯がある。(寛永11年1月25日死去)
熊本に於ける正利の奇行に、おふくは自害を薦めている。おふくの辛い一面が窺い知れる。
 

 

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肥後入国後の細川三代

2012-08-21 15:29:02 | 歴史

寛永9年(1632)12月9日、忠利肥後入国
   同   12月20日、三齋熊本城入城、川尻御茶屋宿、22日八代入り
   同   12月29日、江戸上屋敷(竜ノ口邸)焼失す

寛永10年(1633)2月29日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・駿河大納言忠長の重臣・伊藤権兵衛を預かる
   同    3月1日・・・・・・・・・・・・・・・・・旧国侍庄林隼人・出田宮内の抱えにつき榊原飛騨守指示す
        肥後入国・・家臣の採用     9月召出

   同    6月  ・・・・・・・豊前より泰勝院を千葉城に、泰巌寺を八代瓦町に移転す
   同    6月4日書状(2208) 八代大水害・二の丸まで入水、家臣の妻子を本丸に入る
   同    7月  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤右馬允旧臣・西山宗因、肥後を離國上洛す
                             http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%AE%97%E5%9B%A0
   同    7月2日、忠利、弟立允(立孝)に3万石、同天千代(興孝)に2.5万石を内分す
   同    7月16日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤光正、配流先飛騨高山にて没す 
   同    9月 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九州巡検使・小出対馬守ら藩内を巡視
   同    9月12日、忠利熊本発駕(参勤)

寛永11年(1634)1月28日、忠利、将軍(家光)上洛に付鳥羽固めを命ぜられる。5月9日江戸発駕   将軍家光上洛


   同    3月5日・・・・・・・・・・・・・・・・・・駿河大納言忠長の家臣稲葉内記(春日局・息)を預かる
                             http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E5%88%A9
   同    3月8日、御六(光尚)婚姻(十五歳)・・・12月13日より疱瘡、正月本服
   同    5月29日、三齋八代を発駕、京都へ向かう
   同    7月19日、家光参内につき、諸大名二条城に会す。忠利、三齋と共に将軍に謁す
   同   12月10日、於八代、立允(立孝)婚姻、五条中納言息女

  この年川尻に町奉行を置く。 (五ケ町、准町、宿町、在町制度と町奉行支配体制の確立)  

寛永12年(1635)1月16日 忠利発駕、2月14日江戸着
   同    3月12日、三齋八代発、28日京都着・眼病のため保養、5月15日江戸着
   同    6月21日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武家諸法度仰出さる
                   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
   同    7月6日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾藤金左衛門、於江戸召出(天草嶋原乱・戦死)   
   同    7月23日、御六 細川肥後守源光利、四位侍従叙任 (後、光貞→光尚) 
   同    9月13日、三齋江戸発、10月4日八代着
    同   12月23日、小笠原玄也夫妻子供召使など11名、切支丹棄教せず誅伐さる。 
         書状を読む(八)小笠原長定のことなど

寛永13年(1636)1月8日、江戸城総郭の造営始まる。肥後藩受持丁場は、銭瓶橋及び御成橋見付枡形164間 惣奉行・長岡佐渡守
         銭亀橋と御成橋見付枡形


   同    1月16日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤家旧臣下津棒庵息下津将監を召出、熊本へ下す
   同    4月    光利、前髪を落とす
   同    4月8日、松井佐渡守、幕府より山城国のうち173石余を従来通り宛行る。
   同    5月13日、忠利江戸発駕、6月9日熊本着・・・・・花畑館に移徒す
   同   10月2日、光利室(禰々)男子誕生 10月14日、禰々死去(十七歳) 12月12日男子死去
   同    11月3日・・・・・・・・加藤清正の殉死者金官の息子、飢につき本妙寺路地にて目安を上ぐ。二人扶持支給

寛永14年(1637)7月、下立田に泰勝寺を建立す
   同     8月10日、忠利息・松之助(尚房)誕生
   同     8月13日、藤崎宮造営なる  
   同    10月末より嶋原・天草に切支丹の徒蜂起
   同    11月14日、三宅藤兵衛戦死す
   同    11月15日、光利為下國江戸発駕、12月6日熊本入城 
   同    12月3日、細川立允、三齋陣代として出陣す
   同    12月7日、光利宇土に出陣、 10日天草攻め、 14日川尻帰陣16,000人 
            細川家史料--頭注でみる天草一揆 (1)
            細川家史料--頭注でみる天草一揆 (2)
            細川家史料--頭注でみる天草一揆 (3)

寛永15年(1638)正月朔日、原城総攻撃開始、上使・板倉内膳(重政)戦死 御家より附置きたる横山助之進・伊藤十之允も討死す
光尚以下は川尻にて越年。二日晩渡海を予定するも「風悪敷御出船難成」三日も「波あらく」取りやめ
   同    正月4日、川尻から立允らとともに嶋原(須川)に渡海す。兵数8,000 5日に有馬に着陣す

   同    正月12日、忠利登城、出陣の命を受け即日発す。26日有馬着陣
   同    2月27日、原城落城す、細川家家士陳佐左衛門、益田(天草)四郎を討取る
   同    3月1日、光利(光尚)熊本に帰着。 3月15日初駕、4月9日江戸着
   同    3月3日、忠利熊本帰着。 
   同    5月    松井康之追悼のため、立田口に春光寺を建立、正保三年八代に移す
        http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=16361
   同    7月13日、有馬討死者の為追善冥福の為忠利安國寺参詣 ・・・・・・(現在も毎年行われている)
   同    9月7日、家光公於御城(西御丸)三齊君江御茶被進候
   同    9月14日、三齋江戸発駕、11月4日熊本着、5月八代御着
   同    11月6日の泰巌寺宛御書
          ・去々年当地出候時より二度肥後江ハ下間敷と存極上り候・・・
          ・(天草島原の乱において)立允命をひろい候間、其悦計ニ下候事


寛永16年(1639)正月5日、忠利君八代ニ御出被成候
   同    2月5日 三齊君御隠居之御家督を立孝主江御譲被成候   紆余曲折・・八代領と宇土支藩の創立まで
   同    2月6日八代御発駕・・7日於熊本城忠利君御饗応、洛外吉田ニ御逗留被成、3月下旬御発駕・・・4月4日御着府

   同    5月廿日、立允八代御発駕・・・・京都・・・8月2日御着府     


寛永17年(1640)正月4日、(江戸証人)興孝主江戸御立被成候・・・室津にて御薙髪・・・3月21日熊本御着(安國寺)
   同    春 宮本武蔵肥後に来り千葉城に居住す  11月5日、300石を遣わす
   同    7月4日、三齋吉田御立被成、・・・同16日熊本迄御着被成
   同    7月17日、細川刑部少、病気療養のため隈府御茶屋へ転地す
   同    9月16日、立允に3万石、刑部に2,5万石を宛行う (立允)・・元服・中務太輔立孝と改名 9月廿日初御目見

  この年9月 女子誕生くま(後すま) 8月生母・ミつ共々深尾長兵衛に被下 
 (又、糸という御女中に御名御百という女子誕生ともいう 生年月日不詳) 系図に登場しない姫様達 
  
人物の特定ができないが、寛永十七年九月廿七日付の忠利書状(細川家史料-1060-)に次のようにある。
    「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」
     又、十月四日書状(同-1069-)では
    「此しい(椎)、當国之内ニ而ハ、少大キニ御座候間、おしほ所へ送申候、存之外いた
     いけニ御座候間、何よりも之御慰と奉存候」
     椎を送るといえば三四歳位か・・・お三ではないかとも思われるが、如何 ? 

   同   10月23日奉書 (足利)道鑑様・宮本武蔵 山鹿へ可被召寄候 然者人馬・味噌・塩・すミ・薪ニ至まて
       念を入
御賄可被申付之旨 御意ニ候 以上

寛永18年(1641)この春、光利 光貞と改名
   同    正月二日 道鑑老・西山左京(道鑑子)・同勘十郎(左京子)・同山三郎(勘十郎弟)、新免武蔵(剣術者也)、
        源次郎(不詳)、
春田又左衛門(具足師)なとハ奥書院ニて御祝被成候
   同    2月27日、忠利末子・勝千代(南條元信養子・元知)誕生
   同    3月17日 細川忠利君逝去 妙解院台雲宗伍 56歳 殉死者・19名
   同    5月5日光貞遺領相続 19日江戸発・6月14日熊本着・7月朔日八代にて三齊対顔、9月29日熊本発・10月26日江戸着
            細川家譜--細川光尚譜 ・・ (全)
   同    7月19日、三齋八代発駕・8月14日洛外吉田着、10月17日発・同晦日江戸着 11月19日登城(光貞遺領相続御礼)

   同    12月20日、諸大名之系譜御改之事ニ付齊藤佐渡守(春日局・兄)へ返書


寛永19年(1642)2月 登城
   同     4月26日江戸御発駕、6月17日八代御着
   同     8月休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京  与一郎忠隆君かこと
この秋、光貞 光尚と改名

        
寛永20年(1643)正月8日、光尚二男・六丸(綱利)於江戸御誕生
   同     正月廿日頃、光尚君八代ニ御出 (此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候)
           長岡監物 21年、沢村大学 17年
   同     2月13日、妙解寺建立成就

   同     6月、立孝君江戸御立、7月11日八代江御着
   同     7月6日、江戸下屋敷、屋敷替を命ぜらる


正保元年(1644)2月21日、江戸三田村に下屋敷(白金邸)を設く  4月11日田町蔵屋敷を設く
   同    2月29日、細川中務(立孝)八代発駕
   同    5月3日、光尚江戸発駕、5月30日熊本着
   同    5月10日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大奥荒木局の子、左馬助村常を預けらる。
                                                       荒木家三系図を比較する

   同    8月15日・・・・・・・・・・・・・・・・・旧加藤家臣・加藤右馬允(風庵)広島浅野家お預けとなる
  この年豊前より六所宮を勧進、しばらく沢村大学古屋敷におく

正保2年(1645)2月15日、光尚発駕、3月16日江戸着(総勢2,720名)
   同    5月19日、宮本武蔵没す 62歳 (在熊五年余)
   同   閏5月11日、細川中務立孝、於江戸卒去、31歳 泰雲院立允宗攻功
   同    7月8日、長岡休無齋に100人扶持を支給 

   同   11月三齊君御煩重らせられ、刑部殿を被召候・・・(興孝主御家記)
   同   12月2日、三齋君、於八代城御逝去被成候、御年83、御法名松向寺殿三齊宗立大居士  殉死者五名
             
三齋の死、その後

正保3年(1646)正月1日、三齋御遺骨八代発、同24日京都大徳寺内・高桐院に葬る
   同    4月17日、幕府三齋養女(お三)身柄、その他について問い糺す  Q & A 宇土支藩立藩直前
   同    5月9日、松井佐渡守興長を八代城代とし、立孝の息宮松を宇土に移し三万石分知させたき旨幕府に届け出る

   同    5月29日、松井興長を八代城代に任命す。(三万石・世襲)  8月13日興長八代入り
   同    6月11日、細川宮松(10歳)に宇土・益城三郡の内、三万石内分す
   同    6月12日、光尚江戸発駕、7月11日熊本着
   同    6月26日、長岡興長母自徳院(沼田光長女)為証人在江戸死去  
   同    8月1日、細川休無(三齋長男・忠隆)於京都死去、泰仰院瑞巌宍祥 67歳 大徳寺高桐院に葬る
   同    8月4日、細川宮松、帯刀(行孝)と改名、この日登城して将軍に初見す

   同    9月3日、水前寺御茶屋を寺造りとし、妙解院を予定す。資力がなく一時返上勧進のうえと予定変更す
   同    9月8日、細川刑部へ御知行25,000石被遣 この年熊本に御引出、古京町に居住す
   同   12月15日、光尚三男七之助(細川利重)於江戸誕生
   同   12月29日、江戸証人・自徳院死去ニ伴い、代・式部寄之二男左膳(政之)登城 


正保4年(1647)3月13日光尚発駕 4月4日江戸着 4月7日参勤登城
   同    6月26日長崎に南蛮船来航
   同    6月28日、長岡勘解由即刻川尻出船、肥前茂木より陸路7月朔日長崎着
                追々出陣 12,301人 8月5日南蛮船帰帆す
              読下し「正保四年五月漢朝ホルトカル國ヨリ舩来朝」-- 1
              読下し「正保四年五月漢朝ホルトカル國ヨリ舩来朝」-- 2(了)  

   同    7月7日、細川休齋(幽齋五男・与十郎孝之)京都吉田にて卒去、泰林院一空宗也 63歳 

慶安元年(1648)2月14日、光尚江戸発駕 3月6日熊本着
   同    9月2日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤風庵(右馬允正方)、広島にて没す
   同   12月26日、初めて城代職を設け、田中左兵衛任命さる 

慶安2年(1649)3月9日、光尚発駕 3月25日江戸着
   同   11月24日、忠利室(光尚母)江戸白銀邸にて死去 保壽院殿三英紹春大姉 53歳 12月22日妙解寺に葬る
   同   12月5日、細川光尚江戸上屋敷にて死去 真源院殿回岩宗夢大居士 31歳 殉死者11名

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶安3年(1650)4月18日 幕府遺領相続を命ず 

 

              間違いがありそうです。鋭意修正、加筆中

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暑いさなか足湯です

2012-08-20 21:57:10 | 徒然

 此の暑いさなか足湯をしています。両足のむくみがひどくなり、どうやら冷房が原因ではないかということになり、奥方が使っている機械を引っ張り出しました。寝るときは靴下をはけ、タオルケットを足の下に入れて足を持ち上げろと奥方がのたまいます。本当に冷房が原因かどうかも判りませんが、くるぶしも土踏まずもないような見たばかりでギョッとする状態に成り、いささか歩行にも影響が出てくると、なんでもやってみようという訳です。おかげでズキンズキンとしていた足元が、そんな状況を脱しつつあります。考えてみれば寝ている間以外はクーラーがフル稼働していますから・・・・
隋兵寒合まで一月弱、今年はことのほか暑かった様に思いますが、まさかこんな有様になるとは思いもしませんでした。
皆様もお体おいといください。 

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中村少(勝)兵衛宛 忠利書状

2012-08-20 09:29:22 | 史料

 昨日の史談会において、肥後金春流中村家から提供された、武家役者・中村少兵衛に宛てた細川忠利の書状である。
中村家御当代・中村勝様に感謝申し上げる。
忠利直筆の折り紙であるが、ここでは読みやすいように下部は天地を逆にしてコピーしてある。
ご紹介する読み下しは本文を黒文字、追而書を赤文字で表記してみたが、縮小されているのでやや読みづらいところはご了承願いたい。
また追而書の最後尾部分に於いては「すたり可申事無念 たくいなく候/\ かしく」とあるのだそうである。

年代については寛永九年の物と思われる。「九月すへにハ出舟」とあるが、十月三日に江戸に着き、翌四日肥後転封を命ぜられている。
その年の末十二月九日、忠利は肥後54万石の太守として入国するのである。 

そしてこれは中村少兵衛を細川家に迎えたいとの、忠利の強い想いがあふれた「招聘状」と考えるべきものであろう。
忠利の真摯な心情が垣間見える書状で大変興味深い。
中村少兵衛の詳しいことについては「金春流肥後中村家」のHP http://www1.odn.ne.jp/higo-nakamura/ をご覧いただきたい。
 

                                  猶々我々ためにハ
                                  國ひろく候故すへ
                                  /\迄教キも
                                御見廻候て使者
                              とゝキ    
                                を給殊ニ
                              申ましく候  本草
                                之かな書別而
                              間他之聞はち入                       
                                ひそう申候次ニ        
                              計ニ候我らはちハ
                                うに其國之           
                              うへ/\も通候
                                そうめんわけ
                              と存故一入むかしに
                                かやうの見事なるハ
                              かハりきつかい申候ほしき   
                                まれにも見不申候
                              者ハ人多キハ人なキハ人
                                シらかいとにて候       
                              ニて候
                                此中ハ阿まり
                              物ノうえハ一ノたからに
                                あつく候故
                              いにしへより仕候ハ人と申候
                                秋もすへニ成
                              此上ノたからハ無之候
                                候て東京たるへ
                              よキ人所ニかくれ
                                キよし尤ニ
                              候てすたり可申事
                                存候我ら上候事
                              無念■■■                   
                                九月すへにハ

                          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                出舟可申と存
                             候へとも江戸次第
                             之事にて候間
                             我なから不存候
                             其元国を御
                             まはり候衆事
                             あつまり之下々
                             にて候間此度も
                             かミシらすニ
                                   ミたれ
                             可申候面ならてハ
                             恐々謹言
                                    細越中
                              七月十五日  花押
                                
                               中村少兵衛殿
                                      御返報
 

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惜櫟荘だより

2012-08-19 09:14:12 | 史料

 

            惜櫟荘だより
 
        岩波書店

今日は史談会の八月例会、帰りがけに書店に立ち寄り買い求めたいと思います。

熱海に仕事場を構える著者は、縁あって惜櫟荘を譲り受け、後世に残すため完全修復を志す。一九四一年、岩波茂雄が静養のために建てたこの別荘は、江戸の粋を知る建築家・吉田五十八の感性と、信州人・岩波の海への憧憬から生まれた「名建築」だった。設計図もない中、パズルを解くような解体・修復工事が始まり、やがて、「五十八マジック」ともいうべき独創的な仕掛けが、次つぎ明らかに―。「名建築」はいかにして蘇ったのか?秘められた趣向とは?若き日のスペインでの思い出や、惜檪荘が結ぶ縁で出会った人々など、興味深いエピソードも交え、修復完成までをつぶさに綴る。好評の『図書』連載に加筆、写真も加えた、著者初のエッセイ集。


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Q & A 宇土支藩立藩直前

2012-08-19 08:16:23 | 史料

 細川三齋が亡くなった翌年の四月十七日、幕府の酒井讃岐守は光尚に対して以下のような質問状を発している。

       尚々、此状御披見候は、御さきすて可被下候様子委御返事可承候
       明日阿対州御上使ニて御暇被遣儀可有御座候、対州よりいまた何
       共御案内これなく候哉、承度候事
     一、三齋御養子之御息女ハいくつ計ニて候哉、たれの息女ニて候哉、
       三齋御ため何ほとちかく御座候哉、承度候事
     一、三齋より貴様へ御ゆい物何を被遣候や、承度候事
     一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人にて候哉、此子息ハ
       京都にいられ候事、三齋又貴様なとも前かと御存ニて候哉、此度中
       書御はて以後御存や、承度候事、恐惶謹言
            卯月十七日            酒井讃岐守
                  細川肥後守様
                         人々御中 


これについての返書

                     覚
     一、三齋養むすめ年之儀被仰下候、拙者もしかとハ不存候へ共、大かた
       十歳計かと存候、三齋ためには何ニても無御座候、三齋召仕候女の
       親類にて御座候由承候事
     一、三齋方より拙者所へ此度遺物とてハ何ニても不参候、十ケ年ほと以
       前ニ北国物信長の作刀一腰くれ申候、其節遺物同前之由申つる事
     一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候
       はゝせかれの儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ
       儀承候、いまゝてハ京都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前ハそん
       しさるようニ承候、中務相果候以後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中
       務相果候已後当御地へ罷下候、以上
             卯月十七日           細川肥後守
                   酒井讃岐守様

       追而申上候、三齋遺物としてひかし山殿所持之たるまのかけ物并
       利休所持仕候しばくりのつほ四五ヶ年已前ニ差上申候、定而ご存
       知可被成候得共、先申上候、以上 

 宇土支藩が立藩されるのは、「正保三年丙戌七月廿九日、本家肥後守光尚前以奉願、肥後国宇土ニテ三万石内分」したことによる。
酒井讃岐守による質問は、初代藩主になる宮松(行孝)と、関連する事柄についてであろう。

    ・三齋養むすめ   佐舞、三(忠興号三齋ノ一字ヲ遣サレシモノ) 実ハ加来佐左衛門女、初名せい
                 元禄十一年戌寅二月廿三日卒、享年六十四(六十一)法号源立院照乗宗珠 宇土細川廟所ニ葬ル 

    ・中務殿生母    布施野左京女(祝宮内女)志保子 元禄四年辛未六月十(十四)日卒 享年八十三
                 法号慈廣院雲岩性浄 江戸天眞寺ニ葬ル 

       ・京都育ち      萩原兼従(吉田兼治・伊也-忠興妹の息)に預けられ、一時期養子とされる。立允(立孝)は従兄を頼ったということになるが、
                 本当に忠興が知らなかったのか疑問が残る。 

 

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鳶魚で江戸を読む―江戸学と近世史研究

2012-08-18 22:33:09 | 地図散歩

 

      鳶魚で江戸を読む―江戸学と近世史研究
 
                   中央公論新社


図書館から借りて一度読んだのですが、手元におきたくて・・・・
鳶魚と山本先生の組み合わせが面白いのですよ。

 

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御家老中江被下御書

2012-08-18 13:53:30 | 史料

寛永十八年三月に至り、忠利の煩いが「以之外ニ御座候よし」情報が江戸藩邸にもたらされ、光尚は熊本に向かい廿三日申之下刻江戸を発駕している。
そして廿四日神原の地より家老宛に書状(自筆)を発している。

   態飛脚を遣申候
一、越中様御気色三月十三日之夜より差発、十四日十五日之注進状切々相届、扨々苦々敷儀ニ候
   一両日中ニ可有御吉左右と存待申候事
一、越中様御気色之様子達 上聞ニ、我等事昨日廿三日之晩ニ御暇被下、忝 御意共ニて候キ、則
   申ノ下刻ニ江戸を立、今廿四日酉ノ刻ニ駿州至神原令着候、無程可罷下と存候事
一、為 上使曾我又左衛門殿を被差遣候、是も我等と同日ニ江戸を被立候事
一、三齋様其元ニ被成御座儀ニ候間、御養生之儀其外万事式部少ニても誰ニても為使得 其意可然
   候事
一、式部少所より別紙之書状差越候、是ハ返事可申候、猶追々御吉左右待存候、恐々謹言
      三月廿四日                              肥後 御判
           長岡佐渡守殿
           有吉頼母殿
           長岡監物殿
           長岡式部少殿
           米田与七郎殿
           沢村宇右衛門殿 


廿五日浜松に到着した光尚に対し、十七日忠利君御逝去の報がもたらされた。光尚は下國を取りやめて江戸に引き返す。
その折の書状

   越中様御煩終ニ不被成御本復、三月十七日之申刻ニ被成御遠行之由、同月十八日之書状歩之
   使番深海太郎兵衛差越、遠州於浜松令披見、無是非候儀共絶言語候、我等儀三月廿三日之七
   ツ時分ニ被下御暇、即江戸を罷立、同廿五日之八ツ時分遠州浜松迄下り、右之註進承候ニ付而
   江戸へ御年寄衆へ右之通申入、我ら事江戸へ罷歸候、内々我等存候も自然之儀も候ハゝ、承次
   第江戸へ可罷歸覺悟ニ相究有之処ニ、其方共より申越候趣同意ニ候段感入候、万事其元之儀は
   越中様常々被仰付置候御仕置之通可被申付候、御遠行之註進六嶋少吉・津田六郎左衛門を差
   越申越候由、至今日不参候、恐々謹言
       三月廿五日                            肥後 御判
            長岡佐渡守殿
            有吉頼母佐殿
            長岡監物殿 

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