津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

シに可申様ニハ無之候

2012-08-17 10:10:40 | 史料

                           右のてくひより
                      手なへ申計ニて候
                      シに可申様ニハ
                      無之候可心安
                              候

                      以上

 寛永十八年三月十日付、忠利の光尚に宛てた最後の書状(1411・端書)である。 
この後三月十七日忠利は没することになる。

寛永十八年に入ってからの光尚宛の書状は九通に及んでいる。正月五日(1403)、十二日(1404)、廿六日(1405)、二月六日(1406)の書状には体調に付いての記述は見えない。

同じく二月六日書状(1407)には次のように在る。(抜粋)
             我等事之外息災ニ候、正月廿四日慶安見舞ニ被参候、幸と存、疝氣之養生申候、其薬ニひ
             ともしニてむし候療治ニ候、はれハやわらき候へとも、事之外上氣心ニ候間、二日養生
             中、先達やめ申候、上氣故、あろき候ヘハふら/\と仕候間、鷹野へも不参養生申候、腫
             物はとけ一段よさそうニ候、いまた上氣やミ不申候、物も一段能くい申候、心も能候へと
             も、あろき候へはふら/\と仕、折々足之筋右之かいな筋引つり申候條、上り候迄か様ニ
             若候ハゝ、筋つり候時ハ足かゝめかね候條、路をゆる/\と可参候、其様子道より又御老中
             へも可申入候、上り候内ニ山鹿之湯へ入可申候間、すきと能成可申とハ存候、越中も又疝
             氣少發、足之筋つり候由申越候なとゝ、心安衆ヘハ物語候て可被置候、必見舞ニ飛脚なと
             被越候程之事ニて無之候、可被得其意候事

二月十五日書状(1408) (抜粋)
             爰元彌替儀なく候、我等氣色、先度佐野藤兵衛遣候刻口上ニ申候、今以其分ニ候、少も氣
             遣有事ニ而無之候、若中風ニ可成かと存候ヘハ、疝氣故筋つり候、あるき候ヘハ悪候故、
             為養生此比は鷹野ニも不出候、食事も如常進、氣相悪敷事も無之候、頓而山鹿之湯へ参候
             事

二月廿七日書状(1409) (抜粋)
             我等氣色彌疝氣ニ而候故、急ニ能可在之とハ覺不申候、彌物も能給、少つゝ能候間、彌三
             月廿日ニ出可申候、更共廿日ニ出候て、道ニ而煩發候ハゝ、其時御老中迄状を可進之候、
             煩發候ヘハ、足之筋をつりつめ、小便つかへ候故、其時ハ中/\乗物をかゝれ候事も、ま
             して馬もなるようニハ無之候、身をあらく仕候程小便つかへ候故、右發候時も迷惑申候つ
             る事、今ハ左様ニハ無之候、内々被得其意、柳生殿・讃岐殿なとへハ物語候て、道中いつ
             ものことくげ候事ハ成間敷と存無心元由、可被申候事

三月九日書状(1410) (抜粋)
             昨日今日キとくなる薬にて、しょうへん心安通、か様ニ候ハゝ道ものり物にて成
             可申候ハゝ、満足申候、物ハ今ニよくくひ申候、あまりニきとくなる薬にて、まこと
             しく無之候、其方心安ために申候間、さたニ不及候、以上

そして最後の書状である。三月十日書状(1411)全文

             我等煩之儀ニ付而、御老中へ松下掃部・熊谷孫兵衛下候間、申候
           一、昨日も以飛脚申候つる、疝氣、昨朝事之外能候ニ付而、其段昨日之書状ニ、自筆ニ而は
             しかきニ申候、昨晝こしゆニ入候ヘハ、それ故候哉、上氣候而、右之手足なへ、舌内難叶
             候、然は、去ル七日より大便ニ血下り候、七日ニ四度之内夜ル三度、八日ニ九度之内夜三
             度、九日ニ九度之内夜七度、今日十日四ツ過迄ニ一度、下り候、今迄三十六度血下り申
             候、血下り様之儀、多ク下り候時ハ、つねのさかつきニ一度ニ三盃ほと、又ハ二はい一は
             いほと下り候、少つゝハうすく成候事
           一、御年寄衆へも状を進候間、伊順齋・曾丹州へ談合候而、御老中へ右之趣可被申候、かすか
             殿へも文を進候間、是へもくハしく可被申候、御年寄衆へ之状之寫進候事
           一、何とそ仕、廿日ニ立申度覺悟ニ候、田舎ニてハ養生不成候間、成ほとニ候ハゝ、上り可申
             と存候事
           一、細川家之系圖之儀、おそからぬ儀ニ候間、よく/\相改、従是可申入候事
           一、食事ニ替事なく、氣相ニ別ニさゝハる儀も無之候、猶両人口上ニ可申入候、恐々謹言

                                                      越中
                   三月十日                                忠利(ローマ字印)

                        肥後殿
                           進之候 

                                (そして最初に挙げた忠利自筆の端書がある)

 

   忠利という人は身体頑強というタイプではない。江戸にあっても度々温泉で湯治療養をしているし、参勤の途中でも有馬などに寄っている。
  その身体を更に痛めたのは、天草・島原の乱である。病身を押しての出陣からわずか三年余の命の終焉であった。 

             

 

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散歩も盆休み

2012-08-16 16:57:31 | 徒然

 お盆休みというわけではない、ここ二三日4キロ散歩を休んでいる。散歩のせいではなく、室内でちょっと左足をこね膝の古傷の痛みが出た為である。
ところが両足をそろえてみると、左足のふくらはぎ下に腫れがあることに気づいた。押さえても特段痛みもない。
妻に見せると、「むくんでいる」といかにも気持ち悪げに言う。どうやら右足の甲も腫れている。・・・むくみである・・・

私が4キロ散歩をしていることを知っている知人が、「やってますか?」と聞かれるので、かくかくしかじかを申し上げると、急に始めたり水分の補給が足りなかったりすると「足にむくみが出ますョ」とのご託宣である。
散歩中はペットボトル一本を持ち、飲み切る位に水分補給をしていたのだが、スポーツ飲料でなくちゃだめだったかな~など首をかしげている。

足がむくむなど今まで経験したことがなく、いささかおっかなビックリでいるが、「しに可申様ニハ無之候」と云ったところである。
膝も特段歩くには支障ないようだから、明日位からまた早朝散歩と参ろうかなと思っている。

 

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近世大工の美学

2012-08-16 12:25:12 | 書籍・読書
近世大工の美学―環境倫理としての日本古典建築学 (中公文庫)
 
               中央公論社

信長、秀吉、家康ら天下人の下で、安土城、聚楽第、江戸城など近世文化を彩る絢爛豪華な建築物を造形した「大工」。文化の担い手として華々しく活躍した平内正信、中井正清ら名人の業績を豊富な図版とともに辿りながら近世を捉え、「大工」を歴史的に位置づけた建築文化論。

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齊護公御家督一件之事 (二)

2012-08-15 08:39:03 | 歴史

                                  濱町様思召を被奉伺候迄刻移て十七日之晩景ニ
                                  及候間此隙を時として唯之允早■■奉伺候御意を
                                  奉して此日之夕方ニ打立江戸を指して馳上り申候是
                                  取延してハ以之外大事也一刻も追■可懸止と被申
                                  候得共大事之御使ニ付我罷上ランと申人一人も無之處
                                  杉浦仁一郎進出事遅々ニ及候而ハ唯之允目に國を被誤
                                  可申間人々之内向ひ玉ふ御方無之候ハゝ某御墨附を給り
                                  て是より馳向可申と望出候此仁一郎と申は竹田菊池之騒
                                  動を始とし八代宇土の御用ニ至迄度々之大事を相勤
                                  人々被許ハ器量の侍ニ而有し候間一刻も打立可然と

                                  宇右衛門殿一番ニ被申出衆儀是ニ一決して則此御使を被
                                  申付候于時年四十六 時は十八日辰ノ中刻唯之允ニ後るゝ事
                                  一晝夜御墨附を給りて早速早駕ニ打乗り揉々内
                                  裏ニ至り第一ニ飛舩を雇ひ乗込と直様数百両之小判
                                  を取出て舩板ニ張付ケ刀を把て舩頭ニ膝詰懸此小判
                                  悉ク為取候間皆々力を可出と懸命乃使ニ罷上れは
                                  若乗形を失ふて約束之日数を過ハ己等一々ニ薙切
                                  て死んと誓言を立て申渡候ニ付舩頭共大ニ怖し死
                                  力を出して漕立候間未タ約束の日数ニ不至して大阪へ
                                  着岸致し則中川尋候得は先刻澱舟に乗込

                                  然と申し候是天之與なり早中川目ニ追付たりと平瀉通りを
                                  馳上る平瀉通と申ハ澱之塘地ニ而則伏見へ出る捷路也
                                  唯之允も舩頭を励して急候得共仁一郎此捷路を取て馳
                                  走候に付終に此處ニ而追越し東海道を馳通り箱根の
                                  関所ニ馳付候然處追々之早打ニ不審を立居候関所の
                                  士如何なる大事之出来候歟子細を承りて通し申さんと駕
                                  を制して不為通御用ハ急ニ中川ハ近付進退究せる難
                                  所なり時ニ仁一郎一ノ策を思案し是ハ窟竟の中川を括
                                  り場なりと頷き御尤の御儀ニ存候然し某ハ下役の者ニ而
                                  一切様子を不存候間御返答出来兼申候追付跡より

                                  参候中川唯之允と申者留守居役を相勤専ら此節
                                  之儀を取斗候間委敷此者へ御尋可被下と申候得は事
                                  故なく通し申候然處唯之允引続て馳着候ニ付待設之
                                  事ニ而是非とも承り申さんと申懸左右より取懸候間ニ仁一
                                  郎ハ思ひの侭ニ馳脱て御國を出て僅八昼八夜同月廿六
                                  日の早天ニ龍之口御屋敷へ到着致し御小屋を打廻り詰
                                  舎之人々江其旨を致披露候處唯之允馳付候ニ付
                                  濱町様其許へ仰聞候御旨趣(ママ)被思召直公邊より
                                  御養子之儀御断被仰上御血脉筋被遊御立候と御
                                  墨付之趣厳重ニ申渡候間唯之允大ニ力を落し即

                                  日直ニ引入候斯所ニ舩路自然之用心として中國路を馳上
                                  り候西浦九兵衛 時ニ御目附 當君公御養子と可奉成との濱町様
                                  御墨附を奉して龍ノ口へ致参着候ニ付仁一郎則織部殿
                                  内蔵次と談合して先ツ公邊より之御養子之儀一橋様へ
                                  御断申上 當君公を上永田町御屋敷より奉迎而御
                                  養子と奉成候間二月十二日 少将様被遊御逝去御跡式
                                  無相違被仰出候 御先祖様御以来之御血脉被遊御
                                  継続々(ママ)ニ付上下一統初而安堵之思ひをなし申候去ハ
                                  此度之大事を被致儀定候重役之老人達皆身命を
                                  投て共ニ國家を被守然ニ忠義之優劣ハ無之候得共

                                  其功勲ハ仁一郎第一ニ而有之候
                                         天保九年       萩角兵衛  閑餘漫録より 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                             一 杉浦ハ右之御用ヲ達引取候時中川着イタシ御玄関ニテ中川ニ逢候
                               間杉浦 中川サンオハヨウ ト申候間中川コシガヌケタトノ事此処ニ
                               書加置
                             一 津田三十郎ハ其時分御用人ヲ相勤居候■中川濱町様江直ニ
                               言上候筋ヲ伺居候間自宅へ帰り行水イタシ其内ニ白木綿ヲ
                               縫ハセソレヲ着シ御手打のカクゴニテ濱町様御目通ニ罷出候而御
                               諫爭申上候テ其後引籠リ候テ其後ハ人ニ面会断リ外出等
                               一切不致候由段      此二ケ条ハ承傳居候ママ 


                                   

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火元は池田光政殿

2012-08-14 22:58:55 | 歴史

Lime 
寛永九年十二月九日忠利は熊本入りした。その直後十二月廿九日江戸上屋敷が焼失している。
江戸に在る六(光尚)に対しては、正月十日付で見舞いの書状(1089)を送っている。十七日の忠利の書状(1090)でその火元が確認できる。

  極月廿九日(火事当日)、正月二日の書状に対する返書である。

一、新太郎殿より火事出来候而、我々上屋敷も不残焼候由、則作事之奉行・手傳之人差下候
   其方をはしめ、何も無事に下屋敷へ参候由、尤候事

この「新太郎」が池田光政である。この絵図は嘉永二年のものだが、細川家も池田家も屋敷の位置は変わっていない。
松平内蔵頭とあるのが池田家であり、まさに隣家ともいうべき火元からの類焼である。お城のお膝もとの大名小路での火事であり、大変であったろうと推察されるが、その詳細を知りえないでいる。ご承知の方はお教えいただければ幸いである。 

         

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齊護公御家督一件之事 (一)

2012-08-14 09:16:47 | 歴史

                                           全六葉の内、第一葉の前頁

幽齋公以来細川家の危機は幾たびとなく訪れている。果敢な英断や細心の配慮をもって主従一丸となり是を乗り越え明治維新に至っている。
細川齊護公御家督に関わる一件もまさに其の一つであるが、正史に詳らかにされていないのでその詳細をご存知の方は意外と少ない。

細川齊樹公について家記は、文政九年丙戌二月十二日に死去した旨を記す。
継嗣がなかった齊樹公の危篤の状況にあたり、幕閣周辺から齊樹の正室・蓮性院の実家一橋家からの養子を入れてはどうかとの申し入れを受ける。そのため国許へ使者を送り善後策を協議している。申し入れに抗ずるように、細川家の先祖以来の血脈を絶やさないようにと、懸命な努力がなされる。その顛末である。

                                      齊護公御家督一件之事  諦観院齊樹公 

                                  文政八年十二月中旬より少将様龍ノ口御屋敷ニ而御疱
                                  瘡被為煩次第ニ御容體重リ同九年正月二日ニ至御危篤之
                                  御容躰ニ被為及候ニ付上下一統大切之御儀と奉気遣候
                                  處一橋様より兼々御出入之御醫師橋本一甫老を以長
                                  々為御親公邊より御連枝之内御養子ニ被進度被思召上
                                  候段御留守居中川唯之允江被仰聞候唯之允詰合之御
                                  家老有吉織部殿併御奉行永田内蔵次江其段相達
                                  此儀一刻も御國元へ罷下可相達迚長尾権五郎と同道
                                  致し正月六日ニ江戸発足夜を日ニ継て道を急同月十五日ニ

                                  熊府ニ到着致し先御用人有吉清九郎殿方へ罷越其段
                                  相届候ニ付御家老衆御奉行松井直記殿宅へ惣打寄
                                  ニ而唯之允へ其旨趣を被問候處公邊より御養子被進
                                  候其儀一橋様より被仰聞候段申出公邊より御入ニ相成候へは
                                  天草并對之御道具金紋御先箱等御土産ニ相成御
                                  手傳等も御遁ニ相成候段及演舌尚引取書をも差
                                  出候ニ付僉儀之上追手是より及指図可申候間先旅宿へ
                                  引取候様と申聞候而御先祖様御已来御血脉筋御
                                  続之儀ニ付公邊より如何ニ被仰聞候共決而御受申上間敷
                                  段■■議定ニ被及候然處唯之允旅宿ヘハ引取不申候直ニ

                                  二ノ丸御屋形ニ罷出候而召出を願ひ如何申上候哉
                                  濱町様より御袷羽織を拝領仕引取然由勿論國家之
                                  大機密聊脱之然儀ハ無之候得共難有儀ハ御代々様御
                                  積善之御餘慶神明擁護之力ニ而誰申となく此儀早
                                  御家中へ相聞候間人氣忽動揺致し悪き唯之允目安々(ママ)
                                  と江戸江ハ返し申さしと可打果及覺悟候御家老衆御
                                  奉行衆ニは二ノ丸御屋形爾々の御様子と被聞付十六日
                                  に又又被致惣打寄此儀連々に及候而は甚以大事也
                                  一刻も濱町様思召を可奉伺と山城殿を始宇右衛門殿
                                            沢村于時御勝手大御家老 九郎太郎殿郡于時大御目附 服部多門御奉行帳口

                                  杉浦仁一郎御奉行副役 等忠心義謄之重役之諸衆専
                                  ■ニ致儀定御用人津田三十郎を以て御家中
                                  人氣動揺を■■御血脉決而御絶し有之間
                                  敷段身命を不顧被申上候得共一先奥へ被為入候而
                                  亦々御出座有之三十郎を被為召皆共之心得奇
                                  特之儀ニ被思召上公邊より御養子之儀御差はまり
                                  被成御断候間心丈夫ニ此儀取斗候様可申聞段被仰
                                  聞尚御墨付を被成下此旨又家中之者共へも為
                                  安心頭々より内々申聞置候様御意有之候ニ付山城殿
                                  初皆々安堵之思を被致候然處御家老衆再打寄り

                                                続く(二) 

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高麗門記

2012-08-12 12:49:39 | 史料

 熊本市中央区新町にあった高麗門の、遺跡発掘調査がこの炎天下の元行われている。
近々経過説明会も行われるようだが、新たな発見も有ったようだ。この門は「櫓門」であるにもかかわらず「高麗門」と呼ばれているのだが、これを解決するに至る資料がない。ところが最近宮村典太が書き残した記録集「藻塩草」に「高麗門記」があることに気づいた。
また、その写しが「上妻文庫」に所載されていることもわかり、こちらをコピーすることが出来た。
これによるとどうやら、三韓征伐の折、清正が古城の材料を解体して持ち帰ったらしい。この古材をもって高麗門が作られたということらしい。
はっきりしないが櫓門が作られる前に、この古材によって高麗門が作られたということも考えられるのだが(私見)、この「高麗門記」ではこれを裏付ける記述は見受けられない。「高麗門」の名前はどういう経緯で付けられたのか謎は解けないままである。

                                昔豊臣氏之伐三韓也肥之先鋒加藤氏小西
                                氏為先鋒加藤氏有殊功及其還師也取其門
                                材而還以作城西郭門以為京観焉開在西南
                                隅無曲城無羊馬似不便守禦焉葢聞熊城之
                                制因蔚山城而規昼焉東北之門最固矣麗門
                                特無羊馬曲城何也夫祇山在城之西南而最
                                近焉若一旦有虞之事授兵登■則敵■此山       ■ 阝に旱   扌に處
                                而陳不可熊城一日守也守禦之没先拠此山
                                而救應之備則麗門猶方城之門也夫吾之兵
                                在祇山則西南之地勢無陣屯之地可使救應
                                奇詭之兵申此門而出也其所以異於他門者
                                為是故也夫加藤公之営此城也雖一曲一折
                                之微無不得其制者豈矧於門桜塁濠之類乎
                                独■兵法者以知公之識量也夫公之有功於       ■ 氵に罕
                                斯士也豈少小哉水利於是乎治焉賦貢於是
                                乎正焉民至于今奉承厥法保安其利如二百
                                年一日也豈特殅営之巧而己哉
                                                      黙齋文集



 ご覧の通り白文であり、何方か読み下しをいただければ大変有り難いのだが・・・・・ 
(文末にある黙齋文集とは、肥後文献解題によると中山昌礼の筆によるものらしい。写しが存在するように記されているが、それがこの「藻塩草」のことであろうか) 

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将軍家光上洛

2012-08-11 09:36:03 | 史料

 将軍家光は寛永十一年六月、上洛の為扈従の者三十万余を率いて江戸を発する。七月十一日家光は入洛するが、九日膳所に到着の知らせを三齋に伝える忠利自筆の書状(732)である。

                                     上様今日九日せゝ明日
                                     二条へ御つき被成候候
                                     よし只今板倉殿より被申越候以上
                                  存之外早ク
                                         九日       越中
                                  御上著めてたく候かしく
                                            佐方與左衛門尉殿

江戸に在った忠利は五月九日暇を得て江戸を発駕、途中有馬で湯治をして五月廿一日上鳥羽に着き、六月十二日京都に到着した。
一方三齋も五月廿九日八代を発し、六月廿日京都に到着、烏丸家裏を宿所とした。
七月十九日諸大名二条城に会し、三齋と忠利は翌廿日に家光に謁見している。
なかなか帰国の暇が出ない中、翌閏七月廿九日お許しが出、忠利は八月一日上鳥羽を発し十三日熊本着、三齋も下血が続く中、三日に発駕十四日に八代に帰っている。

家光は八月五日京を発駕、大イベントは終了した。後年将軍家茂が止むを得ず上洛するまで、最後の将軍家栄光の上洛である。            

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「女持不申候者」顛末・続き

2012-08-10 17:29:34 | 史料

先に「女持不申候者」顛末」を書いた。松野正照に関する資料があったので「続」とする。
寛永十年七月廿一日忠利から三齋宛の書状(661)の抜粋である。

 いつそや被仰越候爰元女を持不申ものゝ書付進上申候内、右京殿一人縁邊除置可申候由
 得其意存候、其後何共不被仰越候故、阿蘇之神主、前々より大友殿と一ツ之續にて、右京殿
 へと心さし申候つる、更共、右之書付故、極不申候間、彌如御意除置可申候、此等之趣可
 有御披露候 中略
     尚々、右京殿儀、事之外不辦ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年な
     と女房よはれ候儀ハ調兼可申と、推量仕候、更共、御意御座候條、如何様にも可
     被仕候、同ハ来年にも被成可被遣哉、思召外すり切と承候、以上

 

同八月十三日書状案(668)抜粋

 松野右京殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候故、阿蘇之神主ヘハ
 未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内證ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々
 被得其意候へと迄申聞候つる、如何可有御座候哉、重而之 御諚次第と奉存候、其外縁邊
 無之者共書付上申候分、被仰付間敷候條、如何様にも可申付由、左候ハゝ、追付縁邊可申
 付候、此等之趣可有披露候、恐々謹言


改めて記すると、松野右京(進)正照とは、 大友宗麟の子・大友左兵衛義統(吉統・コンスタンチノ)の三男である。
「女を持不申ものゝ書付」とは、寛永九年三月十日書状案(490)に付けられた「別紙覺書案」であり「女持不申候者」とあり、頭注では「家臣ノ妻帯セザル者」とある。前回も延べたとおり、この書付は村上河内女の縁邊へと三齋が取り寄せたものだが、松野右京進については上記のような経緯を知り除外させたものである。しかしながら、この組み合わせもなかなか難航していることが判る。
上級武士の内情が伺えて興味深い。 

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日本初・ダム解体撤去いよいよ始まる

2012-08-10 14:00:20 | 新聞

前の熊本県知事・塩谷義子氏が荒瀬ダムの撤去を言い出し、いよいよ日本初のダム解体撤去が実現しそうだ。
発電用のダムとして、日本三代急流として知られる球磨川に架設されているものだが、地元の強い要望があり知事がこれに賛意を示し決定が見られた。
上流部には五木村があり、川辺川にダムを作り湖底に沈む運命にあったが、これも民主党政権になってから廃止の方向が決まった。
清流に鮎が遡上する川として知られる二つの川が、荒瀬ダムの解体により昔の自然な姿を取り戻すことになる。
電力不足が深刻な昨今、又足踏みするのではないかと思っていたが、どうやら動き出した。
                       http://www.asahi.com/politics/intro/SEB201208090072.html

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肥後藩国事史料を読む

2012-08-10 09:58:23 | 史料

嘉永六年幕府は「大船製造」を目論み、その御勘定吟味役に細川家家臣某を「御用被仰付」している。
古い記憶があったのだが放って置いたのだが、最近古いメモが出てきた。どうやら情報の出所が「肥後藩国事史料」であることが判明、私は残念ながらこれは所蔵していない。図書館に出かけようかとも思うのだが、何せ暑くて外出する気にならない。

ひょっとしたらと思い「近代デジタルライブラリー」を検索すると・・・・あった。有難い便利な世の中では有る。 

http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E8%82%A5%E5%BE%8C%E8%97%A9%E5%9B%BD%E4%BA%8B%E5%8F%B2%E6%96%99

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寛永十年ころの休齋孝之

2012-08-09 08:17:05 | 史料

 一つ違いの叔父に対し忠利は色々苦労している。
寛永十年頃の休齋の行動を知る三齋に宛てた忠利の書状がある。


七月廿六日書状案(663)
長岡孝之    細川立孝                        加々山可政
休齋之儀、立允かた迄申候處、御直ニ聞召之由主馬申候間、申上候、三齋様御意次第ニ
ハ何事も可仕と被申様と聞へ申候、高野へ被参候共、可然事御座有間敷候、幸之儀ニ御
座候間、立允知行へはいり候て被居候様ニ、被仰間敷候哉、立允ニ肝を御いらせ候て成共
左様ニ候ハゝ、外聞も可然かと奉存候、餘之儀ニハ替り申候間、被加御言葉候様ニ、此等
之趣可被申上候、恐々謹言
       七月廿六日
                       魚住傳左衛門尉殿

   尚々、か様之むつかしき儀、何とも迷惑仕候、以上 
 

八月十三日書状案(668)・・抜粋
休齋之儀、立允鐵炮稽古之ため、八代へ御呼置被成度之由、一禮被申度由被申候間、可被
成御對面と被仰候、扨又何様にも、御意次第にて御座候事 

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細川家家臣--田中(八十郎)家のご先祖さまの謎

2012-08-08 08:46:36 | 歴史

                                    「常山紀談」第十二・抜粋
 

【田中善左衛門室。山名豊国の姪にて、宮部継潤の養女となり、田中吉政の一族で継潤の家老田中善左衛門(八千石)に嫁ぐ。善左衛門は関ヶ原役で小早川秀秋の手に属し討死。のち豊前にて忠利に召出され、忠利室保寿院に仕う。光尚誕生により直に附属され、日夜御側に仕う。光尚の江戸へ発駕する時も供し、登城拝謁の時も附添う】

上の記述は「日本近世史料-細川家史料」の人名索引にある、刑部卿(田中善左衛門室)なる人物の紹介文である。この刑部卿の孫が光尚代に召出された。
田中八十郎家である。「肥陽諸士鑑」はその祖を、田中勘左衛門入道長胤とし、善左衛門をその男とする。

さて「常山紀談」第十二に「池田輝政、竹村半兵衛に田中長胤を捕えさせる」という一文がある。
内容には特に触れないが、冒頭に「関が原の時三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤は父大阪方に同心したりといふをきゝて・・・」とある。
細川家には吉政の弟・田中兵庫助氏次の家系があり、その系図を見ると長胤の名前は登場せず、常山紀談の記述には疑問を感ずる。
さて真実や如何に・・・・・ 

 

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残暑お見舞い

2012-08-07 13:05:20 | 徒然

                                         

                            

                                      残暑お見舞い申し上げます。
               

                      今年は例年にない猛暑が続いております。十分体調に気をつけられてお過ごしください。 

                                              津々堂敬白 
                                   

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南関町指定文化財に・・「熊本久野家初代 久野次郎左衛門の墓」

2012-08-07 10:45:42 | 熊本

 細川家の肥後入国後、南関の初代関所御番に指名された久野次郎左衛門は、天草・島原の乱において身体に数箇所の銃弾を受けながらも奮戦、数年後この傷がもとで南関の地で亡くなっている。亡骸は、「死して後も南関の守護神たらん」として、街道筋が見渡せる丘の上に葬られた。
次郎左衛門は旧佐久間信盛・信栄父子に仕えたが、佐久間家没落の後旧主信栄(不干齋)の肝煎により細川家に召しだされた。
其のいきさつを伺わせる不干齋の次郎左衛門宛書状が久野家に残されている。 

本年7月11日、この次郎左衛門のお墓が南関町指定文化財(建造物)に指定された。(町のHPにはまだUPされていない)
ご子孫久野正貴様から資料の送付をいただいたので、ここにご紹介する。 

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