津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

一色義有御討果のこと(ニ)

2012-12-22 09:04:20 | 歴史

          (天正十一年)九月八日、一色義有を御饗応の席にて被討果候、其趣は先に御和睦の時より米田宗堅専此事に預り、御招きに可被
          応由にて、九月八日宮津に参候、尤用心と覚しくて騎士三十六人雑兵三百はかり供せらる、雑兵ハ城外にとゝめ、士は広間まて参り
          候、御書院御座の次第ハ忠興君と義有と向合て御座、一色の家老日置主殿介は忠興君の御右の脇ニ居候 一ニ次の間ニ相詰る 御後ロ
          襖障子一重内ニ仕手の士十七人被隠置、玄蕃殿・康之・立行・是政等を初め彼是田辺の城の普請場へ被遣置、相図を待て一色の
          居城弓木を速ニ攻取らるへきとの事故、仕手の士僅也

                 一書、松井・米田・有吉ニ馬廻之騎士十四五騎、足軽三百余人を弓木の城下に遣置と云々、御年譜御国の惣まかなひ米
                 田宗賢所にて御饗応也、屋敷の図左ニ記、座敷八畳敷也
                 米田屋敷ハ宮津の御城外にして東向也、向は松井屋敷、南隣ハ有吉、北は川を隔、橋の外ハ町屋敷と云々、又一書にハ
                 有吉屋敷共有、是非分明ならす、或評に御饗応の事米田屋敷にてハなく、宮津御本丸の内ニ極る、忠興君待受られ、一色
                 も心疑もなく登城也、然ハ米田宅とあらは心遣も有へしと古老の語伝也と云々、考ニ宗賢宅と云事諸記有之候へ共、宮津
                 御本丸といふ事、前後の様子左も有へきと見へ候間、是を本文ニ用申候、尚追考可仕也 

          忠興君の御腰物を中嶋甚之允 一ニ柳田久三郎 持出置たりしか、御柄の勝手悪かりしを米田宗堅御肴を持出、わさと袴のすそ御腰
          物ニ障りしを、取て戴く時、少し鞘はしりたるを押込候を、御勝手よき様に忠興君御直候

                 或書、御腰物に障りたるを者を松井共、有吉共、中路共云皆非也、松井・有吉ハ弓木の城の手当也、中路ハ外様新参也、
                 各大に虚説也と云々、又云、中路は若輩にて、其時ハ宮仕の役を勤むと云々
                 一説、御腰物御右に有しを宗賢態障り、押戴き左の方ニ直すと有
                 一説、御腰物に宗賢障り候を御取直、御いたゝき候ヘハ、鞘はしりけるを押込、御勝手よき様に御置候、鞘はしりたる時に
                 討へかりし物を、後ニ被仰候と云々、是非不分明
                 老人雑話集ニ、御腰物を米田監物持出と有、又御討果も信長死去の明日を記せり、大なる誤也、監物は助右衛門是政子
                 ニ而宗賢孫也 

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一色義有御討果のこと(一)

2012-12-21 11:51:30 | 歴史

 細川家の歴史を考えるとき、痛恨事ともいえるのが幽齋女・伊也の婿一色義有を討果たした一件であるが、「騙し討ちだ」とするご指摘を受ける。当方としては何とも弁明のしようがない。数回にわたり綿考輯録の記事を余すところなくご紹介することにより、ご理解いただきたいと考える。


   (天正十一年)八月御上洛、秀吉ニ御対面、直ニ江州安土ニ至り、幼君(三法師)に御礼被仰上、信雄ニ御対面、其後三七信孝に御対面の為岐阜ニ
   赴かれ、既ニ城下迄御出被成候処 一ニ九月と有 秀吉公より密状来り候間、即刻御引返し御帰國被成候、一色義有はこの留守を窺ひ、宮津の城を取へ
   きとて、犬の堂 宮津より十八丁 迄兵船を押出す処、はや御帰国の御様子を聞、弓の木へ押戻し候と也、其砌幽齋君より之御飛脚中途ニ而忠興君ニ参り
   逢、近き在所ニ而御文箱を御開き被成候得とも御状無之間、御驚き、蓋を御覧被成候ヘハ、新き文箱故脂出候而、御状蓋ニ付有之候 夫より御一代にり文
    箱にても蓋を御覧被成候
封目ニ幽齋君御印有り、是は義有野心ニ付て其御覚悟可有との趣なり
           一書、忠興君の御帰を待受、御討果可被成との御たくミ也と被仰遣と云々、又一書、此事日置主殿より幽齋君へ御知せ申候と云々

   忠興君矢立を御取出し、追付懸御目可申上と計御懐紙にざつと被遊、御使ニ被相渡弥道を早めて御帰城被成、一色家を攻討るへき催なりしに、義
   有和議を乞ハれ、幽齋君御取扱被成、米田宗堅を以暫無事相調、忠興君弓の木の城ニ御出被成候、然れ共終ニハ義有を可被討果御内存也 

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肥後武将の源流

2012-12-21 07:37:04 | 書籍・読書

                                     

我が史談会の重鎮Dr高田泰史先生の御著である。平成4年12月の発刊、現在では入手困難な本である。
図書館でこの著作の存在を知ったのだが、Drの手元にも残部がないという事でお借りして読んでいる。
阿蘇氏・菊池氏・相良氏三家に関わる膨大な資料を駆使しての佳書である。この書を通じていろいろ知識を広げることができた。

Drの最大の業績は「平成肥後国誌」の発刊であろうが、これがDr御一人でなされたことは驚嘆すべきことである。
現在でもDrの勉強の意欲は尽きることはない。時折運転手役を務めてご一緒しているが、いろいろ教えられることが多く有り難いことである。 

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細川家家臣--山崎(定平)家 補足

2012-12-20 10:54:04 | 地図散歩

先に 細川家家臣--山崎(定平)家 を書いたが、先祖附から新たな事実が判明したから補足する。

                         曾祖父山崎七右衛門と申者毛利右馬頭(輝元)殿御家人
                         ニ而御座候処彼御家御小身御成ニ成候付牢人仕
                         石見國銀山と申所住居仕延享三年四月病死仕候
                         祖父山崎七左衛門と申者浪人ニ而右七左衛門一所ニ罷在
                         貞享二年十月病死仕候

                         親山崎助左衛門儀浪人ニ而江戸江罷越右助左衛門伯父
                         本因坊手前罷在候右本因坊儀
                         妙應院様(忠利)御懇御出入被仰付候右助左衛門儀は
                         本因坊養育仕候段達 御聴助左衛門儀御家
                         被召出元禄九年六月御扶持方三拾人扶持
                         被為拝領座配勤方等は追而可被仰付候間ニ而本因坊ニ
                         罷在候 

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足軽の誕生 室町時代の光と影

2012-12-20 09:18:23 | 書籍・読書
足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)
 
        朝日新聞出版

 

内容紹介

幕府・朝廷が京に一極集中した室町時代。首都には物資が集まり、花の御所、喫茶、バサラ大名など華やかな文化が展開する一方、荘園支配は守護に一任され、地方支配は変化を余儀なくされた。 15世紀半ば、嘉吉の乱による将軍暗殺のあと、幕府は求心力を低下させ、首都近郊では一揆が続発。主を失った牢人が京にたむろし、博打に興じ、乱暴を行うなど混乱を生じさせていた。その後の10年に及ぶ応仁・文明の乱で暗闘した足軽は、いったいどこから現れ、何をしていたのか。下剋上そのものといわれた足軽の姿を明らかにし、室町時代の実像に迫る。
(目次)
I 首都京都の誕生
II 京郊荘園の変容
III 足軽・牢人の誕生――暗転する室町の社会
IV 牢人都市京都
V 嘉吉の乱後の幕府政治――交錯する光と影
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寛永九年の今日の三齋さま

2012-12-19 15:09:38 | 史料

 寛永九年の今日三齋公は、孫娘・烏丸禰々姫を伴って大津に入られた。鶴崎から豊後路をへてのことである。
同日の忠利宛書状(1795)を見ると「今日午刻、大津迄令著候、車返、存之外大キ成坂にて候へ共、路地一段能通候、可心安候」「如此ふり候は、明日は此地ニ逗留可申候、禰々病後、未ちからつかれす候條、寒ク候は参間敷と存候事」と記す。
この日は雨であることが判るが、新暦でいうと一月廿八日であり寒さも厳しかったと思われる。又「昨日之返事今日日出時分、内之牧ゟ一里此方にて、披見候事」とあるから、十八日は内牧の御茶屋に泊まり、日の出とともに赤水から二重峠(車返)に上りお昼時分に大津に着いている。

豊後路の中川領(久住までの道)の道の悪さに閉口したらしく、又久住は丹波の谷の狭い所に似ていると記す。一方肥後領は湿地に茅が敷かれていてよい道だと喜んでいるが、下々の作法が悪いとし清正(加藤)の法度のせいだと決めつけている。「其方領分の道、一段能候て、下々まてくつろき申候」とそろそろ熊本入りする安堵の気持ちが表れている。

廿日は雨も上がったのであろう熊本に着いている。忠利と共に熊本襲封の祝いの盃を交わしたことであろう。 

 

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細川家家臣--谷(七郎左衛門)家

2012-12-19 10:01:18 | 地図散歩

 

    堀右近----+--(谷)七郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・十三郎家
     ∥     |
     ∥     +--(谷)忠兵衛・・・・・・・・・・・→絶家カ不明
     ∥
  +---●姉
  |
  +--谷衛友----+--衛成---衛清 衛政より分知2,000石・仕家光 
             |
            +--吉長
            |
            +--衛勝 元和三年卒 25歳 
            |
            +--衛政-------------------------------------------------------------→丹波山家藩主家
            |
            +--衛長(内蔵允)1,500石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・助九郎家(1,000石) 
            |
            +--衛冬 衛政より分知1,500石・仕家光 25歳にて卒

 

 七郎左衛門・忠兵衛の父・堀右近は越後春日山城主・堀忠俊に仕えた。同姓であるところを見ると一族であろう。
右近亡き後兄弟は母の弟にあたる丹波国山家藩主谷衛友に養われた。その故をもって谷姓を名乗った。
真源院様御代御侍名附には、谷七郎左衛門は300石御鉄炮頭衆、弟忠兵衛は1,000石御鉄炮頭衆とある。 
七郎左衛門家は明治に至っているが、忠兵衛は「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」には、
貞享二年七月二十七日「乱心」(1,100石)として書き記されている。時は綱利代であるが、何があったのか知りえないでいる。 

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◇本383 手書き 【細川越中守書】 肥後國熊本藩 細川綱利

2012-12-19 09:16:36 | オークション

                                       ◇本383 手書き 【細川越中守書】 肥後國熊本藩 細川綱利

                          ◇本383 手書き 【細川越中守書】 肥後國熊本藩 細川綱利
 

 案内からすると綱利公に関わる遺事のようですね。応札してみたい気もしますが、これは高くなりそうな気配です。
現在51件の応札、2,680円、今晩10時がタイムアウトのようですが・・・・・ 

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間違い発見「形部卿とは・・」

2012-12-18 23:52:21 | 史料

 大日本近世史料・細川家史料(七)に間違いを発見・・・
寛永十八年二月五日三齋より忠利宛書状(1690)の冒頭に次のようにある。

      江戸形部卿ゟの文請取候由、被申遣可給候、以上
             (本文略)

この文章において形部卿を( )書にて細川興孝としている。
残念ながら興孝はこの時期は熊本に在る。この形部卿とは忠利室・保壽院附の老女である。 

細川家文書・御印之物」に寛永十九年三月五日付奉行宛て文書として、次のようなものが有る。
「刑部卿まご成瀬弥次右衛門尉・成瀬元馬此両人ニ銀子弐拾枚遣候間堀平左衛門尉ニ可相渡也」というもので、「fosacawarocu」という光尚のローマ字印が押されたものである。ここに登場する成瀬氏なる人については、よく分からないし又この文書の内容についても良くわからない。
細川家史料(別巻)--人物索引に、「田中善左衛門室」として次のようにあった。

【山名豊国の姪にて、宮部継潤の養女となり、田中吉政の一族で継潤の家老田中善左衛門(八千石)に嫁ぐ。善左衛門は関ヶ原役で小早川秀秋の手に属し討死。のち豊前にて忠利に召出され、忠利室保寿院に仕う。光尚誕生により直に附属され、日夜御側に仕う。光尚の江戸へ発駕する時も供し、登城拝謁の時も附添う。】 田中善右衛門についても良くわからないでいる。

たまにはこういうこともある。

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時雨の壺、到来

2012-12-18 13:56:54 | 史料

 

                                         

                             唐物茶壺 銘 時雨 (所蔵・ミホミュージアム)

 

 

大日本近世史料-細川家史料 寛永十七年九月十六日書状(1658)
                   
                       以上        
                   昨日は時雨之壺被持越、如喜例、口を切茶を給候、去年ゟ味勝候と覺申候
                   殊初鸖其外色々令料理、祝入候、座中之躰、三淵内匠可為演説候、幾久と
                   祝入、満足之趣一書令申候、恐々謹言
                                                      三 齋
                           九月十六日                     宗立 (ローマ字印)

                              越 中 殿
                                  進之候 

 

実はこの前十三日、十四日三齋は忠利(在熊本)に書状を発している。

                十三日の書状(1656 抜粋)
                   かこいも大形出来、今少かべのひぬ計にて候、又京から取寄る壺も、半分
                   ほとはや内裏迄著たる由、先へ注進候、如此候間、一両日之内ニ著可仕候、
                   然ハ吉日ニ候間、來ル廿七日ニ、其方差合無之ハ座敷ひらき、口切申度候、
                   若差合事候ハゝ、廿七日ゟさきハ十月迄、其方次第日さし此者ニ可承事

                十四日書状(1657 抜粋)に於いては
                   來廿七日、座敷ひらき、壺之口切可申と申候處、廿六日ニ小川迄被來、廿
                   七日我々所へ直ニ可被参由、一段満足申候、幾久と祝入候

この時期三齋は八代の城内に数寄屋を作事しこれが完成したので、そのお披露目のためにわざわざ京都からこの「時雨の壺」を取り寄せたことが判る。
廿六日には小川(肥後八代郡)に到着の予定だと十四日書状で記している。
そして九月廿七日書状(1660)に於いては、「今日ハ來儀候て、口切目出度存候」 と書いている。
しからば、十六日付書状の意味するものは何だろうかと考えながら、思い至らず頭がこんがらがっている。
 


                    

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ススキ原の小用

2012-12-17 18:26:21 | 徒然

 悪友の話だから脚色があるかもしれず、保証の限りではない。
10数年前、悪友の友人がそれぞれ夫人を伴い7組ほどで温泉の旅をしたという。どうやら黒川温泉らしい。
その帰り道、貸切の小型バスが夕日に映えるススキ原に行きかかったとき、友人の一人が声を上げ停車を乞うたという。
何事とみんなが首を回すと最後尾にいた友人が、「トイレタイム」と声をあげ失笑を買ったそうな。
処が本人と思いきや、なんとご夫人だったそうで、皆がなんとも間の悪い顔になって、夫人を送り出したという。
夫人はバスを降りると後ろ側からススキ原に入り用を済ませたらしいが、旦那なる人物は気が気ではないらしく最後尾の窓からススキ原を睨んでいたらしい。
しばらくするとそのススキ原がさやとゆれて、ゆっくりと歩を進ませてバスに帰られたそうな。
そして一言、ススキもいいけど萩だったらもっとよかったかも、と平然として言われたそうだ。

その後日談、悪友たち男どもが集まった際、「大だったのか、小だったのか」と旦那を問い詰めると、「小だよ」とのご返事・・・・
「ススキもいいけど萩だったらというのが判らん・・」とさらに聞くと、どうやら夫人は太宰治の「斜陽」に出てくる一場面、「おかあさまの小用」になぞらえてのことだったらしい。

と聞いても私にはよく判らず「斜陽」を読む羽目になった。

お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、「おしっこよ」とおっしゃった。 

なんとも・・・・

 

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「しほ」という娘

2012-12-17 15:55:05 | 徒然

                                     

 大日本近世史料-細川家史料の人名一覧に、「細川立允の女か」とする「しほ」なる人物がある。ところがこの人物は、どの資料を見ても立允(立孝)の周辺には見受けられないのである。 

  寛永十七年九月廿七日三齋は八代において忠利と共に口切のお茶を楽しんでいる。
そして「おしほ」なる娘に逢いその可愛らしいことを愛でて書状(細川家史料-1060-)を送っている。

       「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」

同日付の三齋書状(1660)では、「今日ハ来儀候て口切目出度存候」の書き出しで、種々認めている。
その場でもいろいろ語られたことであろうが、書状として残すべく認めたものであろうか、その尚々書に於いて「しほ」のことに触れている。

       「今日ハしほへいろいろ懇ニ被仕候、満足申、ぬしも事之外嬉しかり候、以上」
    
又、十月四日の忠利書状(同-1069-)では、書状に添えて忠利がおしほに椎を送ったのであろうことが伺える。

       「此しい(椎)、當国之内ニ而ハ、少大キニ御座候間、おしほ所へ送申候、存之外いたいけニ御座候間、何よりも之御慰と奉存候」

そしてその書状に対する三齋の同日付返書(1664)では、嬉しくてそごうを崩したような三齋の有様が見て取れる。

       「次ニしほかたへ椎一箱被遣候、事之外満足かり、一期ニかようの大キなる椎見たる事もなく、懸御目候時、
        御禮可申と申候て進之候へと申候、事之外之さいまぐりものにて、おかしく存候」 

おしほという娘を中にして、微笑ましい会話がやり取りされているが、先に記した如くこの人物の特定ができないでいる。
おしほを、立允の娘とするには無理があるように思う。三齋・忠利の会話の中に登場するような人物が、細川家系譜に登場しないことは有りえないのではないか。私は三齋の養女 お三(佐舞・後細川行孝室)ではないかとも考えているのだが、如何だろうか。

細川忠興養女佐舞、三(三齋ノ一字ヲ遣サレシモノ)、実ハ加来佐左衛門女、初名せい、元禄十一年戊寅二月廿三日卒、享年六十四(六十一)
これからすると三は寛永十二年の生まれであり、寛永十七年当時は五・六歳でありこの風景にぴったりだと思うのだが・・・・・ 

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澤村家の借金・・2

2012-12-16 10:32:08 | 歴史

先に「澤村家の借金」を書いた。
計算をしてみると50石を年4割で借り続け29,880石余になるには19年を要する。(29,881.52石)
借りたのが慶長廿年(元和元年-1615)だとされるから、先の書状は寛永十一年(1634)年ということになる。 

さて寛永元年(1624)四月、澤村大学の知行地至津村で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたという一件がある。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年(1626)九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されている。

寛永二十年(1643)正月十日ころ、光尚は八代に三齋を見舞っている。亡くなる三年ほど前の事だが、綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」とある。どうやら三齋の方から「被召連候様」にとの事であったらしい。

大学の細川家帰参から三齋に再御目見するまで17年を要した。そしてこの借金問題からは9年が経過してのことである。
 

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見え見えの間者

2012-12-15 13:45:02 | 史料

 明日は史談会の12月例会、現在は花岡興史先生に部分御舊記・城郭部から、寛永十七年あたりの八代城の修復工事にかかわる書状・案文などを勉強している。隠居ながらも直接幕府に対し書状を発するなど、三齋の行動にいささか迷惑気味な忠利の言動など、原文の読み下しから解説など詳細な解説をいただいている。

予習・復習ではないがいろいろ読んでいたら、寛永十七年十月九日の三齋から忠利にあてた書状(1668-抜粋)に面白い記述を見つけた。

                  高力摂津守殿之者之由申候て、爰元へ、綿・漆の様成物かいニ参候由申候、人を付候て見
                  申候へは、一向かいにてハ無之候、爰元石垣之事、又其方爰元へ口切ニ被参候事も、宿主
                  ニ尋、それゟ其地へ参由候間、不入儀と無其儀候、次而ニ候間申候事

高力摂津守とは高力忠房、当時は島原城主(40,000石)である。つまりは、島原の商人と称する人物が八代に入り、石垣普請のことや忠利の行動等を尋ね調べているというわけである。尾行を付けようと思ったがいらぬ事と思い行わなかったというのである。
高力氏は奏者番などを勤めた人物であり、当然のことながら幕府の命を受けての行動であろう。
すっかり見破られているのだが、「すておけ」とばかりに三齋さまは悠然としておられる。 

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浅野内匠家来口上

2012-12-15 00:32:25 | 史料

               あと数時間で討ち入りです。今頃四十七士の皆さんは蕎麦でも食べて、腹ごしらえといったところでしょうか。

                                     

               吉良上野介様御門ニ立置引取被申候書付写

                                         浅野内匠家来口上

                             去年三月 内匠儀伝奏御馳走之儀 吉良上野介殿江含意
                             趣罷有候処 於 御殿中 当座難遁儀御座候歟及刃傷候
                             不弁時節・場所働 無調法至極ニ付 切腹被 仰付 領地・
                             赤穂城被 召上候儀 家来共迄畏入奉存 請 上使御下
                             知城地指上 家中早速離散仕候 右喧嘩之節 御同席拘留
                             之御方有之 上野介殿討留不申 内匠末期残念之心底 家
                             来共難忍仕合御座候 対高家御歴々家来共挟鬱憤候段
                             憚奉存候得共 君父之讎共不可載天之儀難黙止 今日上
                             野介殿御宅へ推参仕候 偏継亡主之意趣志迄御座候 私
                             共死後 若御見分之御方御座候者御披見奉願 如斯御座
                             候 以上
                                                 浅野内匠頭長矩家来
                                  元禄十五年極月日        大石内蔵介
                                                          此外四十五人 
       

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