津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

沢村大学の帰参

2013-08-23 09:31:02 | 徒然

2013-07-13 05:48:13 「メモ」という一文で、沢村大学の帰参についての資料をご紹介した。

寛永元年沢村大学は知行地の豊前至津村の百姓がおこした訴訟に関し、三齋の機嫌を損ない豊前をあとにして備前岡山藩主松平宮内少輔(池田忠雄)のもとに厄介になる。忠雄の仲介も有り忠利は「召し直し」をするのだが、その折帰参後に住まう屋敷について指示をした文書をご紹介した。
以前は大学が住んでいたのであろうか、ここのは後に大学の養嗣子となる松井宇右衛門が住んでいる。これを立退かせ転居を指示するものである。

今般東京で「御軸・御道具」を扱っておられるF様からお手紙をいただいた。松井宇右衛門宛ての忠利書状のコピーが同封されてあった。
一見して大学の帰参に関する書状だということが判り、この間の事情を補強するものだと確信をした。
これがまさしく上記のことを、直接宇右衛門に指示をした書状であった。その大意は以下の如くである。

                      この度大学を召し直すに当たり、宇右衛門に遣わした家を大学に戻したい。
                      度々の引越し迷惑だと思うが後々の事は良きように取り計らうのでその旨を伝えておく。

このことが切っ掛けになったのかどうかは判らないが、八年後の寛永十年大学は宇右衛門を養嗣子とするのである。
忠利の肝煎りであることは容易に想像に難くない。三齋の肝煎りではないと思われるのは、三齋と大学の和解はこれから十七年の後に成るからである。
 

 

 

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落札・肥後文献叢書 全八巻

2013-08-22 22:04:03 | オークション

                          肥後文献叢書 全8巻 歴史図書社 昭和46年  肥後文献叢書 全8巻 歴史図書社 昭和46年

  私がこの物件が「ヤフオク」に登場したのを確認したのは三週間ほど前である。「欲しい」と思ったのだが、競り合って相当な金額まで上がってしまうのだろう、そうなれば「日本の古本屋」で購入するのと同じになるのではないかと思った。気が付いた時には応札の時間を過ぎていたのだが、落札された気配がない。即「残り時間6日+■■時間」が表示された。肥後文献叢書は「近代デジタルライブラリー」で見ることが出来るのだが、やはり手元に在るのに越したことはない。いろいろ思い悩ましている内に一週間が過ぎた。まだ落札者が出ない。こういうものが出品されていることに誰も気づいていていないのだろうか、これは落札できるかもしれないと思い、三度目の正直で今日8月22日21時57分締切分に応札し無事落札した。日本の古本屋を見ると、地元某古書籍店を含めで50,000~80,000円する代物である。落札値段は・・破格であった。

問題も有る。送られて来たらさぞかし奥方が怒るだろうということと、いまでも本や資料であふれかえっているわが部屋に、どう置こうかとの心配である。

 

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紙不足

2013-08-22 06:11:40 | 史料

                                              

 いささか泥縄式とも思える、紙不足に関する寶暦二年の「覺」がある。

                一近年御用紙無多事候ニ付、紙楮御買方をも被仰付、年々相済申事ニ候、然共諸御用向及不足候、依之所々御郡空
                  地又は御山藪畝之内、其外ニも楮植立支無之場所え紙楮御植せ被成筈ニ候、請込之儀ハ櫨方役人え被仰付、櫨同
                  前ニ御植せ被成筈ニ候條、御山奉行・御惣庄屋共ハ不及申山ノ口・村役人共随分心掛、植立候て可然所柄と及見
                  候所々ハ、其段之書付支配方より御郡方え指出候様、左候て此方え可被相達候、櫨方役人も紙楮植せ可然所々と
                  及見候ハゝ其趣相達申筈及沙汰候間、其上ニて可被相達候、御為相之儀候條、御山奉行・御惣庄屋無腹蔵申談、
                  植方之儀支ケ間敷儀無之様相心得候様ニ宜有御沙汰候
                一紙楮御買上之儀、例年御勘定方より御役人罷出買調申事候、此儀は只今之通候條、左様相心得候様是又可有御沙
                  汰候、以上
                     寶暦二年申十二月


紙の消費は文化のバロメーターと云えるものであり、日本の近世における消費量は世界有数のものであったともいわれる。
又一方紙屑を拾い集めたり、また町々に呼び声をたてて回収をはかるなど、エコな環境が成立していた。
この「覚」の数年後、熊本に於いては藩校時習館の創立(寶暦五年)などもあり、紙の消費は一段とまして行ったものと思われる。

紙は貴重品であり、中路文庫に残る記録などは全八十丁ほど、わずか9㌢×18㌢の紙に虫眼鏡でのぞかなければ判読できないような、小さな文字で書かれている。先人の努力に応えて何とかこれを読み下したいと思っているのだが、無力感に陥っている。
                     
 

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quiyota xichisuque(清田七助)

2013-08-21 14:21:07 | 歴史

 2013年7月発刊の熊本歴研「史叢」第17号に、清田泰興氏の論考「細川立孝 興孝兄弟とその母・吉の生涯」が掲載されている。

この吉は(幾知とも)清田主計鎮乗入道素閑女である。兄弟に七助がある。泰興氏は主計鎮乗の兄・五郎大夫のご子孫である。
七助(石見乗栄)は大坂の陣における活躍ぶりは細川軍勢の内一番とされ、いろいろ記録が残されている。  

        * 大阪落城之趣、---被仰遺言候五月七日之御書
           一、鑓つき申候者共、一番ニ七助(以下略)
           一、七助鑓ハさきをつきまげ申候(以下略)
        * (大阪御陳)手ニ合候者--七月朔日御饗応、御褒美被下候
           知行二千五百石・御腰物直綱 鑓を合、高名は無之 (綿考輯録・巻十九)

              (1)弐千五百石 「源」大阪鑓下高名 後・石見 父・大友家 (於豊前小倉御侍帳)
              (2)三千石 (肥後御入国宿割帳) 
              (3)三千三十五石 (真源院様御代御侍免撫帳)
              (4)清田石見組(組頭)三千三十五石 (寛文四年六月・御侍帳)
        * 島原一揆の節流れ矢にあたり負傷、凱陣後病痕ト罷成・・・・病死
        * 清田石見母 清田泉院 ・・転切支丹・寛永十三年改宗(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)
        * 清田石見室 細川幽齋女伊与(吉田兼治室)女・・・(米田家臣中山宗俊覚書)
 

そんな七助が忠興公から一番鑓を賞して贈られたという具足の図が、上記の論考に紹介されていた。
出典は「佐方文書・大坂陣褒美之次第覚書」だとされる。是には驚いてしまった。鎧の正面・胸当の部分に 

                                 quiyo
                       taxichi
                       suque 

と三段に書き込まれている。 そして兜には大友家の一族であることを示すように家紋の「抱き杏葉」を両側に一つずつ立てている。

                        

スキャンしてお見せしたいところだが、掲載の許可を頂戴していない。なんとかご連絡して許可をいただき公開したいと思っている。

 

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下河原の芝居小屋と刑場(3)

2013-08-20 12:59:54 | 徒然

過日 下河原の芝居小屋と刑場(2) を書いた。これを読んでくれた史談会の若い仲間N君が、宇野廉太郎の「肥後藩に於ける空前絶後の火炙りの惨刑」という一文のコピーを届けてくれた。詳しく読んでみると誠に悲惨である。

宝暦期熊本藩では中国,清代の基本的刑法典「清律」を手本として、罰則に新たな制度が設けられた。
しかしながら制度が整って以来約150年ほどこの刑が執行されることはなかったという。残念なことに嘉永三年に至り、刑に該当するものが現れたのである。驚いたことに私が所持する刑場の図(コピー)はまさしくその時のものであった。
「嘉永四年四月十六日長六下河原ニおひて火罪」との書き込みが見える。宇野氏の著によると申の刻(午後四時)とある。
長六橋には数万の群衆が詰めかけ、橋が崩れ落ちる危険さえあったという。火刑は亥の刻(午後十時)に及んだというが群衆は立ち去る気配もなかったらしい。

資料によると、火炙りの刑は温情により事前に命を絶ち、火刑にすることがあったそうだが、この時の刑はそうではなくまさに生きたままの極刑であったらしい。
この文を読み、改めて絵図を眺めると、怖気がたつ思いである。
日が改まり、月・年が改まるとこの場所では当時の悲惨なことを忘れ去ったかのように、相撲興行などが行われたのである。
東・西の二つの芝居小屋も賑わったのであろう。往時の事を伝えるこのような資料が無ければ、この下川原の歴史は知られることもない。 

 

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養子のこと

2013-08-20 11:10:17 | 史料

 詳細な年月が判らないが、前後に記載ある「達」などから、宝暦六・七年頃のものと思われる養子に係る「達」である。 

                  士席以上養子願書附奉達尊聴、願之通被仰付、養方ニ引取候上病気ニて御暇奉願、如願被仰出候得は、何方へ
                  も達無之實方へ差返、別人養子奉願来候得共、一度父子之契約いたし候上は、病気たり共用意ニ實方へ返候事は
                  有之間敷儀と被思召上候、向後養子病気等ニて御奉公難相勤躰ニ候ハゝ、其旨書付を以御暇奉願、同居難成舊離
                  ニ相成候ハゝ、右之旨趣双方より書付を以可被相達候
                    但、當時迄病気等ニて實方へ被差返置候輩有之、病気恢復いたし候上、他へ養子ニ遣度旨奉願候儀は可為勝
                    手次第候
                  右之通被仰出候、此旨被相心得御仲間中へ御通達、組々えも可有御沙汰候、以上 

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只今夏バテ中

2013-08-20 07:11:51 | 徒然

 昨日の熊本市は38.1℃となったが、猛暑日も10日目となり本当に身に応える。バテ/\の私は昨晩は九時前には就寝、今朝七時起床まで十時間以上の睡眠をとったが・・・・なんともすっきりしない。台風情報も聞かれるが、台風でもやってこないとこの猛暑は和らぐこともなさそうだ。
藤崎宮の秋の例大祭が行われる時期は、随兵寒合(ずいびょうがんやー)といって朝夕の涼しさが増してくるころだが、あと25日ほどある。
こんな状態だと身が持つかしらんと、正直なところ不安にさえなってくる。

今日は早朝の散歩も取りやめ、外出も控えて家にこもり、読書をして一日過ごすことに成りそうだ。
その上一・二時間の昼寝でもすれば、日の内の半分を寝て過ごすことに成る。今年の夏は、ぐうたら爺に成り下がってしまった。 

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落書(らくがき)について

2013-08-19 16:32:22 | 史料

2013-08-10 13:55:36 に「落書(らくしょ)について」を書いた。このたびは「落書(らくがき)」である。

          御家中屋敷/\并町家外向之壁ニ、戯書いたし候儀間々有之、小兒又ハ卑賤之いたしかたとは乍申不埒之事候、
          以来右躰之儀、堅仕間敷候、若心得違之者於有之ハ、見逢次第、廻り役より召捕、其名を承届、相達申筈候間、
          其旨丁役人并親々等より、屹可申付候、此段町中末々迄及達候事令沙汰候
                天明七年五月日帳   
                                                   (雑式草書 221) 

 「小兒又ハ卑賤之いたしかた」と断定しているが、士分の者もいたかもしれない。そんな人物も卑賤の輩という事であろう。
 落書(らくしょ)にしろ、この落書(らくがき)にしろ、同様な「達」をだして諌めているが、なかなか召しとることは難儀なことであったらしい。 

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8/28(水)宮本武蔵「五輪書」東京フォーラム

2013-08-18 14:14:05 | 講演会

                                        http://ameblo.jp/tokyo-kumamoto-kenjinkai/entry-11582836736.html
                                        http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201308013665/                   

                                                             :8月28日(水) 18時から20時20分

                                                             場 所:豊島公会堂(東京都豊島区東池袋1-19-1)

                                                             申 込:入場には、ちらし裏面(下記画像)の整理券が必要です。 (先着800名様)
   
                                                             問合せ:東京熊本県人会事務局(道倉)090-6565-0482

    ◆宮本武蔵研究論文集(上)(下)の著者・福田正秀氏も出演され、「終焉の地・熊本からたどる宮本武蔵の実像」を講演されます。

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193年前の今頃「達」

2013-08-18 13:32:28 | 史料

 文政三年(1820)八月十九日の御達し、長六橋の下流部分での御漁の様子を殿様が御覧に成るので、約一ヶ月の間上下流約500メートル位での漁をしてはならないというものである。大殿様が御覧に成る時は大漁が望ましいという配慮であろうが・・・・・

               濱町様、白川筋ニて長六橋下縄場等漁為御覧、有折被遊御出筈ニ付、聲取坂下船渡場二
               十間上より本山村船渡場下迄之間、當月より九月中網漁留被仰付、杭木をも被建置筈候
               右之趣一統可及達旨候條、左様相心得、御支配方へも可被相達候
                       八月十九日                御奉行中             (度支彙函 884)
 

はたしてその時は大漁であったのかどうか知る由もないが、漁師さんも迷惑なことではある。
昨日の史談会で御紹介した資料では、江戸の人某が「肥後のよき物」として次のような歌をうたっている。

               城に ひょうたんさいく 水前寺 振袖の風五里の杉馬場

白川でも鮎がとれてはいた事は承知しているが、旧暦九月中ごろから月いっぱい位では季節外れだし、はたして何が取れていたのだろうか・・・・

                

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西南戦争学ぶ歴史講座

2013-08-18 11:52:02 | 新聞

西南戦争学ぶ歴史講座 熊本市、玉東町で25日から2013年08月18日  (今日の熊本日日新聞から)

 
 植木町・玉東町西南戦争遺跡群連携保存活用協議会(甲元眞之会長)は、25日から一般を対象にした歴史講座を始める。国史跡に指定された西南戦争戦跡群(熊本市、玉東町)を広く知り、地域の歴史を学んでもらうのが狙い。

 12月まで4回開催(受講料無料)。3回以上受講した人は、西南戦争ゆかりの地を巡る来年1月の視察研修ツアーに参加できる(有料、要事前申し込み)。講座の日程は次の通り。

 ▽25日13時半(熊本市植木文化センター) 「蘇峰がみた西南戦争~蘇峰生誕150年」=藤川博昭・徳富記念園館長▽9月15日13時半(玉東町中央公民館) 「旧細川藩医 鳩野宗巴[そうは]と11人の医師達が向き合った西南戦争」=坂口寛治・日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会事務局長▽11月17日13時半(同センター) 「地形と西南戦争」=齋藤達志・防衛省防衛研究所戦史研究センター▽12月8日10時半(同公民館) 「一巡査が見た熊本城籠城[ろうじょう]戦」=増田隆策・元県警

 申し込み・問い合わせは植木事務局TEL096(272)0551、玉東事務局TEL0968(85)3609。
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横綱不知火諾右衛門でも光右衛門でもない、相撲取り不知火

2013-08-18 10:12:24 | 熊本史談会

 現横綱は土俵入りは二人とも不知火型だが、この形は熊本出身の第八代横綱・不知火諾右衛門による。不知火光右衛門は同じく熊本出身で第十一代横綱だが、こちらは雲竜型だとされる。

宝暦七年(1757)の「相撲取り」に関する文書があり、不知火の名がみえるが、これは前記二人より時代がさかのぼり別人である。

              御國相撲取、伊吹山・不知火両人、酒井雅楽頭様被召抱度由付て之江戸状之内ニ、右之貮人年季を限、御留被置
              候儀ハ其通、御國之者永ク他所え御出置候儀ハ難成御國法ニて候、申同有之候様申遣趣相見候事
                 右宝暦七年正月江戸状扣                       (雑式草書181 藩法集7-熊本藩p892)

調べてみると、同じく光右衛門を名乗っていた大関・不知火がいたが1775年生まれというから別人である。
この人からさらに遡った時代に不知火を名乗ったこの人物も、酒井侯から召し抱えの要請があったというのだから、強い人であったのだろう。
郷土熊本の相撲取りは現在あまりふるわない。不知火を名乗る強いお相撲さんの出現が待ち望まれる。

                      

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準備・・・間に合わず

2013-08-17 05:14:03 | 熊本史談会

                                            

                                           継ぎはぎだらけの原稿
 

 今日は史談会の例会の日、朝から早起きして(4:30)資料に目を通している。昨晩は疲れ果てて、11時前には寝てしまったのだ・・・・・
史料の方は上妻文庫の「肥後諷刺文学」から、選択した題材をを継ぎはぎだらけの六枚の史料にし、+説明資料三枚の原稿を準備して、コピー20部を準備した。これが昨日の夕方までの話である。読み下し文のタイピング資料は、量が多いので当初からあきらめ、直接読みながら説明をしようと覚悟を決めた。早くからやっておけばこんな苦労はしないのだが、追い込まれなければやらないという私の悪い癖で、早起きせざるを得ない状況も自業自得ではある。
文面に登場する人物の確認や、事件の背景、人間関係などチェックしておくべきことが多い。それを今頃やっているというのだから話に成らない。

もうこんな目に合うのは御免蒙りたいと思い、来月の例会についてはF会員に一昨日お電話してお願いした。こころよくOKいただき今日の例会で報告できることが有り難い。その後の事についても、二つ三つ候補を思いつきなんとかいけそうだとほくそ笑んでいる。

もうそろそろ空が明るくなってくる。4キロ散歩ならぬ30分散歩にでかけ、シャワーですっきりしていざ出陣と相成る。
事務局を預かって前任者の御苦労をつくづく感じている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

8/18 9:26追記

昨日は史談会で二時間の大役をおえ、6・7人の方と近くのホテルでお昼をいただき談論風発、こういう仲間と過ごす時間が一番楽しい。
そのあとDr・T先生にさそわれて一番若い会員N君と三人、コーヒー店に場所を替え再び歴史談義、又一時間ばかりの時を過ごした。
帰宅するとさすがに疲れを感じる。一時間ほど昼寝をしたのだが、夕食を取り世界陸上をTV観戦、マラソンがスタートしたあと睡魔に襲われてダウン。ベットに入るとそのまま今朝六時すぎまで爆睡してしまった。まだ疲れが抜けてしまったわけではないが、達成感が心地よい。 
 

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花火の音を聞きながら・・・

2013-08-16 10:27:37 | 徒然

                                   夏のすずみは両国の 出船・入船・屋形(?)船
                            あがる(のぼる?)りゅうせい(?) ■■■■■ 玉屋がとりもつ縁かいな・・・・・・・

 

 7年数か月前のブログ(2006-04-21 00:21:50に、20歳ほど年上の亡くなった友人の事を書いた。
ある意味私の酒のお師匠さんだが、なかなかの粋人であった。上の歌は、その人が歌ったもののひとつだがこれだけは奇妙に歌詞だけ(歯欠け状態だが)を覚えている。(覚えている内には入らないか・・) 「花火を見ながらの逢瀬のうただなー」と解説を請けた記憶がある。
節(メロディー)なぞは全く覚えていないし、どういう部類の歌なのかも判らない。

昨晩も遠く花火の音が聞こえていたが、久しぶりの雨の中でしばらくすると途絶えてしまった。
ベランダに出てその行方をさがしてみたがビルの影でもあったのか判らない。すると突然この歌詞が思い出されたのである。

軍(進駐軍かもしれない)から払い下げの、毛布みたいな生地でつくったというオーダーの背広を着たその人の冬の姿を強烈に覚えているが、夏はと云えばありきたりの浴衣ながら角帯を締めた姿が粋であった。
幼くして父親と死別した私は、このひとに父親像を見ていたのかもしれない。
 


 

         

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陣橋

2013-08-16 07:59:07 | 熊本

                                                                           

                                                     陣橋

 藩政時代ご府内から北西地区(花園・島崎地区)に至るには、京町から本妙寺田畑へ下りるか、段山から島崎地区へ下りるか、高麗門から横手・島崎地区へ行くか、城内から砂薬師坂をおりて陣橋をへて杉塘へ出るかルートはいくつかに限られている。
その陣橋がどこにあったのかを疑問に思いながら、先のブログで井芹川陣橋を書いた。
是をご覧いただいた、ブログ「徒然なか話」でいろいろな熊本の情報を発信しておられる柴田様がわざわざ出かけられて、この写真をお送りいただいた。深く感謝申し上げる次第である。
かってはもう少し川幅も広かったのであろうが、旧・井芹川の跡である。現在ではまったくその流路は変わっており、直線化された近代河川となっている井芹川だが、その流路は埋め立てられることもなくこのような形の水路として往時の姿をとどめている。
かって私が住んでいた花園地区(本妙寺のおひざ元)にも蛇行する川筋の跡が残っていた。今の時期は蛍が飛び交う小さな水路が流れ込むなどしていたが、開発などによりまたたくまに自然の形を消し去ってしまった。

本妙寺に参拝されたり、小山田の腰掛に出かけられたりされるお殿様の行列も、この小さな橋を渡られたのかと思うと感慨深いものがある。
今では某自動車会社の通用口(?)として利用されているらしいが、私も一度訪ねてみようと思っている。
 

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