津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ひょっとしたら・・・

2014-08-21 07:26:04 | 史料

 渡邊玄察の「拾集物語」を読む がようやく完了した。熊本の方ならともかく、少々理解しがたい記事が多かったかもしれない。しかし熊本の資料としては一級品である。神主が職業であるから、全国区の情報もそんなルートから得られるのかもしれないが、機密ではないのかと思われるような情報もあって驚かされる。

其の最終回に面白い記事があった。ひょっとするとこれは掘り出し物の一級品の記事ではないのかと思わせる。
元禄十二年江戸の日本橋は火事で焼け落ちている。翌十三年に架け替えられた。記事にはないが此年は将軍綱吉の五十歳にあたる年であったらしく、御祝いも盛大であったようだ。記事に曰く渡り初めに薩摩の人が当たっている。父親夫婦とその子供三人と夫々の奥さん、八人がわざわざ薩摩から呼び寄せられたらしい。その年齢がすさまじいのだ。詳しくは■「拾集物語」を読む (十八) 元禄--四(了) をお読みいただきたいが、日本橋に関するいろいろなサイトを眺めても、又薩摩藩に関してもこの様な事に触れた記事を見掛けない。

記録を残すという事がいかに大切かを感じさせる記事である。肥後藩には全く関係のない話だが、関係者の皆様にとってはすごい情報だろうと思われる。
関係者の方がこの記事を読んでくれないかなーと祈っている。
 

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■「拾集物語」を読む (十八) 元禄--四(了)

2014-08-21 07:25:35 | 史料

                               一、同(元禄)十一戌寅の年
                                 此春をり/\御花畑にて御能有り 此年之三月以
                                 下古金銀通用御禁制之御ふれ有 此年三月四日に
                                 太守様豊前國小倉より御船にめさせられ御発駕九
                                 州小倉海邊被成御座候
                                 此年之三月厳島宮かやぶきしゆりいかしむねがは    (茅葺き修理活かし棟瓦置く)
                                 らおく 此年之三月迄古金銀新金銀にかへ候へと
                                 の従江戸被仰出にて家城屋熊本うる山町に下り被
                                 差替候日本國當三月迄にかへきり候事無之故明年
                                 の三月迄に不残かへ候との仰出(シ)此四月尚公義よ
                                 り寺社方迄に御觸御座候就夫先々當年迄は古金銀
                                 つかひ候 此年四月長崎大火事就夫従御國竹木な
                                 はの類大分被遣候とて御國中より持出し候 此年
                                 田畑諸作もよし 此年米高直秋初め本俵拾七八匁
                                 此年之八月江戸大火事ちそく院の御火事番 當太
                                 守様御類火無御座様に御自身様御出御類火無御座
                                 候無比之御手がらと従公方御尊諚太守様上之御屋
                                 敷御類火 此年與一郎様水戸様之聟御様に被遊御
                                 成御國中上下萬民奉恐悦候

                               一、同十二己卯の年
                                 此年居屋座敷たて候相模守へ遣候 此年三月より 
                                 古金銀すきと御禁制 此年當國北目大洪水大津町
                                 がしらのどて山水にてきれ町にそんずる同所御惣
                                 庄屋其洪水町にて水死南目は少洪水右之大水熊本
                                 古町に三尺水揚る 此の年江戸日本橋御修理御橋
                                 渡初め大隅國松本村鶴井源左衛門と申百姓仕候鶴
                                 井源左衛門年百三十四同女房年百十三惣領子蔵
                                 右衛門年九十七同女房九十三次男源右衛門九十同
                                 女房九十六同三男源四郎年八十九同女房七十七
                                 右之者共松平薩摩守殿より被成御出候 此年之六
                                 月肥前いさはへ山鹽にてこと/\く町尤侍小路破
                                 損高瀬川尻高橋宇土へ破損人船諸道具流れ來り候
                                 て代銀無田在々より相拂申候 當年江戸上方北國
                                 無米に付日頃作り候酒米半分作り候様にと従江戸
                                 被仰渡候明秋迄 當年より十年之限と申候質之者
                                 普代にても被遊御免候相對次第と被仰出候御書出
                                 奉公人之年季前より十年を限候處に向後は年季之
                                 儀限無之者普代召仕候共相對次第たるべく候間其旨
                                 可存候
                                    元禄十一年寅の十二月
                                 右之通寺方は明る卯の閏九月下旬に被仰渡 此年
                                 甲佐宮本社修建立木板葺に成る

                               一、同十三かのへ辰の年
                                 此年二月十五日阿蘇殿御病用に御上京 此年疱瘡
                                 はやる當所へ疱瘡兒七十餘人内五人死す 此年の
                                 五月十五日卅年以来之洪水南北目大水なし甲佐川
                                 計り 此年與一郎様御他界 此年柳川殿初而御入
                                 城従太守様御祝之御使者に中村甚五左衛門殿被遣
                                 候 此年柳川殿日南久へ入湯に御出従太守様御馳
                                 走人に中村甚五左衛門殿被遣候

                               一、同十四年辛巳年
                                 此年同氏だい所たて遣候 此年長崎高木氏喧嘩に
                                 ほろぶ 此年さかミ十八神殿あそにて御傳受 此
                                 年浅野内匠殿吉良上野殿御殿中にて喧嘩 浅野殿
                                 上野殿をきりたまふ併て斗おわせられ候御殿中に
                                 て法外と従公方様被仰出切腹被仰付内匠殿之御舎
                                 弟も被成御預候 此年六月十九日之夜丑之刻迄朝
                                 の九つより京都大雷大洪水
                                 一仙洞様へ二百所落候佐野治太夫と申御老死去少
                                   々當り衆有り右者御番與力御同心之由
                                 一徳大寺大納言様へ一所落
                                 一二條御城内へ八所其内しちほこ四所損す
                                 一御幸町下ル町竹屋町下ル町一所、一烏丸通二條
                                   下ル町一所、一寺町通要法寺中松木落、一押小路
                                   通境町之角に三所落、一椹町通西ノ洞院西へ入
                                   町に一所、一長番町室町西へ入待ちに一所同、一
                                   聖護院ノ森右同、一錦小路新町西へ入町右同、
                                   一龜薬師内へ右同、一西七條村一間雷火、一六
                                   角堂ノ内へ三ヶ所同、一室町三條下ル町一所、
                                   一新町四條上ル町に一所、一釜ノ座竹屋町下ル
                                   町に一所、一衣ノ棚二條上ル町右同、一白河村
                                   右同、一境町下ル町芝田屋に一所

                                                (了)
                                  

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■お安く読む 「無名の人生」文春文庫

2014-08-20 17:48:34 | 書籍・読書
無名の人生 (文春新書)
 
文藝春秋



 【1】文春新書部 編集長から <文春新書新刊情報>

───────────────────────────────────

★名著『逝きし世の面影』の著者、初めての語りおろし!
幕末・維新期に訪れた外国人の記録をもとに、江戸庶民の暮らしを見事に再現
した『逝きし世の面影』は累計13万部のロングセラーですが、著者である渡
辺京二さんは、この本を書けたのは「もともと自分自身が異邦人だから」と言
っています。
その渡辺さんは現在、熊本在住の84歳。戦前の最先端都市、大連で少年期を
過ごし、敗戦後の窮乏生活を耐え、その後の熊本への引揚げですべてを失い、
戦後を身ひとつで生きぬいてきました。
本書は、その半生をもとに語りおろされた人生論・幸福論です。
「成功」「出世」「自己実現」「有名になること」などくだらない! それら
は、むしろ不幸の原因となるのであって、本当の幸せはもっと別のところにあ
る――自身の経験に裏打ちされたその言葉には迫力があります。
しかし、有無を言わせないお説教がしたいのではありません。「好きなことだ
けやって来た私、植木等に次ぐ無責任男の私でも何とか生きて来られたと知っ
て、それなら自分も大丈夫と思って下さる方がありはしないか」と、生きづら
い人びとにエールを送りたい、というのが渡辺さんの思いなのです。
豊かな社会なのに何となく生きづらさを感じている私たち以上に、江戸の庶民
は、貧しくとも、無名であっても、どんな職業に就いていても、幸せに暮らす
術を知っていました。私たちは、知らず知らずのうちに自分で自分を追い込ん
でしまっているもの。そういう思い込みや囚われから現代人を解き放ってくれ
る本です。

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■アイス・バケツ・チャレンジ

2014-08-20 17:18:06 | 徒然

 最近TVで見かけるようになった「頭から氷水」運動、はじめは画像だけを見て「変なことをやってる・・・」と思っていたら、これが アイス・バケツ・チャレンジ とよばれる、難病 ALS(筋萎縮性側索硬化症)の認知度を高めるために行われているチャリティー活動だとしった。

                        一般社団法人 日本ALS協会

2006.2.22 私の姉はこの難病の為にこの世を去った。71歳だったから今の私よりも1歳若く死んだわけだ。
姪が見舞に訪れていろいろ話をして、「また来るね」と別れて1時間後のことであった。突然呼吸困難に陥ったらしい。
最近の医学の発達は目覚ましいものがある。元に戻らなくとも進行をストップさせるような時代が遅からずやってくると期待していたのだが・・・・間に合わなかった。しかしこの難病を知ってもらおうと、世界の有名人が氷水を被り奇声を発している姿を拝見していると、胸に迫ってくるものがある。

痛みや死への恐怖と戦っている多くの患者の皆さんの為に、一日も早い治療方法の確立を待ち望んでいる。 


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■「寛文四年六月・御侍帳」から ・ 二

2014-08-20 07:07:57 | 史料

先に■「寛文四年六月・御侍帳」からを書いたが、以前何かとりあげたような気がして調べて見たら、寛文四年六月「御侍帳」よりを書いていた。
「~から」「~より」の違いだが内容はあまり変わらない。いずれも1,000石取以上の家臣を紹介していた。
少し詳細に分析してみると・・・・・・・・・・・・



     人持衆          高合64,650石( 9人)   現米合2,700石(1人)
     大組付衆
       長岡監物組     高合44,460石(68人)                       御合力米合  180石+ 御扶持方合255人扶持(31人)
       長岡帯刀組     高合35,286石(70人)                       御合力米合3.585石+ 御扶持方合187人扶持(32人)
       有吉内膳組     高合46,572石5斗(65人)
       沢村宇右衛門組  高合35,006石(66人)                                         御合力米合  525石+御扶持方合342人扶持(63人)
       清田石見組     高合28,493石3斗(67人)
       有吉頼母組     高合32,444石5斗4升(70人)
     御小姓組(六与)    高合33,572石(115人)
     岩間小十郎組      高合 3,200石(15人)                       御切米20石御扶持方5人扶持(1人)
     志水久馬介組      高合 2,600石( 6人)                       御合力米合  852石+御扶持方合224人扶持(31人)
     御側者頭衆       高合20,050石(21人)
     御側組外衆       高合 5,800石(21人)
     御医師衆・御茶道衆  高合 4,900石(20人)   現米300石(1人)                        御扶持方合 10人扶持(人数不含)
     御使番衆         高合 7,921石4斗(20人)
     御右筆衆         高合  600石(3人)
     御台所衆         高合  300石(3人)
     奉行所ヨリ触衆     高合  750石(3人)
     御留守居衆       高合16,745石(66人)
     八代御城附衆      高合42,550石(51人)長岡佐渡30,000石を含む
     佐敷            高合 5,600石(25人)           
     御船頭衆         高合 1,280石(11人)
     御職人          高合   420石( 5人)
     御知行御合力米御扶持方被遣衆           現米 262石(4人)       御合力米合  985石+御扶持方合248人扶持(20人)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 402,985石7斗4升(800人)     現米3,262石(6人)   御合力米合 6,147石+御扶持方合1,271人扶持(177人)

 

      肥後細川藩の表高は540,000石だが、実高は750,000石だとされる。実高の約53,7%の403,000余石が知行として宛がわれていた。
      寛文四年における細川家の侍は983人である。約81%が知行取であり、知行取800人の平均禄高は503,7石である。
      ■「寛文四年六月・御侍帳」から で判るように1,000石取り以上の侍が76人居り、その合計は256、500余石に登っている。
      知行取の1割に満たない高禄者が63.6%の禄高を占めている。

      「新・熊本の歴史 近世・上」の松本寿三郎氏の論考「さむらいの世界」に「肥後細川藩における家臣団構成」として「寛文四年の侍帳」からの
      数字が紹介されている。数字に違いが出たが、これはひとえに当方の内容の解釈不足あろう。 

          

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■お安く読む 織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書) 本日発売

2014-08-19 18:39:24 | 書籍・読書

  先にもご紹介しましたが・・・・待望の著、本日発売

織田信長<天下人> の実像 (講談社現代新書)
 
            講談社



講談社BOOK倶楽部

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■先祖附 中瀬(助一郎)家

2014-08-19 10:19:50 | 先祖附

 木下藤吉郎(豊臣秀吉)が最初に仕えた、松下嘉兵衛(之綱)の二男方綱(外記)の家系である。初代中瀬助九郎は先に 中瀬助九郎の敵討ち で御紹介した。先祖附に於いては父源太左衛門の死に触れられていないが、併せてお読みいただくと良く理解できる。 

                               一、高祖父松下外記儀遠州久野城主松下石見守
                                 二男ニ而御座候 於関原御陳も兄一所ニ罷越軍功
                                 御座候由其後松平土佐守様往々御養子ニ可被成
                                 御内約ニ而一万石被下土州宿毛之城御預被置候処
                                 土佐守様御実子御出生ニ付無差■直ニ京都江
                                 引取浪人仕奥州會津ニ而病死仕候
                               一、曾祖父松下源太左衛門儀右外記子ニ而御座候奥州

                                 會津四拾万石之城主加藤式部少輔殿江被召出
                                 家老役相勤申候加藤蔵助殿代家老中座配
                                 之儀源太左衛門心ニ叶不申候付而連而咹と申京□
                                 浪人仕候源太左衛門妻ハ中瀬彦三郎娘ニ而御座候
                                 式部少輔殿御娘分ニ成源太左衛門江被下候後
                                 ■生院と申候
                               初代
                               一、中瀬助九郎儀右松下源太左衛門嫡子ニ而
                                 御座候助九郎母方之曾祖父ハ明智助九郎と

                                 申候後ニ中瀬と申候明智日向守殿孫分ニて実は
                                 甥之子ニ而御座候幼少之時分ハ
                                 秀林院様御側ニ而御養育被仰付其後
                                 妙解院様愛宕福寿院江被成御座候節御一所ニ
                                 被差置候其後豫州加藤左馬之助殿江罷在頃
                                 妙解院様御懇ニ被仰付節々以飛脚成下
                                 御書御馬等被為拝領候右助九郎儀果申候節ハ
                                 宗珠院殿江御頼申置候ハ嫡子嫡子中瀬彦三郎■ハ

                                  加藤式部殿江罷在候■子共之儀ハ
                                 妙應院様江奉頼候由申候段達
                                 尊聴右助九郎胤替之弟大崎勘十郎江
                                 御書被成下右彦三郎妹并弟中瀬左太郎
                                 両人伊豫國江御船を被遣豊前江被召寄後ニ
                                 妹は出田宮内江嫁娶被仰付左太郎ハ御知行
                                 被為拝領候右助五郎姉志賀と申者京江罷在候処
                                 妙應院様御代迄御扶持方被下置候右彦三郎

                                 妙應院様常々御懇被仰付御屋敷江も折々
                                 伺御機嫌参上仕度々拝領物等被仰付彦三郎
                                 定紋明智家之桔梗ニ而御座候ニ付桔梗象嵌之
                                 鍔被仰付御脇差ニ御懸せ被遊被為拝領候由承傳
                                 申候右助九郎儀初は松下助九郎と申候兼而
                                 奉■御家罷立候処出田宮内右彦三郎妹
                                 聟ニ而縁者故出田作左衛門を助九郎母■生院
                                 奉願候段申達坂崎清左衛門殿ゟ

                                 妙應院様被達
                                 尊聴母方之訳を以延寶元年八月十六歳ニ而
                                 被召出御知行五百石被為拝領御番方ニ被召加其節
                                 ■生院ゟも以飛脚御礼申上候名字始ハ松下ニ而
                                 御座候処中瀬ニ改可申旨被仰付改申候同五年
                                 江戸御留守居詰ニ罷越同六年十月御使番ニ被
                                 仰付貞享元年二月御鉄炮拾挺頭被仰付
                                 江戸御供御留守居詰等相勤元禄二年御弓

                                 貮拾挺頭被仰付同五年二月御鉄炮貮拾挺頭被
                                 仰付同年江戸御供被仰付智足院火之御番ニ付
                                 神田関口町江被差出相勤申候同六年九月
                                 御中小姓頭被仰せ付同八年三月阿蘇御祈祷
                                 之節御名代被仰付同九年八月江戸江被召寄
                                 増上寺火之御番ニ付三崎町江被指出相勤申候
                                 同十一年二月御用ニ付京都江罷登直ニ江戸江
                                 罷越申候同十月十二日伊豫松平左京大夫様江之

                                 御使者被仰付即日罷立相勤同十一月江戸江帰着
                                 仕候同十二年六月御小姓頭被仰付高貮百石之
                                 御役料被為拝領江戸御供両度相勤同十六年
                                 十二月高百五拾石之御役料増被下寶永元年
                                 二月江戸御供ニ罷越其年ゟ被遊
                                 御滞府候ニ付相詰申候於江戸は御供御使者
                                 御仰指ニ而度々相勤御登城之御供御仰指ニ而
                                 三十六度請候而相勤申候同二年十一月御側

                                 御用人被仰付同三年四月ゟ増上寺火之
                                 御番ニ付片門前町江被差出相勤申候同五年
                                 閏正月従
                                 妙應院様数年丁寧ニ相勤慥ニ被思召上候
                                 依之
                                 霊雲院(細川宣紀)様御部屋住ニ御附被成只今迄被下置候
                                 御役料三百五拾石本知ニ被直下外ニ百五拾石
                                 都合五百石御加増被為拝領同年七月

                                 霊雲院様初而御入國被遊候節御供ニ而罷下
                                 同六年御供ニ而江戸江罷登翌七年御供ニ而罷下
                                 申候同六年知行所玉名郡野原村ニ九反余之
                                 立山を所持仕候を差上替地畑六反於飽田郡
                                 久米村拝領仕度段奉願候処如願被為拝領
                                 其後久米村野屋敷江従
                                 霊雲院様御筆之御額御詩をも被為拝領候
                                 正徳元年二月御供ニ而江戸江罷越同二年

                                 御家督被遊直ニ御滞府ニ付相詰居申候處
                                 同年七月従
                                 妙應院様 霊雲院様御懇之御意を以
                                 御加増高貮百五拾石被為拝領御部屋住之内ハ
                                 御附之面々惣支配仕御家督以後新組支配并
                                 御音信方御用相勤江戸御供両度相勤同五年
                                 八月御■御者頭備頭被仰付同年九月大御目付役
                                 被仰付同六年七月御裏御用も被仰付享保

                                 元年八月ゟ翌二年八月迄御巡見使御用ニ付而
                                 廻在等仕候同二年御書方川游請書御用被
                                 仰付候同三年四月廿七日
                                 隆徳院様御誕生之御いわひ差上可申旨被
                                 仰付差上桜馬場御用も相勤申候同年九月
                                 年罷寄物覚無御座候付御役儀御断申上候処ニ
                                 同十月廿一日於 御前段々御懇之
                                 御意を以来年御参勤之御留守居中可相勤候

                                                         (初代に就いてまだまだ続いているが・・・・一旦中止)

                                  

                                  

                                 
                               

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■「拾集物語」を読む (十八) 元禄--三

2014-08-18 11:08:31 | 史料

                               一、同十ひのとの丑の年
                                 此の年御太守越中守綱利公様御官位被遊御昇進少
                                 将様と奉申候 去今年にかけ水越上野へ井手新に
                                 令出來候御見立志水清右衛門 此年三月廿六日大
                                 水出る大風もふく 此年御國中繪圖被成御取候
                                 此年之三月早川之井手いび四どうざきノヲいたが
                                 へいび作事有り 此の年之春糸田村宮作事川尻大
                                 工四月五日の晩遷宮安藝掾相勤候 此の年江戸増
                                 上寺法念聖人御大師成之御祝に公方様被遊御申候
                                 被遊御成候而談議被遊御聴聞以後御能被為仰付候
                                 に忝も御三番上様被成御遊候 此の年春寒三月初
                                 比ゆきふる 此の年四月初比風雨洪水 此の年之
                                 正月十八日法然聖人大師號御勅許圓光大師と奉申
                                 候
                                 御謚號 勅之御書出
                                  謚號圓光大師宸翰
                                 勅王法與佛法比等内外貴典章朝家同釋家定
                                 律都鄙仰興盛浄土開宗源空上人先究聖道教后
                                 闘浄土宗諳彌陀誓願於胸次感善導提撕於定
                                 中覩寶樹照玅境内證益明歩金蓮現霊光
                                 密因忽露即是肉身如来何疑勢至權迹三朝帝師徳
                                 重于當時四海良導行應于末代皇化廣布率土
                                 法要永傳普天徳謚號圓光大師
                                   元禄十年正月十八日
                                   勅使伏原少納言
                                 三朝之帝
                                 高倉院 後鳥羽院 後白河院の御事也

                                 此年三月廿六日江戸於御城に御能組
                                 
                                 老松 權右衛門 彌右衛門 喜右衛門 又右衛門 又六                                 
                                           本多伯耆守殿
                                 八島 新之丞 平三郎 六蔵 忠次郎
                                 
                                 羽衣 源七 一郎兵衛 新九郎 三郎左衛門 宗全
                                 
                                 是界 彦太郎 三助 小左衛門 惣右衛門 次兵衛
                                 松平飛騨守殿
                                 小鍛治 權左衛門 彌三郎 清五郎 三郎次郎 庄兵衛
                                   かくれがさ 彌太郎
                                   今参     長太夫

                                 此年之夏はいおらす併六月土用に入少々見え候
                                 此年蝉せい/\となくことなし土用に入つくしよ
                                 しとはふなく 此年之五月廿九日六月朔日二日に
                                 かけ大水出此前に書置候七八九十年以来にまれ
                                 の大水と書付置候に大かた及洪水候 此年妙見だ
                                 にいりくちに三頭のくちなは見え候乍去ほそきへ
                                 びにて候 此年之六月金銀之儀従天下様御ふれ則
                                 御書出如此にて御座候
                                 金銀吹直に付古金銀は新金銀と彌引替可申候
                                 御料は御代官私領は地頭より申付至遠國迄古金銀       元禄二朱金    
                                 不残様に引かへさせ可申候古金銀之儀寅三月迄は
                                 只今之通新金銀と一様に用之其以後は古金銀通用
                                 相止之新金銀斗可用之間可存其旨候若滞儀有之候
                                 はゞ金銀吹直之場所迄可申出候以上
                                    廿四月日
                                 右之御書出同六月八日にか従御郡奉行被差廻候を
                                 寫置候御老中より被成御出候は安藤筑後守様如此
                                 に被仰出候との御書出にて被成御廻候 此年八月
                                 四日に従御郡奉行書付被差廻候寫
                                 
                                 一筆申觸候新金之儀に付去る二日に大目附仙石伯
                                 耆守様御宅へ御留守居衆被召寄御渡被成候御書付
                                 寫之別紙相渡候此趣御國中末々迄堅可申付旨御意
                                 に候間可奉得其意候此段組頭衆は組中へも可被相
                                 達候恐々謹言
                                    七月十八日    御國御家老衆御連判
                                 右之通寺社中も可被奉得其意候以上
                                    八月日       御國御郡奉行
                                        寺社面々
                                  右被成御書渡候江戸より被為差下候御書出寫
                                 今度新金にて貮朱判出來世間に相渡候通用自由之
                                 為に候間々所々迄其旨を存賣買請取方渡方無滞
                                 貮朱判を用可申候貮朱判は壹歩半分之積たるべき
                                 事
                                 一、大判小判壹歩判勿論有來通通用可仕事
                                 一、前々相觸候通に似せ金銀仕者有之は訴人に出へし
                                  縦同類たりといふ共其科ゆるし急度御褒美被下あ
                                  たをなさゝるやうに可申付候惣而金銀之細工仕候
                                  には其所にて心を付少もうたがはしき儀を見およ
                                  ひ聞およひ候はゞ早速可申出隠し置外よりあらは
                                  るゝにおいては本人は不及申諸親類其所之者迄可
                                  為曲事者也
                                     六月日

                                 此年六月より七月初比迄日照 此年七八月田にさ
                                 ねもり虫いり御國中損毛 此年折々御花畑にて御
                                 能有り 此年之冬阿蘇まと石に御茶屋たつ 此年
                                 同所に天満宮御造営御遷宮にたかまい來る 此年
                                 米本俵壹俵銀貮拾目 此年より酒屋に運上銀石辻
                                 より被仰付候就夫酒當暮より高直になる 此年之
                                 十月従江戸被仰觸趣
                                 一寺社屋敷に鳶鳥の巣をかけ候はゝ早々取掃ひ常
                                  々も無油断念を入巣をかけさせ候様に可仕事
                                 一江戸廻り御鳥見支配之地に有之候鳶鳥の巣は其
                                  儘かけさせ其置所々百姓より御鳥見へ早々致注
                                  進御鳥見より山本藤右衛門佐野十左衛門方へ巣
                                  有之分ケを可申越候尤巣かけ初より御鳥見へ百
                                  姓方より注進可仕事
                                     以上
                                    十月七日
                                 一捨子之事従前々御觸有之候へ共令以粗捨子致候
                                  様に相聞え候向後彌捨子不仕候様堅可被申渡候
                                  事
                                 一跡々より相ふれ候へ共度々捨犬有之不届に候下
                                  屋敷又は野屋敷其外末々に至迄捨犬堅不仕念を
                                  入候様に可被申渡候事附捨子犬之儀養ひ育難成
                                  に付捨候者も可有之候哉左様之分ケにて有之候
                                  はゞ其支配/\に申出べし育難成におひては其
                                  むき/\より養育可申付事
                                 一生類哀之儀兼て被仰出候彌以末々に至迄念を入
                                  麁末に無之様に可被申渡候事
                                     以上
                                    十月七日 

                                  
                                  

                                  

                                 

                                  

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■先祖附 木下(嘉納)家

2014-08-17 07:29:06 | 先祖附

 秀吉の正室・高台院(ねね)の実兄・杉原(木下)家定の三男・日出藩主木下右衛門太夫延俊の子・三郎左衛門を祖とする肥後木下家の先祖附である。
延俊は細川幽齋女・加賀を正室としており、木下家・細川家の交流は時代が下っても大変密なものがあった。
又この先祖附から肥後木下家は、嫡家・足守藩木下家や、日出の交代寄合・木下家(豊臣秀頼の子・国松ではないかとされる木下延由を祖とする)との養子縁組が行われて居ることが判明した。
いささか詳細に欠ける事が残念である。

 

                                           貮千七百石  木下嘉納
                               初代
                               一、先祖木下三郎左衛門隠居以後陰入と申候
                                 幼名孫一郎十三之年
                                 妙解院様 御参勤之節豊後深江ニ被
                                 遊御船繋候付父木下右衛門太夫御船中江
                                 御見舞ニ罷越候 陰入をも召連初而
                                 御目見仕候其節
                                 妙解院様右衛門太夫ニ被成 御意候は子共も

                                 多く有之候得は孫一郎儀は熊本江進上
                                 仕候様ニ如何共可被 仰付由達而被為
                                 仰聞陰入江も種々有難
                                 御意御座候其節御側ニ津川四郎右衛門罷在
                                 御挨拶申上候由其後右衛門太夫病中ニ御直ニ
                                 真源院様中川内膳正様 御両所様江
                                 公儀江跡目願之儀御頼申置果候付
                                 御両所様被遊 御取持同名伊賀守同縫殿助

                                 家督被 仰付候其刻後
                                 真源院様曽我又左衛門様并津川四郎右衛門を以
                                 縫殿助陰入両人江被 仰下候其陰入儀
                                 妙解院様御約束之首尾有之候間熊本江
                                 参上仕様ニと被
                                 仰下候付辱仕合奉存旨御請申上崎迄
                                 伺公仕候処其節大坂御町奉行曽我丹波守様
                                 より

                                 真源院様江被仰入候 其陰入儀内々能存知
                                 其上
                                 妙解院様御約束之訳をも御存知被成候 御隣国ニ
                                 兄弟も居申事ニ有之候間御老中様方江御伺之
                                 上ニ而御城下ニ被 召寄可然候 幸来春江戸江
                                 御参勤被成事候間於江戸御老中様方御窺
                                 可被成候条夫迄は崎江被 召置可然
                                 思召候由被仰遣候有之後ニ候条先其元江罷在

                                 候■様ニと態山本三左衛門を以崎迄被下
                                 御懇之趣申聞候付同所高田村ニ三ヶ年
                                 御留仕罷在候處江戸御伺之儀首尾能埒
                                 明申候間熊本江参上可仕旨被 仰下宮部
                                 久八を被下刻久八為案内彼地罷立申候
                                 道中為御賄旁歩之御小姓両人被差添候
                                 正徳元年九月御當地江着仕千葉城ニ被
                                 召置候 同二年八月御知行貮千石被為拝領候

                                 承應元年三月御番頭被 仰付候 延寶
                                 元年十二月御番頭被成 御免人持ニ被
                                 仰付候 其後天草詰江戸詰御使者等相勤
                                 申候 同四年正月御備頭被 仰付御加増
                                 千石被為拝領候 右御役儀十四年相勤元禄
                                 二年七月願之通隠居被 仰付候
                               二代
                               一、高祖父木下平馬江家督無相違被為
                                 拝領坂崎清左衛門組ニ被 召加候 平馬部屋住
                                 
                                 之節為見習御次江相詰可申旨被仰付
                                 数年相詰罷在候内熊本廻り其外水前寺
                                 又は御鷹野御供等相勤申候 右之内江戸
                                 御供被 仰付五百石之御擬作被為拝領御供仕
                                 罷越於江戸御供御使者御次詰等相勤申候
                                 家督被為拝領候已後三郎左衛門と改申候 延寶
                                 四年九月於阿蘇御祈祷之節
                                 御名代被 仰付相勤申候 同月年頭之

                                 御使者被 仰付同十一月此元被差立十二月
                                 江府江着仕歳暮年頭之御使者相勤
                                 翌二月罷下申候 同六年九月御備頭被
                                 仰付右御役十九年相勤正徳元年四月
                                 病死仕候
                               三代     實平山才蔵弟平山伊学
                               一、曾祖父木下伊学江跡目之御知行無相違
                                 被為拝領有吉清助組ニ被 召加候其已後
                                 三郎左衛門と名改申候
                                                                                    (以下略)

                               四代   木下縫殿助弟木下伊織三郎右衛門聟為養子     
                               一、祖父木下伊織 (以下略)
                                

随分以前細川藩士・平山家のことを もしかしたら で書いたが、足守藩木下家の分家筋の藤栄(内記)の子が才蔵で、肥後木下家三代目伊学がその才蔵の弟であることがこの先祖附で判明した。
平山家は細川家ではあまり遇されておらず知行高は百五十石であるが、幽齋女・加賀の血を引いている。初代が伊学の甥にあたる故を以て召出されたものと思われる。

四代目伊織は婿養子であるが、木下縫殿助の弟だとある。縫殿助とは交代寄合(5,000石)木下家初代の木下延由(延次)の事もさすが、ここでいう縫殿助は延由の曾孫・四代栄俊であり、伊織はその弟・俊允のことである。と表記してあるのはいかなる故を以てであろうか?

 


                                  

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■西南戦争歴史講座

2014-08-16 10:43:14 | 講演会
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■清田七助甲冑の図

2014-08-16 07:15:54 | 史料

 先に清田七助の珍しい甲冑を御紹介した。その後甲冑研究家の方から次のようなコメントをいただいた。

『御甲冑等之図』 (陀摩也)2014-06-05 01:31:56初めまして、日本甲冑を研究している者です。
清田七助の具足のデザインは実に珍しいもので、私もこの具足の絵図を見たときには目玉が飛び出そうになりました。
すでにご存知でしたら申し訳ありませんが、吉川弘文館より今年3月に発行された『永青文庫叢書 細川家文書 故実・武芸編』に収録された『御甲冑等之図』にて、この具足図をカラーで見ることができます。
なお、『御甲冑等之図』は文政年間に熊本藩で編纂された絵図帳で、忠興・忠利らが家臣に下賜した甲冑類や、頼有・忠興や忠利~治年の甲冑武具を精密に描写したものです。以上、参考までによろしくお願いします。

有難いご連絡をいただき只々感謝申し上げる。これがその甲冑である。なんともすごいデザインではないか・・・・・

         

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■「寛文四年六月・御侍帳」から

2014-08-15 11:15:54 | 先祖附

                               一、三万石                  細川丹後守     (宇土支藩二代行孝)

                          家老  一、三万石     八代御城附衆   長岡佐渡      (松井家五代直之)
                          家老  一、壱万八千五百石   組頭     有吉内膳      (有吉家七代貞之)
                               一、弐万五千石               細川将監      (刑部家二代興之)三代興知は新知10,000石
                          家老  一、壱万石         組頭     長岡監物      (米田家四代是長)養子・是庸代5,000石加増
                          家老  一、壱万石         組頭     沢村宇右衛門   (沢村家二代友好)のち11,300石
                               一、六千石                  志水伯耆
                               一、六千石                  小笠原民部少
                               一、五千石                  沼田小兵衛
                               一、四千百五十石 御留守居衆組頭 田中左兵衛
                               一、四千石                  南条左近
                               一、四千石                  山名弥三右衛門
                               一、三千九百石               平野茂左衛門
                               一、三千六十六石余            坂崎清右衛門
                               一、三千四百三拾五石八斗余     大木織部
                               一、現米三千三百石   組頭     長岡帯刀
                               一、三千三拾五石     組頭     清田石見
                               一、三千八石                奥田権左衛門
                               一、三千石                  氏家志摩
                               一、三千石         御番頭    尾崎金左衛門
                               一、弐千八百廿二石余 御小姓頭   朝山次郎左衛門
                               一、弐千石         御番頭    木下三郎左衛門      後・二千五百石
                               一、弐千石                  浅山清右衛門
                               一、弐千石                  藪 小吉
                               一、弐千石       佐敷御番頭   藪 図書助 
                               一、現米弐千七百石余          細川左京                   (細川光尚弟・尚房)
                               一、千五百石                谷 嶋之丞
                               一、千五百石                米田新十郎
                               一、千五百石       三十挺頭   出田作左衛門
                               一、千五百石       御番頭    三宅百助
                               一、千五百石                 寺尾孫四郎
                               一、千五百石                 有吉清助
                               一、千五百石                立石市兵衛
                               一、千五百石                岩越惣右衛門                               
                               一、千三百五十六石            横山五郎太夫
                               一、千三百石       御番頭     松野亀右衛門
                               一、千弐百七十九石六斗 御番頭   西山八郎兵衛     (足利将軍家末裔)
                               一、千弐百石                齊藤勘介
                               一、千百五十石     五十挺頭    益田弥市右衛門
                               一、千百石                  竹内吉十郎
                               一、千百石                  須佐美源左衛門
                               一、千百石                  長岡主水
                               一、千石          歩使番頭   和田主膳     
                               一、千石                    長岡与八郎      (細川内善家二代)
                               一、千石                    長岡半左衛門     (細川内善家三代)
                               一、千石                    柏原新右衛門
                               一、千石                   尾池傳右衛門     (足利将軍家末裔)
                               一、千石                   有吉市郎兵衛
                               一、千石          御物奉行   中村伊織        (武家能楽者)
                               一、千石          御番頭     松野八郎右衛門
                               一、千石          廿挺頭     小坂新八
                               一、千石       御弓廿張頭     志方半右衛門
                               一、千石                   下津縫殿助
                               一、千石                   丹羽亀之丞 
                               一、千石          三十挺頭   中根平兵衛
                               一、千石       御弓廿張頭    沢村八郎右衛門
                               一、千石          御番頭    津田次左衛門
                               一、千石                   国友半右衛門
                               一、千石                   奥村安大夫
                               一、千石                   住江求馬 
                               一、千石          御番頭    牧 四郎右衛門 
                               一、千石                   楯岡市之進       (最上氏)
                               一、千石                   佐久間七兵衛
                               一、千石          三十挺頭   長谷川久兵衛
                               一、千石          廿挺頭     嶋 又右衛門 
                               一、千石                   竹内吉兵衛
                               一、千石          御小姓頭   寺本八左衛門
                               一、千石(ママ)石     御小姓頭   田辺平介
                               一、千石          御小姓頭   平野九郎右衛門
                               一、千石          御小姓頭   松山権兵衛
                               一、千石          組頭      志水久馬介
                               一、千石       御側筒十五挺頭 山本三郎右衛門
                               一、千石          御長柄頭   春木主税
                               一、千石          御側組外   志水久馬介
                               一、千石                   松下市進
                               一、千石                   中路内蔵助
                                

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■松寿庵先生 第111講

2014-08-15 07:10:33 | 史料

                             過去に「番太日記」を以下のようにご紹介しました。

                               新町・古町贈答の哥

                               熊本のお酒

                               季節はずれですが・・・・「たつ」のこと

                               番太日記から「ほんおとりの事」

                               本結之事

                               熊本の大凧あげ

                               初市

                               鬢付油の商売のこと

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■難問三件の内 (3)解明

2014-08-14 08:58:15 | 歴史

■難問三件 の内(3)について一部解明

万延元年の細川韶邦公の肥後初入部の時の行列の殿を勤めていた家老は、小笠原備前長供であることが判明した。その証拠は「三階菱紋」と「肥後老中(家老)一覧」の記述による。小笠原長供は万延元年を挟む、安政四年二月一日に家老に就任、明治元年八月四日まで勤めている。

二人の奉行に付いてこの時期奉行を勤めているのは、荒木甚四郎・津川数馬・藤本志津馬の三人なのだが家紋が一致せずに未だ判明には至らないでいる。

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■「拾集物語」を読む (十八) 元禄--ニ

2014-08-14 08:13:47 | 史料

                               一、同六みつのと酉の年
                                 此年之三月廿二日に阿蘇殿へ参上申候處に明る廿
                                 三日より小國黒川の湯御入湯被成候とて御夫婦被
                                 遊御出候に被召連御供仕候て罷越三廻り二十一(?)日
                                 入湯仕候彼黒川の湯は湯坪よりもちごくと申候ゆ
                                 の川有之候其湯の川の湯薬にて候ゆながれ候故い
                                 わいしにあたりやわらかに湯がなり候に付薬にて
                                 候偖又湯川にてうち流し申候故にあたまから足迄
                                 ずいをあらひとをす道理にて候もし/\黒川の湯
                                 に行候人など有之候時のために申遣候 此年四月
                                 折々夕立いたし候 此年四月十五日より日でり故
                                 雨乞おどり御惣庄屋そこ爰村々一つにもあい雨乞
                                 大踊あり 此年六月廿五日夜にかけ大風大木ふき
                                 たをす前々岩わり風と申たる八月五日の風程有之
                                 候其岩わり風ふき候より此かた當年迄四十一年に
                                 なる 此年ひゑだ山王社地の杉こと/\く吹こぐ
                                  此年熊本御城下御侍衆講之取遣六つヶ敷也 此
                                 年太守様御鷹こと/\く御ゆるし被成候 此年迄
                                 法楽醫仕候 此年之十一月三日に阿蘇大宮司友隆
                                 公七越瀧被遊御見物とて被遊御出私宅へ今日御
                                 出翌日被遊御見物両夜被遊御宿候御詠歌御直筆に
                                 被遊候て當厳島宮へ被遊御奉納候 此年中村嘉内
                                 殿めしいだされ候

                               一、同七きのへいぬの年
                                 此の年より明る亥の年迄熊本古町往生院公方様之
                                 御位牌所御修建 此の年に熊本阿彌陀寺に遊行上
                                 人御來宿従公義御まかなひ御先例之通に 此年大
                                 和國奈良の東大寺御建立之御奉加に諸國一同に御
                                 出家被成御廻國候御當國へも御出被在候従公儀御
                                 奉加に白銀五十貫目被進候 此年横田村正宗寺堂
                                 建立 此年の八月彦の進來家 此年金海山釋加院
                                 禪瑞出生元住山主となる御門守にて首尾相濟申
                                 候

                               一、同八きのとの亥の年
                                 此年去の十一月より今五月迄日まぜに雨ふる 此
                                 年舟津川原有安村の内新田になるせき所井手初て
                                 令出來候先年御役人衆見立にて岩ばらにいで出來
                                 候へ共水かゝり不申候
                                 公義之御入銀捨り井出にならず勿論田にならず候
                                 を此年當分被仰付置候御普請奉行志水清右衛門今
                                 之井手并今のせき所御見立候て御せき御ほり候へ
                                 はせき所上々のせき所になりいでも上々の井手
                                 になる水神へ御酒を供し井手如意満足成就念願之
                                 御祈祷同氏安藝掾にと御座候て志水清右衛門御懇
                                 庄屋甲佐作之丞両人より御連状被差越候故同氏大
                                 町せき所本に罷出候て御せき所御いでまつり令執
                                 行候ゆく/\此せき所いでになり田になり候様に
                                 との祓を勤申候 此年ほうそうはやる 此年之四
                                 月大地震 此年従公義御銀被成御拝領阿蘇神主殿
                                 被遊御上京候 此年大小豆以の外悪し 此年之夏
                                 彌犬悪く仕間敷旨従江戸被仰出候とて御郡奉行衆
                                 より被仰渡候 此年之春與市郎様被遊御目見候三
                                 月四月中御當國御老中御祝之御能はやし被成候
                                 此年彦之進祠官致候而相模守に成申候

                               一、同九ひのへ子の年
                                 此年いで祈祷御せき所の祓同氏仕候事志水清右衛
                                 門公義へ被申上候へは同氏へ従公義鳥目壹貫被為
                                 拝領候 此の年四どうざきより大川に小川を御ほ
                                 し落し四どうざきよりすり迄の水川水田に成る
                                 此年春糸田村のいで四どうざきより御ほり被成候
                                 故そこいびになる右いづれも志水氏見立 此の年
                                 江戸中野村に犬御かひ所出来此いりわり四巻目の
                                 おくに書付置候 此の年古今銀すたり新銀御ふか
                                 させられ候御領へ右同断 此年大坂中川こく印の
                                 事同断 此年酒御法度之段候も同断右四巻目に書
                                 出候 此年明るより金銀新銀にかへ候へとの御觸
                                 有り 此年五家へ天草御代官御出被成候頓而天草
                                 へ御歸りにて御座候 此年當太守様江戸増上寺御
                                 火事番に従公方様被仰出候て被遊御勤候 此年法
                                 然聖人圓光大師と被遊御勅許候
                                  

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