津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■初出「肥後旧藩士禄名籍」

2017-10-05 09:48:42 | 史料

 昨日お届けいただいた高田家史料の中にあった「肥後旧藩士禄名籍」である。
保存状態が良好でなく、破れがあちこちに見受けられる。その紙片を元のページに戻してどうやら一応の体裁を整えたが、まだ行方が定まらない断片が数片ある。
新出史料かと期待したが、これは青潮社が刊行した「肥後細川家分限帳」(「肥後細川家分限帳」という名称は、青潮社が刊行にあたり独自に名付けたとされる。)と元を一にするものらしい。
この本の凡例によると「本書は中島典雄氏所蔵の旧藩・御家中知行附(明治十二年二月十八日中島亀友氏写)を底本にして翻刻しました」とある。
高田家の「肥後旧藩士禄名籍」は「明治十三年二月謹写」とあるから、底本は同じものであろう。
しかし高田家蔵のこの「肥後旧藩士禄名籍」には「肥後細川家分限帳」では見られない家臣の名前が見受けられる。中島亀友氏写本またはその原本に書き加えがなされ、それを写したものか?。そういう意味では肥後藩最後の「侍帳」ということができるかもしれない。
当サイトの「新・細川藩侍帳」にもこの初出史料を是非とも反映させたいと考えている。

破れた紙片や断片を元のように復元したいとも思うが、どのような手法が一番良いのか専門家のお知恵をお借りしなければならない。

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■御恵贈御礼「西南の役関係文献目録」

2017-10-05 07:24:10 | 書籍・読書

 副題に「西南の役140年、調査・研究の歩みとその成果」とある。
山江村の教育委員会にお勤めの菖蒲和弘様から14年間にわたり研究され、改訂を重ねられ86版となった最新の御著をお贈りいただいた。
何度かメールのやり取りをした程度のお付き合いだが、御心にとめていただきこのようにご恵贈給わったことに深く御礼申し上げる。
105頁に及ぶ内容であるが、80項目に分けて膨大な文献が仕分けされ紹介されている。
「さいごに」としてご家族に感謝の言葉を書かれているが、14年間一人でこれだけの成果を上げられたことはまさにご家族のご協力と、ご本人の強い意志がなければ成り立ちえないものである。
今年は西南の役が勃発して140年、来年はNHK大河ドラマ「西郷どん」が放映される。資料探しのためにこの著が利用されたともお聞きする。
「西南の役」に関する文献で、「これはご存じなかろう」と思われるような情報があれば、ご連絡を給わりたい。

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■図書館行

2017-10-04 18:25:23 | 徒然

 奥方の入院騒動もあって図書館行もストップしていたが、用事がニ三あって久しぶりに出かける。
T家の先祖調べをお手伝いしてきたがお手元にある資料を、熊本在住の従兄さんの所へ送られ、その方が態々当方へお届けいただくというので図書館でお目にかかった。
10点の及ぶいろいろな史料は厚みが10センチほどもある。

いろいろお話を伺いながら一時間ほど歓談、御先祖様に対するお気持ちが深く伝わってくる。
二ヶ月ほどお預けいただけるとの事だが、到底読了することは難しい。写真撮影をしようと思う。

又、こちらもご先祖様の事をお調べのJ家の関係資料をコピーする。

今一件は、貴重な古文書で特別に閲覧の申し込みが必要だとの事で、まずは申し込みをして一週間ほどのちに来館することでお願いする。
写真撮影をしたい旨お願いすると、他の係りの方からデータがデジタル登録されているらしくDVDに複写が可能だとの事、いつでも可能だということで近々の来館する旨をつげて一件落着。

我が家の史料があるH家文書をデジカメ撮影しようと思ったが、まずはT家の預かり史料を早々に持ち帰るべく本も借らず帰宅する。
有意義な久しぶりの図書館浴・・・

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■ヤフオク「米田家関係落札リスト」

2017-10-04 07:24:24 | 史料

  某古物店から「米田家文書」が200点ほどが数か月にわたってヤフオクに出品された。郷土の資料が流出するのは何とも痛ましく、オークションに応札して以下の品を落札した。箱に放り込んでいたのだが、リストを作っておこうとまとめてみたら、37点に及んでいた。故にいまだ慢性金欠病状態が続いている。

■米田家御屋敷図 605×475 一点、372×282に132×62貼付け   ニ点            

■指物(図)          -沢村宮門            一点
■甲立物幕之紋定紋附      -沢村宮門    弘化三年十二月 一点
■指物附            -鎌田軍助    天明六年閏十月 一点
■甲立物幕之紋定紋附      ー續 繁弥    天保二年十月  一点
■指物附            -續 繁弥      同上    一点      
■甲立物幕之紋附        -牧 佐学    天明四年閏正月 一点
■分明印            -長谷川新右衛門 安永六年四月  一点
■甲立物幕之紋定紋附      -藤崎喜八郎   文政七年八月  一点
■兜立物指物幕紋定紋差出    -宇野忠左衛門  安永二年正月  一点
■甲向立物幕之紋圖       -稲津角之允   文久元年八月  一点
■差出             -竹原権助    寛政十年十一月 一点  

■覚(切支丹宗門改に関するもの)-津田平助    嘉永四年亥三月 一点
■覚    同上        -宮村益太    文化丁夘年五月 一点
■切支丹就御改仕上起請文前書  -松野又右衛門(宗岳寺裏書)文久四年四月 一点

■米田是福自筆書状        (宝暦六年比之御筆と奉考之)  一点 (妙應院様御直書之内御国之歴々・・・)
■米田是長自筆書状       宛名・左近殿           一点
■監物縁組之節願之儀・・・                    一点
■御自筆写 両方ゟ願として罷越候節御用番様御手数之続       一点
■有吉立行・興道・英貴・英安・貞之に関する手控え?        一点

■寛永年中御鷹場御拝領以来之趣下志らへ    冊子        一点
■覚 (寛永十七年・三家に鷹場お分け・・・) 控         一点
■職五郎様江御祝儀                        一点

■朽木定彦順養子に関わる書状  ー朽木内匠            一点
■     同上        -長岡監物            一点
■     同上        - 定彦             一点
■     同上        -署名無し・定彦か        一点

■天明四年・御供立被減候覚          冊子        一点

■地獄極楽御倹約仰出事                      一点

■覚                        天保十一年  一点  (監物家来中井・・・)
■覚 長岡監物宛楯岡源左衛門            天明七年八月 一点  (薮田斉の御奉公について)
■「二丸江御一門衆御家老衆表玄関ゟ 云々」            一点
■書状 長岡左近様あて 細川左京(尚房)             一点
■口上書            ー山田淳助     寛文九年十月 一点  (志水才助儀立田之内山口・・・)
■御改正以来大御目附衆人数                    一点
■御達  御右筆所之儀                      一点

■湯治心得            明治五年二月  熊本縣医學校  一点

 

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■御恵贈御礼「西家・村松家・高道家のファミリーヒストリー」

2017-10-03 15:19:24 | 書籍・読書

 御先祖探しの御手伝いをして、この様な立派な「ファミリーヒストリー」を作り上げられお送りいただいた。
これは何にも代えがたい望外の幸せである。沢山のデータやカラー写真などを交えた63頁にも及ぶものである。
村松家は高瀬藩士(細川新田藩)のご子孫である。西家からご養子に入られるなど両家の姻戚関係は濃密である。
新田藩七代藩主利国のご生母も村松家の御出である。
関係するお宅に、この立派な御著が受け継がれ、末永く御先祖様に思いを致されることをうれしく思う。 

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■細川齊護夫人「顕光院・益姫」展

2017-10-02 18:05:51 | 展覧会

顕光院・益姫~江津湖を愛した奥方1

 

顕光院・益姫~江津湖を愛した奥方2

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■NHKスペシャル「人体」第1集・腎臓

2017-10-02 08:44:51 | 徒然

 NHKスペシャル「人体」については大変興味を持っていた。
その第1集が腎臓、奥方が「腎盂腎炎」で17日の入院生活を余儀なくさたこともあって、この放送を見入ってしまった。
検査の結果は良好で退院したのだが、疲れが抜けないらしい。なぜだろうと本人も首をかしげているが日にちを要するのだろう。
「肝腎(心)かなめ」という言葉があるが、古くから肝臓・腎臓の大切さが認識されていたのだろう。
大いに勉強になり、奥方ともども認識を新たにした。

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■神棚から

2017-10-01 11:19:04 | 徒然

 我が家に同居していた母方の祖母が亡くなって47年になる。
昭和19年に私の父や祖父母が亡くなって東京から帰熊して以来、25・6年起居を共にした。
そんな我が家には「神棚」が祀られていたのだが、同居していた祖母が亡くなって後しばらくして「神棚」が突然消えた。
気づいた私が母に尋ねると、「あれは我が家の神棚ではない、お祖母ちゃんのものだ」という。
定かな記憶がないがどうも「神明造」であったような気がする。いわゆる「お伊勢さん」形式である。
神棚は燃やした気配もないし実家の伯父の許に送ったのかもしれない。母も死んで確かめようもない。
以来我が家には神棚はない。

最近川添登の著作を読んでいることを先に書いた。
またそのことを知った友人が、「熊本地震の後、いささか左がかった友達が奥さんに引っ張られて伊勢神宮に参拝したらしい。帰ってきたらえらい感激していて左から中道に宗旨替えをするんじゃないかと思うくらいだ」とびっくりして電話をしてきた。
かってどこかでそんな話を聞いたなと思うが思い出せない。あの伊勢神宮の荘厳さは人を変える。

その友人、川添登氏の光文社・カッパブックの「民と神の住まい(昭和35年初版)」を購入したらしい。
そして、「心の御柱は地中に埋まっていると書いてあるぞ。これは間違いだろう・・・」という。
そこで、「よくぞ気が付いたな」と褒めてやった。そして「講談社学術文庫(S54第一刷)」の同書では修正されていることを教えた。
川添氏の名誉のために付け加えると昭和35年当時は、まさに心の御柱は地中に埋められているものとされていた。
神宮はともかく20年ごとの式年遷宮の関係者なども口が堅く、その真実の程は一切知られていなかった。
光文社版において川添氏は、「林野全孝氏の説にしたがって、伊勢神宮内宮の心の御柱は、地中に埋もれているとあったのを、その後、地上一メートル余の高さで立っていることがのでそのように書きかえた」としている。
現在ではその説をもって広く知られている。

 

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