津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■度支彙凾(12)

2017-10-19 08:29:40 | 熊本地震

 五四
 今度稠敷御倹約被仰付候付ては、萬端御省略を以聊之事たり共成丈ヶ御出方減候儀肝要之事ニ付、所々御役間御
 用紙仕方之儀も猶又手を詰、其心得無之候ては難相済、此節一統減方をも可被仰付哉之處、根元下地被減置候上
 之事ニ付、左様ては彌増難澁可相成哉ニ付及僉義、是迄記録前引越渡ニ相成居候分ハ、渡切之儘ニ乄悉皆捨りニ
 被仰付候、左候て以來は政府を初所々御役間共、切延紙品下被仰付候ニ付、左之通
 一切延紙壹束 内五帖薄墨紙六帖ト五枚被渡下候
 一小紙壹束 内三帖三合場形紙三帖三合被渡下候
 右之當りを以品下ニ相成候、彌以勘辨を用仕方相成候様、扨亦引越渡分は別段を以被捨下候事ニ付、以後引越
 等之儀ハ難叶候得共、前文之通下地減居候ニ付、薄墨紙之員數相増位ニては仕合せ猶及不足候御役間も可有之  
 哉、然共稠敷御倹約之折節ニ付、既ニ江戸表は御次向を初紙品下ニ相成候段も申來候、此御地之儀は右之通被仰
 付候間、随分省略有之儀は申迄も無之候得共、夫込御用差支候様有之候ては勿論難相済、是非左様之御役間も有
 之候ハヽ、其子細追て委敷被相達候ハヽ、猶僉義之筋も可有之哉、且右之通紙品下付ては、御奉行所諸達重キ御
 用筋は今迄之通切延巻を用、其外諸達筋は一切薄墨紙相用イ、諸帳面之儀も成丈ヶ不苦分ハ追々場形紙仕直候様
 及達候、仍て所々御役間も右ニ准、薄墨紙重々仕方有之候様及達候條、左様御心得可有其御達候、以上
   寅四月十四日               御勘定方御奉行中

 五五
 文化四年卯八月御達
 御勝手向之儀、何レも承知之通近十年非常之御物入打續、其上米直段は下直ニて金直段は高直ニ有之、御先々
 代様御時分被定置候御積帳よりは甚以御勘定悪ク、彼是御借物高莫大ニ相増候間、稠敷御倹約をも追々被仰付候
 得共御立行出來兼、左候得は致方も無之、御借物一件ニ格別御仕法付不申候ては所詮難相済相見候得共、大坂表
 御蔵元之取計居たし候長田作兵衛と申者初御用達共連年御才覺筋致出精、其上町家は貨殖を以産業相續之者候
 處、其産ニ障候所も心痛至極之事有之、且又御借物ニ手を入候時ハ銀談之口塞、差寄之御手支ニ相成、殊ニ臨時
 之御物入有之節御危、彼是を以是迄種々様々と致御押移ニ相成候處、又ハ去春之御類焼跡御作事諸事質素ニ被仰
 付候得共、何分大造之事ニ候得は餘計之御物入有之、是又御借物相成最早差詰候段ニ相成、しかし前文ニ申達候
 通、御借物ニ御手を被入候得ハ他ニ迷惑を懸候所不容易事ニ付、御難澁之有姿委クしらへ誠實を以長田作兵衛へ
 打懸、了簡を乞候ハヽ、數代御懇意之者と申、當作兵衛儀大禄も被下置各別厚被仰付候儀ニ付、此御艱難を致
 得心候ハヽ何とそ工面を付ヶ、此方様も可有之と重疊及頼談候處、作兵衛及手代用助と申者指寄御當前之御定用、
 幷熟議ニ相成居候江戸御作事御入目も難及力段申立、増て往々之御立行ニ至候ては當惑至極之筋のみ申募、御領
 内士民之御撫育も出來不申、第一は遠からす御公務も不為出來場ニ相成可申相見、不得止作兵衛ヘハ御借物元
 利共御手當出來迄御拂入被及御断、御蔵元之儀取計來候得共以來夫ニ不及段申達、手代要助儀は御屋敷御出入被
 指留、被下置候御扶持方被召上、被為拝領置き候御紋附之御品々着用難叶段申渡候、其餘之御用達共ハ作兵衛とハ
 譯違候得共、是又五ヶ年之間御借物元利御拂入御断ニ相成候、尤御當家え之忠志不相變輩は子孫迄も御疎意有之
 間敷旨及達候、右之通ニ相成候ヘハ追ては御勝手繰御難澁可相成候得共、銀主/\之口塞り候故御當分之所至
 て御六ヶ敷事候得共、其所ハ御押移之儀精々申談候事ニ候處、甚以致心配候は非常之御物入有之候節之取計ニ
 候、此儀も來ル未年ニ至候ハヽ可也ニ取崩候心組ニ候得共、明年・明後年之内ニも起り候得は、御自力計ニては
 御手ニ難被及候、其節一両年之所は猶又御家中手取をも不被減候ては御凌方付不申候、しかし色々計儀を凝シ居
 候間、其儀ニ不及事も可有之哉ニ候へ共、為用心豫申達置候間、御役付之面々は御出方筋ニ彌以消滅を用、一統
 其身/\之暮方も精々勘辨を用候様、組支配方えも屹ト無可被申聞置候、以上
   文化四ウ九月

  五六
  文化五年辰十二月御達
一御勝手向之儀、近十年非常之御物入等相續御難澁至極ニ相成候ニ付、去ル寅年より當辰年迄稠敷御倹約被仰出
 御出方筋ハ疊直をも被仰付候付ては丑十二月委細及達候通有之、其外種々之御仕法を被附候處、右等之験有之、
 當年ニ至候ては先御當前之御難澁は薄相成候、然共全躰之御積合至候て御六ヶ敷、此上萬一非常之御出方等有之ニ
 おいてハ又々以前之通之御難澁ニ可相成、左候ては御公務も被指支、御家中之御扶助御國中之御撫育も思召ニ難
 被任事ニ付、何分御倹約難被弛、猶又來年巳年より三ヶ年之間、今辰年迄之通之御倹約年限被仰付旨被仰出候條、
 此段組々支配方へも可被申聞候、以上
   十二月
 

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■妙解寺周辺

2017-10-19 07:06:03 | 地図散歩

 細川家の菩提寺「妙解寺」周辺の古図である。先般の熊本大地震で妙解寺も大被害を受けているようだ。
入口の石橋が落ち、御廟前に並ぶ家臣が建立した数十基の石碑も倒れていると聞く。忠利公ご夫妻と光尚公の御霊屋がどうなっているのか、その他代々の藩主のお墓は倒れていないのか、全容は明らかにされていない。
この絵図は何度か手を加えながら嘉永二年に完成したといわれる。往時をしのびながら、現在の地図と見比べているが大変興味深い。

 先にご紹介した「筒口御屋敷」が右端中央に見えている。この図でみると妙解寺はすぐ近くである。
右下に「高麗門」がみえ、そこから妙解寺に向けて「御成り道」が見えている。
妙解寺前の川は当時の「井芹川」流路が変更されて今では相当部分が埋め立てられ細い流れが残されている。
御成り道は延長されて「一駄橋」から春日方面へとつながった。現在では熊本駅春日口周辺の賑わいへと繋がっていることになる。
忠利公を荼毘に付した「春日寺」や、綱利公の嫡男・與一郎、二男・吉利の生母のお墓がある妙立寺、又護久公の生母・田鶴のお墓がある瀬西福寺も至近の距離であることも興味深い。(側室は細川家墓地に埋葬されることはない)
21日の史談会では1.8×2.0mの古図を広げて地図散歩をすることにしている。

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