津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■仁助咄

2018-02-14 13:40:17 | 熊本

 仁助話(咄)は「肥後文献改題」に次のようにある。
「農民の不遇を諷刺した寓話、仁助という謹直な農民を主人公とし、他三人の農民を加えて農民の無智不遇を談らせ、村医智伯という科学的知識人を以て天災地変病魔の説明をなし、且真宗坊主の堕落と悪行を摘発誹謗して農民の愚昧にして啓蒙し難い事を説き、農民の窮状を説明したもの」とある。文化九年の著作で一名「嘗難農話」とも題す。著者・灑松軒は中山昌礼とする説もある。

現在当ブログで、何かと日常を不自由に過ごす農民・町民のことを取り上げているが、資料的価値が高くいろいろな論考などにも引用されるのがこの「仁助咄」である。このたび何とか座右に起きたいと思い、色々さがしていたが、もう42年も前に発刊された「仁助咄」を手に入れることが出来た。(まだ手元には届いていないが・・・)

この「仁助咄」は、熊本県史料集成に第4集としての刊本があるし。、また星子忠義氏編のもの(葦書房)もある。
どれかを購入しようと思って色々調べていた所、この矢部町教育委員会編の刊本があることを知り、購入の手続きをとった。
熊本県立図書館には、原本である灑松軒主人/著の嘗難農話古文書)があるがまだ未見である。
この本を購入するにあたって色々検索する中で、レファレンス協同データベースに「くずし字のものはないか」とするお尋ねに対しての回答が紹介されていた。http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000174454
どうやら原本は失われているようだが、「井田衍義」第三十五巻に所収されている。
熊本県立図書館の「嘗難農話」はコピーはできそうにないが、「井田衍義」の原本とされるものはマイクロフイルムによる「写」が「熊本市歴史文書資料館」にあるようで、これはコピーできそうである。私も何とかコピーを取得したいと思っている。

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■寛永年以降・郡中法令(11)

2018-02-14 07:17:27 | 史料

二三〇
   御代官御内檢

一在々庄屋・百姓之所ニて何事ニても馳走ヶ間敷儀、尤振
 舞等受申間敷候、其身掛り之御郡ニて借物仕間敷事
一何色ニても誂物を被頼、在々え頼申儀、堅仕被申間敷候、
 尤自分も頼申間敷候、野方之御郡なと栗・雑穀を拂、御
 百姓共勝手ニ成御年貢取立候、勝手能所候ハヽ其通を書
 付此方へ窺其上ニて遣可申候事
一御内檢衆、徳掛之仕様、早・中・晩田幷木綿・大豆・胡
 麻・荏子等ニ至迄、其品々徳掛明細ニ可被仕候、左候ハ
 ヽ、其徳懸之一紙其時々に御根取中え可被指上候、徳掛
 之儀不念無之様ニ念を入可被仕候、下免之所土免反別ニ
 見分、徳かけ心持被仕間敷候、御免之極り其品之様子目
 六御取立人へ可被相渡候事
一御代官衆取立之儀、御内檢衆より被相渡候、徳掛目録ニ
 作徳を加へ一品切ニ無滞取立可被申候、皆濟目六被差上
 候節、右徳掛前ニ作徳を加へ吟味仕候、若取おくれ被申
 候ハヽ可為越度候事
一徳掛濟候已後、取柄割を相究取立之儀、夜日油断無之様
 ニ日仕候、左候ハヽ御蔵拂之儀も尤無油断可被申付
 候、然共此儀は麥作根付之心持可被仕候、兎角後年之閊        閊=つかえる
 違肝要ニ候事
一村々土免反別之當り其村ニ善悪其外御百姓之様子、常々
 吟味仕、此方より相尋候時、無之様ニ心得可被申候事
一御百姓共何事ニ付候ても隙も費し不申様ニ可被仕候、御
 取立緩ニ在之候得は御百姓痛申候間、取立之時分夜日共
 ニ稠敷被仕、在御蔵相濟候已後、籾摺旁跡之しまり第一
 ニ心を付可被申候事
 右之通堅可被相守候、段々之仕様之様子、形儀等之儀近
 日具ニ仕、善悪之様子可承候條可被得其意候、已上

 二三一
   御山奉行
一近年御山薮共ニ何之何郡も荒レ申様ニ相聞候、御山奉行
 之儀ハ在宅被仰付儀ニ候、御郡山薮見かしめ之儀、切々
 見廻り可被申候、左候て御山奉行不在山荒申所有之候ハ
 ヽ、稠敷遂吟味、御郡奉行衆之加被相達候、其様子ニよ
 り此方えも可承候事
一山薮共ニ立候て可然所見計、御郡奉行え沙汰仕、相談
 之上立可被申候、尤其段此方えも可被相達候事
一御山奉行約之儀、諸人を相手ニ仕、御山薮をしめ被申儀
 ニ候間、稠敷無之候てはしまり申間敷候事
一奥山ニてはらいを拂候所、御立山ニ仕、今迄之山拂ニ切
 を可然所可在之候、懸又、左様之所取立申候ハヽ、其様
 子御郡奉行衆え被相達、可然所究り候ハヽ、此方えも被
 申聞候上ニて可被申付候事
一何ニても諸方より之頼物を受込御百姓ニ被申付間敷候、
 幷在々ニて人夫を雇又は御百姓より馳走を受申儀、堅被
 仕魔間敷候事

二三二
   町方え可申渡事
一地子にいたる迄諸役免除候事
一若公儀よりの御用候は、其儀は成程肝煎可申候、他所よ
 り使者之儀、宿已下も肝を煎可申候、造作之儀は一切町
 へ不掛候事
一其町之頭を申付、大強之儀ハ頭として肝を煎可相濟事
一町奉行ハ不及申、其下ニ少も物を取せ申間敷候、借銀
 借米町方ニ借せ可申候、若此旨相背申候ハヽ、物を遣
 し町人も又かしら町人も同科ニ可申付候事
一此方より觸申候て掃除申付候外ハ、朝夕鷹野なとに出候
 時、町之掃除不及候事
  右之條々町中え可申渡候、以上
   正月七日        忠利御判
                   吉田縫殿助殿
                河喜多五郎右衛門殿

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■津軽承昭公

2018-02-13 13:53:44 | ご挨拶
 細川藩年表稿を見ると、安政五年の今日2月13日「土佐守娘と寛五郎(ノブゴロウ)婚姻整う」とある。
土佐守とあるが、これは明らかな間違いである。養父順承は大隅守であり寛五郎が後土佐守となっている。

寛五郎すなわち後の津軽承昭公だが、11代津軽順承の娘聟となって津軽家12代当主となった。 
   10代 - 津軽信順  11代 - 津軽順承  12代 - 津軽承昭
10代の信順は御乱行で知られる殿様、幕府の咎を受けて隠居を余儀なくし、養嗣子順承が跡を継いだ。
この人物は養父とは打って変わって善政を敷き名君と謳われた人物である。
順承は養嗣子として6歳の承祜(ツクトミ)を迎えるが18歳で死去した。
その為に四女・常姫の婿養子として迎えられたのが寛五郎(18歳)である。
常姫が若くして亡くなると、承昭は近衛家から継室を迎える。津軽家は近衛家との関係が深く家紋も近衛家の牡丹を模した「津軽牡丹」である。
幕末、近衛家の強い要請と共に、細川家の護久・護美兄弟の勧めもあり尊王にかじを切ることになる。
明治二年、津軽家は細川藩兵の支援を求めた結果、房総沖で多くの藩士が亡くなったハーマン号の遭難事件はまさにこのような縁によって起きている。

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■家中数書きあげ

2018-02-13 10:16:44 | 史料

 「熊本藩年表稿」に、「正保4年2月10日家中数を書上ぐ」とある。寛永18年5月5日光尚(当時光貞)が遺領相続をして6年がたとうとしている。
祖父三齋が正保2年12月に卒去した。三齋亡き後光尚は、藩中藩をなした三齋の御付衆を解体し、家老松井佐渡をして八代城代と定め、立孝の嫡子細川宮松(10歳・立孝)に宇土3万石分知支藩とするなど細川家盤石の基盤を為した。その直後の記録であるが、そんな中7月には長崎にポルトガル船が来航し、細川藩は11,300余人(内加子4,896人)を出兵させている。

   昵近衆950人、知行取家中馬乗共495騎、中小姓480人、合力米遣者26人、切米取合4,835人、地侍153人、家中足軽1,449人、
   長柄1,430、旗296本也

ポルトガル船来航時の加子を除く約6,400人にほぼ近い数字となっている。
光尚治世の侍帳は「真源院様御代 御侍名附」「真源院様御代 御侍免撫帳」が存在するが、残念ながらやや後年のものである。
上記資料における昵近衆(知行取)、中小姓等の記述にとどまっているように見える。

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■寛永年以降・郡中法令(10)

2018-02-13 07:16:46 | 史料

 二二五
   御印之御書出
   覺
一開之田地ハ理ニしたかつて年季を定可申候、定之理、熊
 本之郡奉行え可申候、不尋候て年季を定候事仕間敷候事
一或土免ニ定候上百姓と書物之定のことく免をさけ候事、
 郡奉行見計次第たるへし、但横目をこひ可申候、時分か
 けおそく熊本ヨリ横目申付候ハヽ不苦候間、郡奉行とし
 て可申付候事
一畠ハ開取ニ可申付候、但鍬目計を付我畑ニ定候儀は法度
 二候、鍬さき次第ニ開取ニ可申付候事、幷古作を悪敷仕
 間敷事
一郡中之儀可然と見切候儀は、熊本え不及尋、如此申付候
 との儀まてを可申届候事
一たとひ熊本奉行より申付候儀もわろきニ定り候ハ、申付
 間敷候、扨其段熊本へ可申候、其上ハ熊本次第我等申付
 候と申事も事ニより郡迷惑仕儀候ハヽ断可申候、とかく
 郡中悪敷儀ハ、郡奉行ニ定候上ハ無理悪敷事を其儘置候
 事曲事ニ候、横目を廻し悪事申來候共せんさくをとげず
 申付候事有間敷候、其段氣遣仕間敷候事
一口々ニ地侍抱可申候、御上ニ有幷有付之儀は、百姓ハ不
 及申侍・商人・鍛冶・番匠之類も有付候様ニ可仕候、幷
 右之知行遣候者之役ハ、其身召仕様迷惑不仕候様ニ似合
 敷儀ニて可申付候、又知行之分は役申付間敷候、年頭ニ
 一度、又郡え出候時目見可申付候、其頭を又可申付候、
 地侍と名附可申候事
一内々他國え之通路之儀、是又可承候、幷自然之時他國よ
 り計策候ハヽ、何様ニも申談なにもとり候へさて内證可
 申候、附、其他國より之褒美より過分ニ可申付候事
   以上
   寛永十一年十月二日御印
             何郡何かしとのへ

 二二六
   郡奉行え書出
一郡奉行壹人宛被申付候上ハ、彌精を出シ諸百姓萬事之儀
 存儘ニ可申付候事
一預り之於郡之内、公事幷出入有之候て分別ニあたわさる
 儀ハ、奉行所え可談合事
一預り之於郡之内、為に成儀存寄事有之ハ、奉行所え不及
 尋、開心儘ニ可仕候事
一免相之儀は代官ニ雖申付、為ニ不成儀候ハヽ、存寄所代
 官相談可仕事
一公儀事幷他國との出入之儀有之ハ、奉行所え可相達候事
   慶安二年二月七日

 二二七
   延寶六年正月御郡方え被仰渡候覺書
一山奥駄賃米・櫨之實代米・宇土蜜柑運上・當秋より被成
 御赦免候事
一大唐米只今貮合口ニ被召上候得共、當秋より壹合口ニ被
 成御直候、但、此納方之様子、口上ニ申渡候事
一木綿上納之儀、此間木綿拾貫目、米壹石宛ニ被召上候、
 従當秋木綿直段次第ニ米ニ直シ可被召上候
一麥受之儀、麥作損毛之年ハ、元之米ニ直シ可被召上候事
一御膳米・同餅米、此間ハゑり米ニ被仰付候、向後ハゑり
 米ニ不被仰付候事
一新地開・畑成田之出高等之儀、此間は御定之高もりニ
 候、御年貢も本高同前ニ有躰ニ被召上候、向後は御年貢
 米御百姓共勝手能様ニ輕ク可被仰付候間、随分精を出し
 仕立可申候事
一御國中在々空地之野山開無之所之分、立山・立薮御赦免 
 被成候、尤地形之様子閊無之段を御山奉行・御惣庄屋ニ         閊=つかえる
 相達、其上ニて御郡奉行衆差圖次第ニ立可申候事
 右は在々御百姓共え萬事勝手能様ニとの儀ニ付、右之通
 ニ被仰付候條、末々ニ至迄難有奉存、奢を不仕、耕作精
 を出申候様ニ有御沙汰候、已上
   延寶六年正月

 二二八
   御郡奉行
一御國中在々夫仕、其外萬事之儀、御百姓共勝手能様二被
 仰付候、然上ハ此旨末々迄承届有難奉存、奢を不仕耕作
 を精を出し申様可被仰付候、御代官・御内檢・御惣庄
 屋・御百姓方夫々之書付別紙ニ有之候條、其趣堅相守候
 様ニ可有御沙汰候
 
 二二九
   頭書之覺
一用水普請之儀、海手二て潮塘堤之修理・井手之磧所幷川
 塘崩所も、所ニより在所損候歟、又ハ田畑も川筋なと
 替り、大分損候所ハ随分丈夫ニ可被仰付候、此外大小川
 筋共ニ塘水はね、しからみ等大形之所は歟被差置候、少
 々田畑費申候とても、御國中御百姓耕作之障等罷成、御
 免下り申候得ハ大分之儀ニ候、此儀御了簡候て夫仕ニ減
 り申様ニ可有御沙汰候事
一用水御普請夫仕候て不叶文ハ、毎年所々之積を十一月中
 二仕立、十二月・正月・二月比三ヶ月ニ仕舞申様ニ可被
 仰付候、尤井手之蹟所幷不時之損所ハ各別之事
一用水御普請之時分、幷御取立之時分ハ、御郡奉行衆へ御
 郡へ可被相詰候、左候ハヽ、夫仕御取立之様子承届、又
 は見廻り候て、夫仕之費取立之緩無之様可有御沙汰候事
一用水之儀、御蔵納・御給知共ニ少も隔無之様ニ破候所
 より可被仰付候事
一在々町ニて、他國者往来ニ増駄賃を取申す様ニ相聞候、
 御定之外取不申様ニ可有御沙汰候事
一御郡奉行衆、在々のしまり自他之隔無之様、何之御郡ニ
 ても互ニ示合、同前ニしめ可被申候、尤萬事之出入も相
 役之様ニ相心得一同ニ可有御沙汰候事
一御郡之諸役人勤之様子、形儀之善悪、随分心を附被致吟
 味候て可被仰付候、其上ニても承引夫仕者ハ、其様子書
 付可被差上候事
一諸御郡御山次第ニ荒し申候、山薮之しまり随分稠敷御山
 奉行・御惣庄屋ニ可被仰付候、尤立山・植山仕せ可然所
 御見計候て可被仰付候事
一御立山・植山切様之事、其所を貮拾ニ割、其一を振切ニ
 仕、其跡ニ植継候ハヽ、二十年廻り切申候て山つき申間
 敷候、御吟味候て右之通ニ被仰付可然候ハヽ可有御沙汰
 候、尤其段此方へ可被相達候事
一在々夫仕之儀、役夫之儀ハ不及申、加勢等其外いか様之
 儀ニても、御百姓罷出候分ハ小庄屋手前ニ夫仕帳を仕
 置、具ニ付置候様ニ可被仰付候、何事ニても御百姓罷出
 候儀、夫仕帳ニはづれ申候ハヽ後日ニ相知候共、小庄屋
 可為越度旨堅可被付候、尤此段ハ向後此方より稠敷吟味
 可仕事
 右之通今度被仰渡候間可被其意候、以上
   延寶六年正月

 

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■雪の朝

2018-02-12 09:49:22 | 熊本

                          たなごころ
                  南国の 掌に消ゆ雪となり津々

今朝ほどはこの冬四回目の銀世界、今もボタン雪がちらほらしている。
南国の人間にとってはうれしい風景だが、ベランダにでてみると風がつめたく、暖房のきいた部屋から出られそうにない。
世の中は休日の様だから、読書でもして過ごすことにしよう。

昨日曜日が祝祭日で今日は代替え休日ということらしいが、昨日は「建国記念日」だった。
正式には「建国記念日」なのだそうだが、神武天皇の建国神話をもってしているから「」がつけられているのだという。
かっての紀元節だが余り説得力がなくて、76歳爺にしても2月11日が祝祭日と言われてもしばらくは答えに出てこない。

最近は折に触れて古典文学を楽しんでいる。過日はO家文書に斉明天皇の事が登場したので、「古事記」「日本書紀」の該当項に目を通したりした。
今日は寒さしのぎに「古事記」と、梅原猛の神々の流竄を読んでみようと思っている。

                           

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■寛永年以降・郡中法令(9)

2018-02-12 09:26:12 | 史料

二二四ー(4)

   覺
一愛宕山 一高野山 一彦山 一宇佐
 右之札在々え賦申儀銘々町宿可有之候條、御町奉行より
 札目録を以差上候ハヽ此方より御郡々々え相渡、初穂銀
 を取揃、御惣庄屋手前より夫々ニ相渡候様ニ沙汰仕候事
一伊勢御師之儀は御祓土産物大分ニ御座候、此方え受取、
 在々え賦申儀難成御座候ニ付、前々より御祓賦來候、御
 師旦那紛無御座との御惣庄屋差出を仕せ、其上を以如前
 々沙汰仕候様、御郡奉行え申渡候事
 一熊本山伏 一同こも僧
 右之者頭々之札を持、御郡々々え罷出來候事
 一出家 一山伏 一社人
 右在々旦那廻御赦免之事
 一川尻札賦 一比丘尼 一ひしやきたゝき
 一てずし  一座頭  一ごぜ
 一合薬賣  一はちひらき
 右之分、在々え参之儀御赦免ニて御座候、然共御所務半
 ハ御停止之事
一廻國僧之儀、在々所々ニ一日・二日之外は逗留仕せ申間
 敷候、左候て先々通候様ニ可申付旨、御郡奉行申渡候事
一巡禮之儀も廻國僧同前ニ申付候處、在々ニて悪敷事仕候
 ニ付、寛文九年より御家老中相談之上、所々ニ逗留仕せ
 不申村贈(アマ)ニ仕、御國中境差通申候事
一在々熊本町より役者を呼申間敷候、付り、踊子・春駒・
 しヽ舞・りうご引・目明之しゃみせん引・こきう引・あ
 やおり・さヽら摺・其外ほうかの類、右之分ハ在々御停
 止被仰付候、乍然、雨乞・風祭立願有之踊子をよひ申儀
 候ハヽ、先御郡奉行え相達、奉行所え申達、受差圖を御
 郡奉行より御町奉行え申渡、其上ニて在々ニ差出候事
一在々町ニて酒造候儀、公儀御觸之趣相守可被申旨御郡奉
 行・御町奉行え申渡、毎年石高帳ニ調上申候事
一在々町上ヶ酒一切御停止之事、併川尻町・高橋町・高瀬
 町此三ヶ所ハ御赦免、但運上銀ハ仕候事
一八代町ハ熊本町同前之事
一鶴崎道中之内、大津・内牧・坂梨・久住・野津原・鶴崎
 此六ケ所之酒屋ハ運上銀御赦免之事
一在々町麹屋・油屋之儀、望次第ニ被仰付、勿論定之運
 上銀仕候事
一在々ニ鹽・農具賣之外商人出入御停止之事
一在々市町ニて布木綿之類幷肴物、熊本町より賣ニ参候
 ハヽ、町年寄り之手形を以道筋差通申候事
一山奥津出、五里外ハ御蔵納中より駄賃米を割賦ニて出し
 津出可仕旨、真源院様御代ニ被仰出、今以其分ニ御座候事
一所々継飛脚給米、御國中在々より惣割賦ニて出し來候事
一御鷹匠御餌差、在々え被差出候時分、村々ニて紛もの御
 座候ニ付合札を調、御鷹匠・御餌差幷村々小庄屋へも渡
 置引合申候様ニ申付候事
一御鷹餌犬、御國中在々より出し來候處ニ、近年ハ犬一疋
 ニ付代銀拾匁宛被下置、飽田・託麻之儀は御鷹場廣ク御
 座候ニ付、犬を飼不申故、近年犬割符御赦免被成候也
一在々御百姓鍛冶ニ逢申候者ニは、御蔵納・御給人知共ニ
 御郡奉行吟味之上、家壹軒造申候竹木被為拝領候事
一在々宮山之竹木御用ニは不被召仕候、其宮之造営ニ召仕
 申候、風ころひ又はかれ申竹木ハ賣拂、其代銀御郡奉行
 より御惣庄屋へ預ヶ借付置、寺社造営之作料などニ召仕
 候事
一御山奉行銘々懸りの御郡中は村継馬相渡申候、着替将又
 食焼夫相渡不申候事
一田畑すくなく百姓他村より出作地なと有之所へ可参と申
 百姓於有之は、随分先々え参候て成立候様ニいたし遣可
 申候事
一百姓屋敷廻り之木、其百姓植候分ハ植立候者心儘ニ剪可
 申候、従前々有之大木三尺廻り以上之由ハ剪申間敷候事
   以上
   寛文十年七月

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■寛永年以降・郡中法令(8)

2018-02-11 08:08:13 | 史料

 二二四ー(3)

一内牧橋掛直申儀、材木山出之儀大分之夫數入申候二付、
 阿蘇谷・南郷両所より山出仕儀難儀ニ御座候故、慶安二
 年ニ近郷より越夫を申付、山出仕候得共、人夫之代り往
 來之日數費有之候間、御百姓共迷惑仕候、幷益城郡之内
 國町之橋、大橋ニて御座候ニ付、橋掛直し申儀、御材木
 山出夫之儀、是又内牧橋同様ニて御座候故、右両橋共ニ
 三十町之橋並ニ日雇夫を以申付、日雇銀御郡々々より出
 銀ニ申付候事
一妙解院様御入國の砌、先代納候茶・紙・綿・漆・御菜米、
 其外小物成之半分御赦免被成、半分被召上候、於只今
 其分ニて御座候、勿論郡代ニ成仕立申品々ハ、年々其沙
 汰仕上納申付候事
一諸樹木運上之儀、先代夫々納申分御座候得共、妙解院様
 御代より御赦免被成、今以運上銀無御座候事
一往還宿々、先代ハ地子を上納仕候得共、妙解院様御代よ
 り地子御赦免被成、於今上納夫仕候、然共家作り見苦敷
 御座候儀は、御國ならひにて貫屋を作り不申、掘立ニ造
 り申ものにハ相應之竹木を可被為拝領旨被仰出候事
一材木之事、其郡々ニて壹荷ニ付直段なにほと宛と定定置、
 御立山之外剪買ニ申付候事
一御郡之薮、御用ニ入申分御引除置、其外之薮之上・中・
 下ニしたかひ運上米銀を相定、御百姓請薮申付候て、御
 百姓共剪候て賣出申候事
一村々小庄屋給米之儀、高之石ニ付米壹石五斗宛ニ被下候
 事
一御百姓眞開之儀、其所ニ随ひ手間掛り候分ハ御郡奉行吟
 味仕、奉行所え相達、二年・三年ニても手間懸り様之様
 子ニより、御年貢御赦免被成、其翌年より御年貢上納仕
 候事
一在々野開之儀、年々作り替ニ仕物ニて御座候ニ付、運上
 銀を輕ク申付候、就夫毎年改を仕、御郡切ニ運上銀を定
 メ上納申付候、又ハ受銀ニ申付候御郡も御座候事
一居り畝物幷一毛畝物相改上納申付候事
一御鷹野之刻、作毛不損様ニ可仕旨被仰付候、将又、御家老
 中より鷹をつかひあミかけなと仕候時、作毛不損様仕候
 へと御家老中申觸候事
一麥作夏作之儀ハ、御年貢少ニても不被召上候、夏作勝手
 能御座候所ハ御免相申付候時其心得を以吟味仕候事
一米壹俵は京舛三斗五升入、山奥は三斗入ニ相定候事
一在々御百姓参宮幷本寺参仕者之儀、受人を相立書物仕、
 御郡奉行へ差出候上、往来手形仕、御郡奉行加印を仕、
 御奉行所え差出加印仕、於大坂生田又助ニ當て差上セ申
 候、相下候時は右之往来切手ニ又助裏書判形を取下り差
 上申候ニ付、其根帳消申候事
一往還筋其外駄賃・日雇賃銀定之儀、荷馬ハ壹疋壹里ニ付
 四分宛、から尻ハ貮分六厘六毛、夫壹人ニ付貮分宛従前
 々相定申候、勿論坂道ハ其所々ニ増銀之定御座候、在郷
 馬は宿町馬之様ニ荷を負不申候ニ付、半駄賃ニ仕、一里
 貮分宛沙汰仕候事
一惣て御用ニ付御郡へ差ものハ、宿賃・薪代取不申宿を
 借シ申候、但鶴崎道中御上下之御供衆、其外他國へ御用
 ニ付被遣候者ハ、遣銀・宿銀を被下候ニ付宿銀ハ取申
 筈ニ被仰付候、今以其分ニ沙汰仕申候、将又、近年は御
 用ニ付鶴崎迄被遣候者ニも宿賃銀を相渡、宿々ニ可被遣
 旨被仰付候ニ付、其通ニ沙汰仕候事
一御郡奉行郡廻り之時、薪・馬のぬか・草わらハ其所より
 出し申候、此外何色之物ニても取不申筈ニ従前々被仰
 出、於今右之分ニて御座候事
  附り、荷馬之儀、前々ハ駄賃銀を出し借り候得共、寛
  文二年之秋御家老中相談之上、荷馬壹疋宛駄賃銀無シ
  ニ付継馬渡申筈ニ相極、於ニ今其分ニて御座候事
一在々放馬牛つなき置候ヘハ其様子書付御郡奉行え相達、奉
 行所え差上申候、右之牛馬主知不申間ハ、放馬つなき置
 候もの札を付召仕可申候、牛馬を取放候ものハ其書付
 仕御郡奉行へ差出、御郡奉行より奉行所へ差上申候、書
 付双方引合沙汰仕、相知レ申分ハ則本主え差返させ申候
 事
一御郡中より出来銀幷筆紙墨代、其外何ニても割賦仕調可
 申候、米銀ハ惣庄屋手中限ニ何々之出来銀何程々々と書
 付、御郡奉行吟味之上判形仕、惣庄屋へ可相渡候、其判
 形之書付之奥ニ村々之割賦前書付、惣庄屋より申觸調可
 申候、然上は御郡奉行判形無之割賦米銀を少も出申間敷
 旨従前々被仰出、今以其分ニ沙汰仕候事
一在々之者衣類其外奢かましき儀共仕間敷之旨、従前々被
 仰出候得共、近年猥ニ成申ニ付、御家老中相談之上御郡
 々々え申觸候觸状之事
 一衣類之儀、布木綿之類迄を着可仕候、絹紬之類ハ帯・
  えりニ至迄堅停止之事
 一上方染之帷子、是又嫡仕間敷事
 一今迄所持候ても、又奉公ニ罷出其間着仕候とても、御
  停止之類在々ニて一切着仕間敷事
 一酒肴を調、振舞等是又一切停止之事
 一不依何百姓不似合奢かましき儀、少之事も堅仕間敷事
  右之通相守候様ニ在々え申付候所ニ、寛文八年三月従
  公儀百姓奢たる儀不仕様ニと七ヶ條之被仰出御座候
  ニ付、彌従公儀被仰出之旨在々え堅申付候
 一他國之踊子、御國へ入申間敷旨、御家老中相談候て申
  觸候事
 一御所務半諸勧進従前々御停止ニ手」御座候得共、彌堅可
  被申付旨觸候

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■寛永年以降・郡中法令(7)

2018-02-10 15:38:40 | 史料

 二二四ー(2)

一他國より走者を追懸参、其所二て預ヶ可申と申候ハゝ預
 り置、走り不申様ニ〆置、即刻村庄屋より惣庄屋へ申
 断、御郡奉行へ可相達、又捕候て可連歸と申候はゝ、國
 法ニて候間遣候事不成通申候て差留メ、走り物をハ可預
 置、是又不移時日御郡奉行え申達候、御郡奉行より即刻
 御奉行所え申上候様沙汰候事
一御郡中公事之儀、御郡奉行承埒明可申候、不及分別儀は
 御奉行所え可申上候、奉行所ニて相濟不申儀ハ、御家老
 中え相達其沙汰仕候事
一宿々村々ニて旅人宿をかり可申と申者は、宗門手形ニて
 も往来手形ニても五人組見届宿をかし申候、二夜とハ借
 シ不申筈ニ御座候、病人抔ニて逗留仕候て不叶者ハ、惣
 庄屋へ申断、切支丹宗門之改を仕、日本之誓詞・きりし
 たんの誓詞如御定法取置逗留仕せ候事
一往還之旅人・人馬幷渡舟之儀、縦雖為風雨・夜中無滞様
 ニ可申付候附、道橋修理油断仕間敷旨従御先規被仰出、
 今以其分ニて御座候事
一他所より之御使者ハ紛有之間敷候間、いつれより何方へ
 被通候との儀承届宿を借シ申候、熊本え之御使者にて御
 座候得は、何某様より之御使者何人、何と申仁と書付、
 筑後筋は南関より、豊後筋ハ内牧より、薩摩口は小川よ
 り継飛脚二て先注進申上、舟津ハ其舟場より注進申上
 候、此外所々口々ゟ之御使者も右同前二て沙汰仕候事
一在々庄屋・百姓・町人ニ至迄、他國之者と縁組を下ニて
 仕間敷候、縁組仕候ハて不叶儀候ハヽ、郡奉行え申達、
 郡奉行より奉行所え申上可致沙汰旨被仰出、則堅申觸候
 事
一萬事順路ニ沙汰可仕旨被仰出候上ハ、惣庄屋・小庄屋非
 分之儀を百姓ニ申懸候ハヽ、御郡奉行へ可申上候、御郡
 奉行其断を申居正敷可申付候、又ハ誰人ニよらす理屈盡
 成儀を百姓え申掛候者有之ハ、小庄屋又ハ惣庄屋を以隋
 分断を申候上、無承引候ハヽ御郡奉行え可申上候、其上
 御郡奉行無裁許候ハヽ、其趣書付を以奉行所へ目安を差
 上可申候、勿論御郡奉行・御代官・御内檢奉行申候儀ニ
 百姓迷惑仕事候ハヽ、是又奉行所へ目安を以可申上候、
 此段前々より被仰出今以其分ニて御座候事
一惣庄屋・小庄屋・山ノ口高役引申儀、御郡奉行吟味ノ上
 相定可申旨従前々被仰出候、今以其分ニて御座候事
一百姓之公事、其外出入之儀、其給人一切構申間敷候旨前 
 々より被仰出、今以其分ニて御座候事
一御國端之惣庄屋、他領之儀心ニ懸承可申候、左候ハヽ少
 之儀ニても替たる事承候ハヽ、即刻奉行所へ可申上旨従
 前々被仰出候、今以其分ニて御座候事
一道路又は何之村ニても行衛不知死人有之時は、其所より
 番を付置、惣庄屋より御郡奉行へ急度相達、郡奉行より
 奉行所え申上、三日召置、強尋來者無之候ハヽ道端ニ掘
 埋、死人之様子具ニ書記、札を立置申候、自然手疵有之
 死人は、不移時日段々ニ奉行所へ申上其沙汰仕候事
一御百姓被召仕様之事、妙解院様被仰出候ハ、随分百姓を
 召仕不申様ニ沙汰可仕候、乍去公儀之御用御上下之時、
 御國廻之時分、又は用水・道橋ニ召仕、其外ハ一日壹人
 ニ付壹升飯米・馬は壹匹ニ付大豆壹升宛被下被召仕候得
 共、其後御吟味之上不被下候事
一鶴崎道中人馬被召仕様、公用幷江戸へ八代蜜柑被差上候
 時分、又ハ江戸へ御上下之砌人馬御郡役ニ被仰付候、右
 之外御用人馬之事定之賃銀被下被召仕候事
一四月・五月・六月幷作毛取立之砌、麥作之時分ハ百姓召
 仕不申様ニ可仕旨、妙解院様御代被仰付候、於今其沙汰
 仕候事
一船ニて通候ハて不叶所ハ、船人夫共ニ召仕可申旨、従前
 々被仰出、今以其分ニ御座候事
一村ニより百姓多少可有之候、左様之所致吟味、役人之出
 様を極置可申候、銀米を出し候事ハ高ニ懸可申儀ニ候、
 人夫を出候儀は人之多少ニ従ひ可申儀ニ候、併村ニより
 左様ニ不成所も可有之候間、能々吟味仕相定可申通、寛
 文四年二月ニ御郡奉行へ申渡候事
一年季之奉公人・質奉公人之儀、妙解院様御代ハ五年限ニ
 御定被成候、其後公儀御定ハ十年限ニて御座候ニ付、近
 年ハ十年之内は相對次第ニ約束仕候、十年より上ハ堅約
 束不仕筈ニ申觸候事
一御郡之鐵炮札銀を以玉薬・揃道服仕立、御郡奉行預置可
 申旨従御先規被仰付候間、玉薬・揃道服何も仕立置申候、
 近年は右之札銀御郡間え受取、御郡用米銀ニ相加候、借
 付置申候事
一借物之利分、米ハ三和利・銀子ハ二和利ニ前々より御定
 被成今以其分ニて御座候事
一下益城郡之内三拾まち之橋掛直申儀、材木船場迄山出之儀
 は、日雇銀入札ニ申付、其銀辻諸御郡え割賦を以出銀申
 付候事

 

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■石牟礼道子氏逝く

2018-02-10 11:11:05 | 熊本

熊本の地にしっかりと根をおろして、水俣病をとりあげた『苦海浄土 わが水俣病』その他数々の作品を世に送られた石牟礼道子氏が亡くなられた。
ご冥福をお祈り申し上げる。
当時創設されたばかりの「大宅壮一ノンフィクション賞」に選ばれたが、辞退されたという報道を知って驚いたことを思い出すが、「患者の苦しみを書いた本」という理由であった。
なかなか読むのに辛い内容で、私もかなりの時間をかけて読んだが、土地の方言で書かれており一段と鮮烈さを極めていた。

地域やそこに住む人々に暖かい視線を向けて、一貫したその姿勢はそれぞれの作品に反映されている。
「江戸という幻影」「逝きし世の面影」等を著した在熊の作家・渡辺京二氏との交流も深く、渡辺氏もさぞお気落としであろうと拝察する。
改めて本棚を見回すと二三冊はあるはずの本が見当たらない。また段ボール箱を引っ張り出して見つけなければならない。
「春の城」「西南役伝説」は本当に良い作品だと思っている。


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■小卿か諸境か諸卿か・・・?

2018-02-10 07:55:01 | 歴史

O家の文書にある平家物語八巻「緒環」についての不思議である。
O氏が書き写した部分を見たとき、私は「諸郷」と読んだのだが、郷は卿ではないかとの思いもあった。
いろいろググってみると「日本古典文学摘集」では「小卿」とある。「諸」が「小」になっている。「岩戸の小卿」であり、成程ご尤もとも思えるが、何でこのようになるのだろう。
私も随分古い岩波書店の日本古典文学大系の「平家物語」を持っているが、地震後読むこともあるまいと段ボール箱に入れたまま押し入れの奥に鎮座している。
こちらではどうなっているだろうかと、大いに苦労して上下巻二冊を引っ張り出す。(昭和45年第11刷)
ページをめくると該当項にはなんと「諸境」とある。ルビがふってあり「しょきょう」とある。こちらでは「郷・卿」が「境」となったいる。
古典文学全集もいろいろ発刊されているが、いずれもその道の大先生方が携わっておられるにもかかわらず、是だけの差異がある。

頭注をよくよくながめたら「諸境=小卿」とある。それならそうで最初っから「小卿」としておけばよいものを・・・よく判らん。

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■お安く読むー中公文庫「俳人風狂列伝」

2018-02-09 12:48:59 | 書籍・読書
  俳人風狂列伝 (中公文庫)
   中央公論新社

            ちょっと一休みしたいときに私が読むのは俳句に関する本である。小難しい技術論などはどうでもよい。
            俳句はつくる人の生きざまが見えると聞いたことがある。手元に届くのが楽しみである。

 

内容説明

種田山頭火、尾崎放哉、高橋鏡太郎、西東三鬼…、破滅型、漂泊型など強烈な個性を持った十一名の俳人たち。
人生と世間と格闘しつつ、俳句に懸けた彼らの壮絶な生きざまと文学世界を端正な筆致で彫琢する。読売文学賞受賞作。

目次

蛸の脚―高橋鏡太郎             
此君亭奇録―伊庭心猿            
行乞と水―種田山頭火            
靫かずら―岩田昌寿
室咲の葦―岡本癖三酔
屑籠と棒秤―田尻得次郎
葉鶏頭―松根東洋城
おみくじの凶―尾崎放哉
水に映らぬ影法師―相良万吉
日陰のない道―阿部浪漫子
地上に墜ちたゼウス―西東三鬼

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■寛永年以降・郡中法令(6)

2018-02-09 07:18:20 | 史料

      今回の(二二四)御郡方記録書抜は8頁に及ぶ長いものであるため、4回ほどに分けてご紹介する。

(二二四)-1
    御郡方記録書抜
一切支丹宗門御法度之儀、従公儀被仰出趣、無懈怠相守候
 様ニ、在々所々幷町方男女末々ニ至迄申觸、日本之誓
 詞・きりしたんの誓詞ニ血判を仕らせ、きりしたんの影
 を踏せ申候、将又、轉切支丹病死仕候時は、五人組、惣
 庄屋・村庄屋立合、葬禮規式見届差出仕、旦那坊主葬禮
仕候儀紛無御座との裏書・判形を取差上申候を、ころひ
 の根帳ニ引合沙汰仕、田中左兵衛ニ相渡申候、勿論きり
 したん宗門御改之御觸状、毎月御郡奉行中へ指廻し、判
 形取置申候事
一公儀御高札之寫、於在々所々、毎月其村之庄屋手前より
 御百姓中へ讀聞せ、右之趣堅相守申候様ニ可申付通、御
 郡奉行より村々庄屋ニ堅申渡、毎月讀聞せ申候事
一壹年ニ両度宛、為横目歩之御使番・歩之御小姓、御國中
 在々所々え被差出、在々所々ニ迷惑仕儀共於有之ハ申上
 候様ニと申聞せ、申分有之儀は承届書付を受取差上申候
 事
一田畑賣買停止之事、従御先代被仰付を以、其分沙汰仕候
 事
一田畑・野開共ニ新開可仕所、杭を打、鍬かたを仕候とて
 も、其者其年開不申候ニおひてハ脇よりも開可申候、此
 段従前々被仰付、今以其通ニ御座候事
一新開之事、御知行取開申分ハ従前々開取ニ被仰付、於今
 右之分ニ沙汰仕候事
一御中小姓開も、御知行取同前ニ被仰付候事
一御切米取開之田畑共ニ、御年貢上納被仰付候事
一御惣庄屋開之儀、高之定申分は御百姓並ニ御年貢上納
 仕、高無御座畝物之分は、田畑共ニ御年貢出し不申、作
 取被仰付候得共、近年ハ御百姓同前ニ御年貢上納被仰付
 候事
一寺社方開も、御百姓並ニ御年貢上納被仰付候事
一又内々知行取・同御中小姓開之儀、御知行取・御中小姓同
 前ニ被仰付候事
一一領一疋之御奉公望申者之儀、其仁柄御郡奉行吟味仕、
書付を差上申候、其趣御家老中え相達、如望被仰付候者
 ニは田畑共ニ開取ニ可仕旨従前々被仰付、今以其分ニ沙
 汰御座候事
一在宅仕候御知行取ニは、材木三拾荷・竹貮拾束被為拝領
 候、併其郡ニ知行等無御座者ニは不被為拝領候、将又、
 在宅所之儀、知行取ニて無御座候ても其所之百姓申分無
 御座候得は、御蔵納之内又は何之所へも心儘ニ被仰付候
 事
一御家中より在々ニ立山薮・立野等仕來候所、所々ニ大分
 ニ仕立申候ニ付、所ニより牛馬之養ニ田のこやし等、御
 百姓共勝手悪敷迷惑仕候ニ付、近年ハ御國中御停止ニ被
 仰付候事
一飽田・託麻両郡之儀、御百姓之儀ハ不及申、御家中末
 々之者、馬草を苅申筈ニ罷成候ニ付、近年は新地・新野
 開仕儀御停止ニ被仰付候事
一従他國米雑穀を御國え入申儀、従前々御停止ニ被仰付
 候、今以其分ニ沙汰仕來候、併年柄ニより在々差つまり
 迷惑仕候砌ハ、其所之御郡奉行迄御断之書物差上申候
 を、奉行所ニて致吟味、様子ニ随ひ他國ニて少々商賣仕
 候ものヽ代物、其外雑穀少々御國へ入申様ニ申付候事
一鳥類・畜類之儀、何ニても為商賣他國へ出申儀一切御停
 止之旨被仰出候、然共音物ニ遣候ハヽ侍中ハ自分之手
 形、町方ハ御町奉行手形を出可申候條、夫々之手形次第
 ニ御國堺差通可申候、将又、牛馬之儀は各別ニて候間、
 如前々沙汰可仕之旨、御家老中より被申觸候ニ付、御郡
 奉行・御町奉行幷所々御境目御番中え申觸候事
一御國中之百姓猥ニ他國へ走り申間敷候、申分有之ものハ
 自餘之代官所・給人知え立退可申候、左候ハヽ惣庄屋承
 届取扱歸参可申付候、其上ニても百姓申分有之は、郡
 奉行承届、何之所ニ成とも有付ヶ可申候、百姓同心不仕
 を押付歸参申付間敷之旨、妙解院様御代ニ被仰付、今以
 其分ニ沙汰仕候事
一他領より百姓幷浪人等走來候ハヽ、其村より即刻惣庄屋
 え申達、惣庄屋手前より切支丹宗門改之誓詞血判申付、
 御郡奉行え急度申達、則御郡奉行より御奉行所え申上、
 帳ニ付置、其者居申度と申所ニ召置、旦那寺を定させ申
 候事
一他所より走來者、本所より付届有之時ハ被差歸候、然處
 縁付候者ハ不被指歸筈ニ御座候ニ付、御國え殘置申候、
 勿論御國之女を女房ニ持候者ハ夫ニ付他國へ被遣候事
一御国境・海道筋ハ不及申、わき道ニても走者他國へ通候
 ハヽ、在々庄屋・百姓中・常々心懸押置、即刻惣庄屋え
 可申届旨従前々被仰出候、今以其分ニ御座候事
一道路又は何之村ニても喧嘩を仕、互ニ手を負申儀共有之  
 候ハヽ、双方共ニ其所ニ留置、其趣即刻惣庄屋より御郡
 奉行え可申達候、又相手を打果シ立退可申と仕もの於有
 之は、其所の者として掛留置可申旨被仰付置候間、相留
 候様ニと申聞せ差留置、早々注進可申候、惣て人をあや
 まり申もの幷狼藉者ハ在所ニ留置、即刻惣庄屋より御郡
 奉行へ致注進、其上ニて御郡奉行より御奉行所え申達候
 事  

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■「お教えを乞う」続き

2018-02-08 20:29:25 | 史料

先に■お教えを乞うで「嫁齊明天皇産三王子其中子志弩直長於丹波國賜大蔵姓」(斉明天皇嫁して三王子を産す其の中の子志弩直、長ずるに於いて丹波國を賜り大蔵姓)という一文をご紹介した。
どうも眉唾とも思いながらこの文章の出所を探って、今日は少々無理をして図書館に出かけた。
原田氏のご子孫であろうと思われる方が、この様な著書を上梓されていた。

これによると、上記の一文は貝原益軒著の「筑前國續風土記」所収の「原田記」にあったものとされる。
まさしく斉明天皇の王子であると記されている。

           原田氏は唐土後漢の獻帝の遠孫也。獻帝の建安廿四年、魏文帝に位をうばはれ、獻帝の四子共に諸
           侯に列す。中にも第一の王子昌武王は、文武の才ありといへとも、魏帝即位の後、恢復の功成難く、
           南漢國の覇王となれり。其子顯章王より十三世、阿多倍王の時、天下唐の代となれり。唐の太宗即
           位の後、貞観年中南漢國の王位を辭し、日本國 孝徳天皇の御宇、大化年中十二月晦日、播磨國大
           蔵谷と云所に着岸せらる。阿多倍王漢王の嫡孫なれ共、代末に成て、我國を頼て歸化せられしかは、
           日本の貴客とて難波の都にうつされ、大臣の位に任し、高貴王と稱せらる。時に先帝皇極女帝、位
           をすへりてましまししかは、則高貴王に嫁しおはしまし、三王子を産たまふ。第一王子拏直王是坂
           上連祖、第二王子貴重王大蔵朝臣の祖、第三王子基淳王内蔵連祖也。白雉五年十月十日、孝徳天皇
           崩御し玉ひしかは、御姉 皇極天皇重祚をふみ給ふ。後に 齊明天皇と號す。第二王子貴重王、女
           帝の御愛子にて、親王の宣旨を蒙り、阿多倍王に属し来る。民族倍臣背中子に附與せられしかは、
           高貴王の本家は大蔵姓に相傳せり。朱雀院天慶年中、藤原純友叛逆しけれは、追討使として小野好
           古朝臣を指下され、博多の津にて純友と合戦せしか共、其功なかりしかは、天慶三年五月三日に、
           高貴王より十二代の後胤大蔵春實を對馬守に任して、錦御旗軍旗の蒲團扇を賜り、筑紫に指下し玉
           ひ、對馬を管領し、名を春種と改め、筑前國御笠郡原田に居住す。是故に原田の號あり。是則原田、
           秋月、波多江、江上、原、高橋、三原等の元祖なり。

これでもまだ食い違いがあるが、斉明天皇の王子であることは益軒の述べている通りであり、益軒が何を元にした記述したのかが問題である。
それでも「嫁齊明天皇産三王子其中子志弩直長於丹波國賜大蔵姓」と記述したO氏は、この情報をどこから手に入れたのだろうか。
考えられるのは藩校時習館か?、大変努力をされて書残されたものではある。

コメント (1)
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■御請状之事

2018-02-08 08:42:28 | 史料

            

                 内田手永岩尾村幸七去御年貢上納差
                 支才覚之手立無御座候ニ付忰市郎次儀
                 當未二月ゟ来申二月二日迄一ヶ年奉公ニ御約
                 束仕為身代銭七拾文残弐百目被渡下慥ニ
                 請取右御年貢ニ上納仕候然上者極通御奉
                 公堅相勤可申候若長煩仕尚又者不入御氣ニ
                 御隙被下候ハヽ身代殘日割ニ〆不勤分之殘
                 辻無延引相立可申候且又私方ゟ勝手次第ニ
                 御暇申請候ハヽ被渡下候給銀ニ御定之加利足
                 を三日内ニ急度相立可申候万一盗取迯等仕候ハヽ
                 其品々又代銭ニ而茂被■仰次第一言之
                 申分不仕早速其時可仕候自然不儀等ニ而欠落
                 縊り自害不慮死仕候而茂■之申分不仕
                 早速身柄請取御難題と■不申御定之立
                 銀速ニ可仕候事

                         (改行)

           

                一彼市郎次従前々浄土真宗ニ而玉名郡
                 内田手永白石村西福寺旦那紛無御座毎年      西福寺:熊本県玉名郡和水町瀬川851
                 切支丹之影を踏申し候事
                一彼市郎次御奉公ニ罷出候而茂
                 公義御給人方村中其外何方ゟ茂構
                 出入無御座候勿論兼而被仰出候諸御
                 法度御家法共ニ堅相■可申候事
                一右條々相背申間敷候尤居續何ヶ年相勤
                 給銀増減等仕候而茂此御請状御返シ不被減候内者
                 御用被成候様ニ請人参■之上村御庄屋之裏書
                 判形を取差上置申所如件

                           内田手永岩尾村置主
                   文政六年未ニ月       幸 七 
                           同村請人 弥三右衛門 
                                善 吉 
                    志口永村
                       和 三 次 殿

              [裏書]
                 裏書之儀相違無之候ニ付
                 裏書別形仕候以上
                        岩尾村庄屋
                    未三月     仼 助 

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