Sightsong

自縄自縛日記

亀井俊介『ニューヨーク』

2014-06-14 23:36:45 | 北米

亀井俊介『ニューヨーク』(岩波新書、2002年)を読む。

これで、ニューヨーク関連の新書を、懲りずに3冊目。ほとんどラノベ感覚だが、さすがに飽きた。しかし、同じような内容の入門書を続けて読むと、いやでも重要な事件や背景について刷り込まれるというメリットがある。

先住民の歴史を脇において、ヨーロッパからアメリカにわたってきたところから語りはじめると、他国と比べてどうしても歴史が短くなる。それでも、新書くらいのボリュームでは、通史は浅いものにならざるを得ない。本書も、ニューヨークの歴史や、市内各地域の特色についてうまくまとめてあるものの、具体的な話に踏み込まないため、あまり面白くはない。

ニューヨークは、田舎に紐付けられた田舎者が集まる東京と違い、根無し草が集まる都市であるという。そして、それでこそ、どんどん都市の表面が塗りかえられ、活気のある場になるのだとするのが、著者の主張である。しかし、東京がそうとばかりは言えないのではないか。わたしも田舎者ではあるが、いつも帰る場所としての田舎が心のなかにあるわけではない。大学生のころ、たまに帰省すると、もう東京に戻りたくてしかたがなくなり、いよいよ戻ってきたときに東京の夜景をみて、しみじみと嬉しい気持になったことは、一度や二度ではない。

●参照
上岡伸雄『ニューヨークを読む』
千住博、野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』


フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』、バルテュスのポラロイド

2014-06-14 22:36:57 | ヨーロッパ

ヒューマントラストシネマ有楽町で、フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』(2013年)を観る。

1975年。既に、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』を商業的に成功させていたアレハンドロ・ホドロフスキーは、次なる企画として、『デューン』の映画化を開始する。

キャストやスタッフは、ホドロフスキーが直感でこれはいいと思った人。特撮担当として、最初にダグラス・トランブルに目を付けるが、会ってみると多忙で傲慢なビジネスマンであり、怒って他を探す。ちょっと前に完成していた、ジョン・カーペンター『ダーク・スター』(今みるとしょぼい!)の特撮担当ダン・オバノンに決定。さらに、H・R・ギーガー。俳優として、サルバドール・ダリ。お気に入りの料理人をセットにして、オーソン・ウェルズ。さらに、自分の息子には、演技のため2年間武術の特訓を受けさせた。音楽はピンク・フロイド。凄いというかなんというか。

これらのアイデアをひとつひとつ固めていき、設定や絵コンテからなる分厚い企画資料を作成し、スポンサー探しをはじめた。しかし、巨額の予算や、ホドロフスキーの頑固な怪人ぶり(何しろ、12時間の映画にしたいなどと考えていた)のため、資金調達ができず、映画化は挫折した。そのかわりに、結局はデヴィッド・リンチが同作品を映画化したのだが、ホドロフスキーはその駄作ぶりに大喜びしたという。

作品は完成しなかったが、ホドロフスキーが撒いた奇抜な種は、あちこちで芽をふいた。『スター・ウォーズ』、『エイリアン』、『ターミネーター』、『プロメテウス』など、新旧の名作群に、『デューン』のコンセプトが活かされている。つまり、作品のかわりに世界を創った男というわけであり、これは愉快だ。

それにしても、何かに憑かれたように愉しそうに話し続けるホドロフスキーに、圧倒される。劇場からもときどき呆れたような笑いが起きる。何なんだ、この人は。こちらまでヘンに元気になってくる。学生のころ、『エル・トポ』の気色悪さに辟易して、他のホドロフスキーの映画を観ていないのだが、これはつまりわたしがお子ちゃまだったということだ。

ついでに、近くの三菱一号館美術館にて、「バルテュス 最後の写真 ―密室の対話」展を観る。

晩年のバルテュスは、身体的にデッサンが困難となり、ポラロイドで少女の写真を撮り続けた。狭い会場には、ほとんど同じポラがずらりと展示されている。アトリエでは自然光以外を拒絶していたくせに、フラッシュもときどき焚いている(DMの写真もフラッシュ一発写真)。しかし、薄暗い中で、ぶれてはいても、自然光のみで撮ったポラのほうが断然良い。

美しいといえば美しいし、変態的といえば変態的。(だってそうでしょう)

ホドロフスキーもそうだが、バルテュスも、思い込んだら意地でも方向を変えない。無理だがわたしもこうありたい。

●参照
バルテュス展


佐藤学さん講演「米国政治の内側から考えるTPP・集団的自衛権―オバマ政権のアジア政策とジレンマ」

2014-06-14 08:55:55 | 北米

佐藤学さん(沖縄国際大学)による講演「米国政治の内側から考えるTPP・集団的自衛権―オバマ政権のアジア政策とジレンマ」を聴講した(PARC自由学校公開講座、2014年6月13日、ちよだプラットフォームスクエア)。

2010年に法政大学で開かれたシンポジウム「普天間―いま日本の選択を考える」において、佐藤さんが、沖縄の米海兵隊が外部の脅威に対する抑止力となっているとの言説がいかに無意味であるかを明快に説いたことは、非常に印象的だった。あらためて話を聴きたいと思っていたところ、OAMのNさんに誘っていただいたのだった。

講演の内容は以下のようなもの。(※文責は当方にあります)

○バージニア州の共和党の予備選で、下院ナンバー2のエリック・キャンターが、ティーパーティー系の無名候補に敗れた(2014/6/10)。投票数も少ない選挙ではあるが、このことの衝撃と意味は非常に大きい。
○ティーパーティーは、極端なキリスト教保守であり、排外的な移民排斥政策や、同性愛結婚反対や、中絶反対や、軍事予算を削減して米国予算の赤字を抑えるべきとの政策を、狂信的に掲げている。最近は不振が続いていたが、これで潮目が変わった。つまり、共和党の主流はティーパーティーの主張をある程度取り入れざるを得ない。しかし、そうすると、白人以外の票が離反する。アメリカにおいては白人が少数派となりつつあり、さらに共和党の政策が保守化・反動化するだろう。
○このことは、共和党の政治家にとっての難題となる。たとえば、ジェブ・ブッシュ(ブッシュ元大統領の弟、元フロリダ州知事)は、ヒスパニック票の取り込みを意識した行動を取っている。しかし、ティーパーティーの影響力が強まると、移民政策が排外的なものになり、彼のような動きは批判の対象となる。つまり、共和党が極端な保守反動の少数政党と化す可能性がある。
○ティーパーティーは、オバマ政権を、社会主義であり独裁政権であるとして激しく批判している(おそらく人種的な要因もある)。また、TPP反対も、その文脈にある。自由貿易には賛成だが、その枠外の産業振興策には反対ということである。すなわち、米国においてTPP推進は一枚岩ではない。
○「オバマケア」(医療保険制度改革)に対しては、中低所得者層が反対する構造がある。アメリカでは医療保険を持っていない人が約15%も存在し、オカネがないと医者にかかることもできない。中低所得者層にとって、「オバマケア」は歓迎されてしかるべきものだが、なぜ反対か。その理由として、①民間保険会社がテレビCMなどで行っている猛反対のキャンペーンによる影響、②保険がカバーしきれない大病(癌など)は、多くの人は使わない、そして、③85%の下の層が反対したこと(分断工作)、が挙げられる。反オバマのティーパーティーも、「オバマケア」を「オバマの嘘」として攻撃している(医療保険の政府ウェブサイトに機能障害が生じたことも批判材料となった)。
○アメリカの経済は、全体としてみればよくなっており、失業率も改善している。しかし、これはまた、就職を諦めた人たちが労働市場から撤退したことを意味する(格差の拡大・固定)。
○共和党は、オバマを批判し、リビア空爆回避(領事館攻撃への対応)などの対処が、ひいてはロシアのクリミア併合につながったのだとする(軍事的な弱腰)。しかし、今ではアメリカは戦争などしたくないのである。
○アメリカでは、集団的自衛権など日米関係には関心が薄い。
○そもそも、戦争になって日本がアメリカを助けるなどといった局面は起こりえず、集団的自衛権の議論にはリアリティがない。それどころか、日本はアメリカにとっての「汚れ仕事」をさせられるという懸念がある。戦争によって、経済には確実に甚大な悪影響が出る。すなわち、沖縄の米軍基地だけの問題ではない。
○米中は経済的に依存しあっており、戦争を想定することには無理がある。仮に想定するとしても、中国人民解放軍が警戒するのは沖縄の米軍基地などではなく第七艦隊であり、そのために、横須賀を如何に攻撃するかという研究もなされている。

>> 参考記事 佐藤学「「戦争できる日本」へ事態危惧クリミア・尖閣・フォークランド」(2014/3/31、琉球新報)

講演後、懇親会に参加させていただいた。

近々に、佐藤さんも共著者として執筆した集団的自衛権の本が出るそうだ(合同出版)。秋には、単著がコモンズからも出る予定だということである。

ところで、佐藤さんが会場への差し入れとして配ってくださった「はごろもパイ」(みやざと製菓)。これには、宜野湾市大山の名産物である田芋(ターンム)を使っている。普天間の地下が琉球石灰岩によって涵養された地下水脈であり、そのために大山の田芋栽培が出来ている。換金性が高い作物であり、地域経済にとっての意義が大きい。(伊波洋一、『けーし風』第81号

 


千住博、野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』

2014-06-14 00:53:59 | 北米

千住博、野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』(光文社新書、2005年)を読む。

それなりに面白くはあったが、千住博という人の「ご神託」をまとめているような本でもあった。

美術はネットや印刷媒体では二次体験に過ぎず、実物に対面しなければはじまらない。それはその通りだ。しかし、体感を経たあとの解釈が、もはや印象批評に他ならぬものとなっている。ゴッホの筆遣いからも、リキテンスタインのスタイルからも、「神」への祈りを見出すのみ。少々辟易してしまった。

ガイドブックでもない、作品の解釈としては中途半端、図版はお粗末。