有楽町のスバル座で、大林宣彦『野のなななのか』(2014年)を観る。
北海道芦別市。風変わりな老人の死をきっかけに、4人の孫、ひとりの曾孫、老人に長いこと付き添った女性、老人の妹らが次々に集まってくる。
まずは、過剰すぎるほど過剰に吐き出され重なり合うことばの群れに驚かされる。死者のことばさえ、生者と隔てることなく混交する。そして、過剰のなかから見出されるものは「つながり」だった。
もっとも、これは封建社会への回帰ではない。「日本」ということばが出てくるものの、「日本」などへの回帰でもない。老人を慕う女性が、ソ連兵に強姦されてサハリンで死に、その前に古本屋に残してきた中原中也の詩集をリンクとして、別の女性に生まれ変わる。鉄道事故で死んでも、女性はまた生かされる。老人の友人は、ソ連兵の残された妻子のもとに赴き、そこで人生を共にする。紐帯は、血縁や地縁でもなく、閉ざされた共同体の論理でもない。
大林宣彦のファンタジックな視線。「3・11」後の原発、敗戦後の戦争に対する明確な意思表示。ハチャメチャの中に、光芒のような一筋を見出すことができる映画だった。