Sightsong

自縄自縛日記

ナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』

2014-06-22 23:42:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

ナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』(講談社文庫、原著1965年)を読む。ジャズファンでありながら、恥ずかしながら、はじめて。古本屋で100円で買った。

ニューヨークに住む、高校生の白人の若者。ジャズに憧れ、トランペットを吹き、異世界の黒人コミュニティーに入っていく。差別を体験し、ジャズの「サムシン・エルス」を希求する。そんなビルドゥングス・ロマンである。

主人公はプチ・ブルのマジョリティー側。トランペットを吹き、テクは凄いものを持っているが、「サムシン・エルス」が足りない。音楽もコミュニティも自分とは異質のマイノリティ側に、自己同一化を図る。実は、自分自身のなかにもパターナリズム的な差別があることを痛感する。どうしようもない評論家が登場。

何だ、つまり、五木寛之『青年は荒野をめざす』は、この本のパクリだった。

●参照
リロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)『ブルース・ピープル』(「あとがき」でヘントフが言及)


スピノザ『エチカ』

2014-06-22 22:48:23 | 思想・文学

スピノザ『エチカ』(中公クラシックス、原著1675年頃)を読む。(なお、本版の邦題は『エティカ』とされているが、『エチカ』の方が通りがよい。)

300年以上前、スピノザの死後に公開された倫理の書である。

今頃こんなものを読んで面白いのかねと訊かれれば、まあ、確かにさほど面白くはない。定理によって体系的にまとめられたものではあるが、今の目で見れば決して体系的とは言えず、同じことを繰り返すのみ(定理はもっとシンプルで必要十分なものであるべきだ)。しかも、説明のための幾何学がいかにも中途半端。

かれの主な言い分はいくつかある。

完全性(実体)は神にのみあるのであって、しかもそれは唯一のものである。様態のごときものは実体の個々のあらわれに過ぎぬ。人間精神もまた同様なのであって、それぞれ不完全であらざるを得ない。善だの悪だのといった判断は、不完全なこちら側での不完全な決めつけである。だからこそ、不完全性を知ること、不完全な個々の人間同士を知ることが、精神向上への唯一の道である。如何に完全を希求しても不完全でしかあり得ない、しかし、それをしないこと(無知)は、ドレイへの道である。・・・といったところか。

所詮、個々の人間のセルフコントロールなんて何百年経っても進歩しないものであるから、確かに、読んでいると叱られているような気がしてくる。その意味では、アフォリズム集としても「使える」。新しい自己啓発本として『スピノザの言葉』とかどうかね。もう出ていたりして(確かめる気にもならないが)。


ハナ・ジョン・テイラー『HyrPlasis』

2014-06-22 10:24:51 | アヴァンギャルド・ジャズ

マラカイ・フェイヴァース『Live at Last』でのハナ・ジョン・テイラーのくっさいサックスソロが気に入って、他の吹き込みを探していたのだが、ようやく、『HyrPlasis』(Tiger Fish、2009年)を入手した。

Hanah Jon Taylor (ts, ss, fl, Yaruaha wind controller)
Vincent Davis (perc)
Kirk Brown (p)
Yosef Ben Israel (b) 

ハナ・ジョン・テイラーはシカゴの人。やっぱりねという感じである。

もっとも、ヴォン・フリーマンほどは発酵食品的ではなく、フレッド・アンダーソンのような凄みもない。アリ・ブラウンのような突き抜けた感覚もない。もちろん、それでいいのだ。(と、上から目線で言ってみる。)

ここでも、ぶりぶり吹いたりして、彩りを付ける工夫をしたりして、聴いていて気持ちが良い。日本に来てくれないかな、シカゴに行かないと無理かな。

●参照
マラカイ・フェイヴァース『Live at Last』 


MOPDtK『The Coimbra Concert』

2014-06-22 07:16:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

MOPDtK『The Coimbra Concert』(clean feed、2010年)。ピーター・エヴァンス聴きたさに入手したが、グループ名は「Mostly Other People Do the Killing (MOPDtK)」。また思い切った名前を付けたものだ。しかも、ロゴマークは、エディ・アダムズの有名な写真「サイゴンでの処刑」を模している。

Peter Evans (tp)
Jon Irabagon (ts, ss)
Moppa Elliot (b)
Kevin Shea (ds)

ジャケットもふざけている。誰が見ても吹き出すと思うが、キース・ジャレット『The Koln Concert』のパロディである。調べてみると、これだけでなく、オーネット・コールマン『This is Our Music』とか、ロイ・ヘインズ『Out of the Afternoon』とか、アート・ブレイキー『A Night in Tunisia』とか、名盤のパクリのオンパレード。

パクリということで言えば、全曲がモッパ・エリオットによることとなっているが、「A Night in Tunisia」、「Let's Cool One」、「A Love Supreme」、「Our Love is Here to Stay」といったジャズスタンダードの断片が埋め込まれている。しかし、これはコミックバンドなどではなく、凝り固まった認知を笑い飛ばすような活動とみるべきだ。かつてジョン・ゾーンが、「Jazz snob, eat shit」と言ったように。

この音楽をどのように言い表すべきか。ピーター・エヴァンスの諸作に通底していて、たとえばイングリッド・ラブロック『Strong Place』でも強く感じられる「Re-focusing」か。楽器編成や文法はジャズのものを踏襲しながら、フリージャズ創世記にあったに違いないような、さらなる自由を見出すための活動が形になっているような感覚か。それぞれのプレイヤーの演奏が全体としての和集合を作っているのではなく、各々の演奏の積集合(共通部分)をキープしながら、あとは四方八方に飛びださせる感覚か。

ピーター・エヴァンスの音楽を聴いていると、スタニスワフ・レム『ソラリス』において、ソラリスの海の上に形成された雲のことを思い出す。人間が飛行機から観察していることに呼応し、雲は赤ん坊の目や鼻や口の形を作りだす。しかし全体としてみれば統合世界としての顔を形成しているわけではなく、観察者は吐き気をもよおすといった描写だった。

もちろん、ここでの演奏は、グロテスクでも、吐き気をもよおすわけでもない。ひたすら愉快である。

●参照
ピーター・エヴァンス『Ghosts』
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』
『Rocket Science』
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』