平頂山事件訴訟弁護団『平頂山事件とは何だったのか』(高文研、2008年)を読む。
ちょうど5年前、訴訟の弁護団に加わった大江弁護士による講演を聴いた。そのとき、既に上告が最高裁に棄却された(2006年)後であり、現在まで、その意味での進展はない。しかし、いまも平頂山事件(1932年)そのものが日本でさほど知られているとは言えず、このような本が読まれていく意義は大きいということができる。
1932年、中国遼寧省、撫順の炭鉱(戦後に戦犯収容所ができた場所)。同年に成立した満州国の地域内であり、それ以前から、実質的に、満鉄や関東軍を通じて、日本が資源やインフラの権益をおさえていた。この炭鉱も、「匪賊」こと反満・反日ゲリラに対し、関東軍が守備にあたっていた。ある日、ゲリラの襲撃があり、過剰すぎる対策として、関東軍の憲兵隊は、ゲリラ通過点と想定される平頂山地域の住民を1箇所に集め、機銃掃射によってほぼ皆殺しにしたのだった。
犠牲者数、推定約3,000人。死体は外部からの視線に晒されないよう、ダイナマイトで崖を発破した泥によって埋められ、隠された。
中には、生き残った者たちがいた。彼女ら・彼らは、親戚のところに身を寄せた。証言を発することはできず、犠牲者とわからないよう改名した者もあった。日本の敗戦までは当然として、戦後も、中国政府によって、その声を抑制されてきたからである。そして、日中国交回復(1972年)の際に、戦争責任について、国家間での話がついた、はずであった。しかし、それは民衆の頭越しの国家間の決定であり、やがて、個人が国家の責任を問うことまでは解決済みではないとする考えが出てきた。(このあたりは、韓国でも同様である。)
その考えを妨げぬとする銭其琛の発言が、1995年にあった。実質的なゴーサインであったと言える。これは、永野法相による「慰安婦はなかった」発言(1994年)など、しぶとく発せられる歴史修正主義へのカウンターでもあったのだろうか。もちろん、国家間が良好な関係にあったからといって、個人に黙っていろということは妥当ではない。
そして、犠牲者3人を原告として、日本人弁護団が組まれた。資料や証言によって史実を明らかにするも、地裁、高裁、最高裁すべて、「国家無答責の法理」を理由として、敗訴となった。「国家無答責の法理」では、国家の権力行使の一環として行われた行為であればその当否を問うことができないとする。要は、軍隊の行うことは、いかに本来の業務を逸脱した虐殺行為であっても、責任を回避できたわけである。
ただ、この法理を適用しない判決も出てきている(強制連行など)。また、平頂山事件については、責任の所在はともかく、司法によって、事件の事実認定はなされている。
●参照
平頂山事件とは何だったのか(2009年、大江弁護士による講演)
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』(平頂山事件についての外交官による記録)
澤地久枝『もうひとつの満洲』 楊靖宇という人の足跡(澤地久枝は平頂山を訪れている)
平頂山事件資料館