Sightsong

自縄自縛日記

マシュー・シップ『Not Bound』

2018-05-16 09:23:43 | アヴァンギャルド・ジャズ

マシュー・シップ『Not Bound』(fortune、2016年)を聴く。

Matthew Shipp (p)
Daniel Carter (fl, tp, ts, ss, cl)
Michael Bisio (b)
Whit Dickey (ds)

曲単位ではなくアルバム全体での大きな流れがある。これは、「そのような一気通貫の即興演奏」をたまたま仕掛けた結果というよりも大きな意味があるだろう。むしろ、マシュー・シップ、ダニエル・カーター、マイケル・ビシオという音楽家の独特さが積極的に反映された結果のようである。

以前にダニエル・カーターのプレイを観たときに(トッド・ニコルソン+ニューマン・テイラー・ベイカー+ダニエル・カーター@6BC Garden)、蓮見令麻さんが、伴奏のようなユニークなスタイルだと言った。ここでもそうなのであって、カーターはフルート、トランペット、サックス、クラと管を持ち替えながら、音のラインを主導するのではなく、大きな流れに付いたり離れたりして、その流れを染色する。語られることは少ないが、とても面白い多楽器奏者だと思う。

一方、マイケル・ビシオは、憑りつかれたかのように、ベースの絶えざる演奏によって流れを創り出す人である。そしてマシュー・シップのピアノには、いつも、構造に向かう強すぎるほどの意思を感じる。何があろうととにかく構造へと回帰する。

●マシュー・シップ
マシュー・シップ『Piano Song』(2016年)
ジョン・ブッチャー+トマス・レーン+マシュー・シップ『Tangle』(2014年)
マット・ウォレリアン+マシュー・シップ+ハミッド・ドレイク(Jungle)『Live at Okuden』(2012年)
ジョン・ブッチャー+マシュー・シップ『At Oto』(2010年)
DJスプーキー+マシュー・シップの映像(2009年) 


ストーレ・リアヴィーク・ソルベルグ『True Colours』

2018-05-15 19:01:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

ストーレ・リアヴィーク・ソルベルグ『True Colours』(2017年)を聴く。

Ståle Liavik Solberg (ds, perc)

ドラムス・パーカッションによるソロ集。

ジョン・ブッチャーやメテ・ラスムセンとの共演が面白かったソルベルグだが、ソロも面白い。かれは音の効果を削り絞って尖った周波数の山を創ることはしていない。それよりも、叩くものも叩かれるものも敢えて柔らかく設定し、叩いた後のそれらのマテリアル内における響きと、場における響きをいちいち試しているように聴こえる。響きの試行は自分自身にフィードバックされているようであり、向かう姿勢もまた柔軟。

●ストーレ・リアヴィーク・ソルベルグ
ジョン・ブッチャー+ストーレ・リアヴィーク・ソルベルグ『So Beautiful, It Starts to Rain』
(2015年)
シルヴァ+ラスムセン+ソルベルグ『Free Electric Band』(2014年)
2016年の「このCD・このライヴ/コンサート」


望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』

2018-05-15 16:53:16 | 沖縄

望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』(ひるぎ社おきなわ文庫、1994年)を読む。

現在のボルネオ島北部、マレーシアのサラワク州とブルネイの位置に、サラワク王国があった(1841-1946年)。もとは英国の後ろ盾で出来た国であり、東インド会社を通じた東方への版図拡大の文脈でとらえられる。1941年には日本が軍事支配し、その後敗戦とともに英国の直接支配下に入ることによって、国として消滅することとなった。

ここに、1932年以降、沖縄県の旧伊平屋村を中心とした移民団が入植した。それは、鈴木商店(現在の双日等の源流)やその下の日沙商会による南方事業の一環であった。また、沖縄だけでなく、その後北海道からも入植したという。

本書にまとめられたところによれば、もともと、コメの生産を行う予定だった。ところが、いい農地は既になく、採算性ではゴムに及ばず、結局はコメだけではうまくいかなかった。入植者たちは大豆やタピオカや落花生なども作り、なんとか生計を立てた。もとより募集において、入植者に期待されたコメの生産の経験は乏しかった。また一部は日本に戻り、それを埋め合わせるために呼んだ北海道民についても、開拓の経験をあてにするといういい加減なものだった。国策としても、事業としても、評価できないものであったと読める。

一方、伊平屋の人々が募集に応じたのはなぜか。本書では分析はなされていないが、聞き書きに、「そうでなければ糸満にやらされてつらい漁業をやらなければならないから」とあった。沖縄の中でそのような構造的な困窮があった。

ところで、日本の「南進」にあたっては、糸満漁民の蘭印(インドネシア)への進出も関係していた。東恩納寛惇は、大東亜共栄圏構想を沖縄県が「孤島の宿命」を打ち破り「新沖縄が生きる道」として歓迎してもいたのだった。(後藤乾一『近代日本と東南アジア』

そのように、沖縄全体の困窮、沖縄の中での困窮の違い、日本によるアジア侵略・南進と棄民政策、といった目線から、沖縄移民の歴史はとらえなおされるべきだろう。 

●沖縄移民
後藤乾一『近代日本と東南アジア』
上野英信『眉屋私記』(中南米)
『上野英信展 闇の声をきざむ』(中南米)
高野秀行『移民の宴』(ブラジル)
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(台湾)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー

●ひるぎ社おきなわ文庫
郭承敏『秋霜五〇年―台湾・東京・北京・沖縄―』
加治順人『沖縄の神社』
金城功『ケービンの跡を歩く』保坂廣志『戦争動員とジャーナリズム』
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』


マリア・グランド『Magdalena』

2018-05-15 09:06:11 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリア・グランド『Magdalena』(Biophilia Records、2018年)を聴く。

María Grand (ts, vo)
Jasmine Wilson (spoken word)
Amani Fela (spoken word)
Mary Halvorson (g)
David Bryant (p)
Fabian Almazan (p)
Rashaan Carter (b)
Jeremy Dutton (ds)

前作の『Tetrawind』と同様に、マリア・グランドのテナーは沈静し、落ち着いており、いわば艶消しである。その音色で(にもかかわらず)、特に「TI」から「TIII」までの3曲において、M-BASE直系のフレーズを水平垂直に広く繰り出してくる。このときのラサーン・カーターもまたM-BASE的なファンクであり、艶消しのサックスでのM-BASEトリオは聴いていけば快感になってくる。冷静にM-BASEの自分たちの世界を見せればいいのだと開き直っているような印象もある。

おもに後半での聴き所のひとつはデイヴィッド・ブライアントのピアノであって、華美に和音を使うでもなく、ここぞとばかりに不穏で傾いたフレーズを突きさしてくる。この人は、ルイ・ヘイズ、エイブラハム・バートン、ジョシュ・エヴァンスなどNYの「どジャズ」でも活き活きしているし(今度また来日してレイモンド・マクモーリンと共演する)、一方、ピーター・エヴァンス、ヘンリー・スレッギル、そしてこのM-BASEなど尖った方でもまた個性を発揮している。以前は「どジャズ」だけの人だと思っていたこともあり、次々に予想を裏切られ続けている。わたしとしては今後さらに大注目なのだ。

ピアノはもうひとり、ファビアン・アルマザンが参加している。2曲目の「Imani/Walk By」における煌びやかなフレーズか、これも愉しい。

それにしても、マリアのヴォイスが彼女のテナーと似たような味わいをもっていることが面白い。囁くようで、ちょっと神秘的でもクールでもあったりする。2曲でメアリー・ハルヴァーソンと共演しているのだが、そのときにはさらに世界に靄がかかって足場がぐらぐらする。

●マリア・グランド
マリア・グランド『Tetrawind』(2016年)
スティーヴ・コールマン『Morphogenesis』(2016年)


デイヴィッド・マレイ『The London Concert』

2018-05-14 19:46:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

デイヴィッド・マレイ『The London Concert』(Cadillac Records、1978年)を聴く。

David Murray (ts)
Lawrence 'Butch' Morris (cor)
Curtis Clark (p)
Brian Smith (b)
Clifford Jarvis (ds)

20代前半のマレイ。1975年にNYのロフトで活動を始めたというから、勢い大爆発の時期である。ちょっと外れた音程も、フラジオで高音を多発する奏法もいまと同じと言えば同じであり、それは同じ人だから仕方がない。マレイの最初からの個性だったのだ。

現在のマレイはその個性だけを味として悠然と吹く「味おじさん」である。しかし、このときのマレイはまるで違う。音色、裏声、高音、咆哮、すべてをもって、サウンドのあらゆる箇所を休むことなく攻め続ける。すべてが苛烈な表現の手段となっている。躯体のあちこちで爆竹ではなく爆弾を炸裂させながら舞う龍のようだ。

いま、こんな人いないのではないか。文字通り化け物である。わたしも久しぶりに若いマレイの演奏を聴いて感動している。

●デイヴィッド・マレイ
デイヴィッド・マレイ feat. ソール・ウィリアムズ『Blues for Memo』(2015年)
デイヴィッド・マレイ+ジェリ・アレン+テリ・リン・キャリントン『Perfection』(2015年)
デイヴィッド・マレイ・ビッグ・バンド featuring メイシー・グレイ@ブルーノート東京(2013年)
デイヴィッド・マレイ『Be My Monster Love』、『Rendezvous Suite』(2012、2009年)
ブッチ・モリス『Possible Universe / Conduction 192』(2010年)
ワールド・サキソフォン・カルテット『Yes We Can』(2009年)
デイヴィッド・マレイの映像『Saxophone Man』(2008、2010年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Edinburgh Jazz Festival』(2008年) 
デイヴィッド・マレイの映像『Live in Berlin』(2007年)
マル・ウォルドロン最後の録音 デイヴィッド・マレイとのデュオ『Silence』(2001年)
デイヴィッド・マレイのグレイトフル・デッド集(1996年)
デイヴィッド・マレイの映像『Live at the Village Vanguard』(1996年)
ジョルジュ・アルヴァニタス+デイヴィッド・マレイ『Tea for Two』(1990年)
デイヴィッド・マレイ『Special Quartet』(1990年)
デイヴィッド・マレイ『Live at the Lower Manhattan Ocean Club』(1977年)


フリート横田『東京ヤミ市酒場』

2018-05-14 15:59:21 | 関東

フリート横田『東京ヤミ市酒場 飲んで・歩いて・聴いてきた。』(京阪神エルマガジン社、2017年)を読む。

というのも、藤木TDC『東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く』によって、戦後ヤミ市の跡(主に、ヤミ市そのものではなく、GHQの命令等によって行き着いた場所)が、いまもこまごました飲み屋が軒を連ねる横丁やビルになっていることを知り、その実践版として、雑誌『東京人』2017年11月号の「高架下の誘惑」特集を紐解いていたからである。

『東京戦後地図』によれば、神田駅北口側はスラブ式鉄筋コンクリートで線路直下を使える。一方南側は明治期の煉瓦アーチ式ゆえ、神田小路のように小型店舗がひしめく構造ができた。そこに今もある飲み屋が、たとえば「ふじくら」「宮ちゃん」が一緒になったところであり、その横の「次郎長寿司」。「ふじくら・宮ちゃん」では先日ちょっと飲み食いしてきた。良いところだった。

アーチの中には中二階がありお店の人が寝起きもしていたようであり(プラスアルファ?)、そのことについて、『東京人』にはもう少し解説がなされていた。それが、本書の著者であるフリート横田氏によって書かれていたのだった。

そんなわけで順番が前後したが、本書を見つけて喜んで買ってきて、一通り読んだところである。神田だけでなく、新橋、新宿、渋谷、池袋、大井町、赤羽、西荻窪、吉祥寺、溝の口、横須賀、野毛、船橋について、ヤミ市跡がどのように形成されたのか手短にまとめられ、いくつかの酒場が紹介されている。『東京人』と同様の実践版である。

まあとにかく自由になればまた好きな街をふらつくつもりである。


ハンナ・アーレント『活動的生』

2018-05-14 10:09:59 | 思想・文学

ハンナ・アーレント『活動的生』(みすず書房、原著1960年)を読む。

従来『人間の条件』として英語で出版され邦訳されていたものだが、2015年に、ドイツ語原著から新訳がなされた。入院中で時間もあり、ゆっくりと読むことができた。

この大著において、アーレントはああでもないこうでもないと思索しさまよう。この一読してのわかりにくさは翻訳の質とは関係がない。しかしそれがアーレントを読むということなのであって(彼女に限らないけれど)、それは思想書を何かのキーワードで代表させる安易さとは正反対にある(「アイヒマン」とか「パノプティコン」とか「リゾーム」とか)。したがって、以下はわたしの中をいちど通過した感想に過ぎず、レジュメなどではない。

公的な空間と私的な空間とがあり、両者は歴史的にも精神的にも明確に定義され区切られるわけではない。わたしは本書を読むまで、アーレントは公的空間における「ヨーロッパ市民」としての共通ツールを用いての活動こそを重視しているのかと思っていた(実際、本書でも「ヨーロッパ」と限定しているくだりもあるのだ)。だが、必ずしもそうではない。

愛だとか恍惚だとか痛みだとか、あるいは私的財産など、公共空間に出てこないものは、「私秘的」な不可侵の私的空間にある。公共空間と私的空間とは実は喰いあうものでもあって、統治や社会のありようによっては、私的な本性のものであろうとも、公共のものにされてしまう。いまになってみれば、公共的な性質を持たせたはずのものが実のところ私的空間に取り込まれていたことが、資本主義の本質だったのかもしれないと想像できるデヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』トマ・ピケティ『21世紀の資本』)。

一方で、私的な空間にあると信じていたはずのものも、実のところ、近代においては生政治という形で統治されていたのだというのが、ミシェル・フーコーが見出した権力構造であった(『監獄の誕生』)。

もとより労働というものが、アーレントによれば、蔑視されていた。公共空間に出てきてものを語るという前段階にあって、それは特筆すべき付加価値を持たず、奴隷的な活動に他ならなかった。ここではマルクスの思想や、現代の経済的な付加価値計算のことは忘れよう(本書では縷々述べられているが)。アーティストの「表現」のような公共空間での付加価値、あるいは、「搾取」と自虐的にも語るように私的空間に封じ込められてきた労働、それらのどこに「活動的生」を見出すのか、それは明確ではない。

どこまで両空間の喰い合いを許容するのか、またどこまで喰い合っているのかを見出すのかは簡単ではない。現代のSNSこそが、他者の私的空間に奪われた公共空間の創り直し、私的空間と公共空間との流通量を激増させる関係の創り直しなのではないかと思えたりもする。私的空間の公共空間における可視化は、歴史的にも、明らかに新しい動きに違いない。

アーレントにとっての「政治」とは、くだらぬ統治構造のことではなかった。政治とは力量であり、僭主制の特徴たる無能と悪徳が滅ぼされるのはむしろ暴力によって、なのである。これこそも、SNS空間において何を獲得していくべきかという観点では重要か。

「僭主性が、権力の代わりに暴力を用いようとするつねに空しい試みだとすれば、僭主制と好対照をなす衆愚制つまり愚民支配は、力量を権力によって埋め合わせようとするはるかに有望な試みである。」
「・・・権力とは、人間の手によって形づくられた対象物としての世界を、文字どおり活気づけるもの、すなわちそもそもはじめて生き生きとさせるものである。」

本書の後半では、アーレントは、近代の科学や哲学における目覚めの影響を説いている。すなわち、もはや何かを位置付けるのは大きなマップの上に俯瞰的に行わざるを得ないのであり、私的な「真実」はそこには居場所を持たない。しかし、「世界ではなく生命こそ最高善だとする公準を、近代は無条件的に掲げてきた」、「現代世界にあっても、生命の絶対的優位は明白だと信ずる力はいささかも失われていない」。 

そしてアーレントは思考プロセスの重要性に回帰する。

「外見上は何もしていないときほど、活動的であることはない。独居において自分とだけ一緒にいるときほど、一人ぼっちでないことはない」と。

●参照
ハンナ・アーレント『暴力について』
マルガレーテ・フォン・トロッタ『ハンナ・アーレント』
仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』
高橋哲哉『記憶のエチカ』


ウィリアム・パーカー『Live in Wroclove』

2018-05-14 09:34:43 | アヴァンギャルド・ジャズ

ウィリアム・パーカー『Live in Wroclove』(fortune、2012年)を聴く。

William Parker (b)
Rob Brown (as)
Lewis Barnes (tp)
Hamid Drake (ds)

ポーランドでのライヴであり、豪華なカルテット。誰の演奏も良い(特に闊達なハミッド・ドレイクのドラミング)が、主役はウィリアム・パーカーのベースである。

最初の47分を超える曲では、パーカーはほとんどピチカートにより、柔らかい轟音を創り出し、ただただサウンドを駆動する。駆動の塊である。2曲目のホレス・シルヴァ―に捧げられた曲でのアルコも良い。シンプルな「熱いジャズ」という枷がかけられたフォーマットかもしれないが、その中で最高のパフォーマンスを発揮している。これには誰もが圧倒されるに違いない。

●ウィリアム・パーカー
スティーヴ・スウェル・トリオ@Children's Magical Garden(2017年)
ウィリアム・パーカー+クーパー・ムーア@Children's Magical Garden(2017年)
スティーヴ・スウェル『Soul Travelers』(2016年)
エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール(2015年)
イロウピング・ウィズ・ザ・サン『Counteract This Turmoil Like Trees And Birds』(2015年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)
ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』(2012年)
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(2011年)
ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』(2010年)
DJスプーキー+マシュー・シップの映像(2009年)
アンダース・ガーノルド『Live at Glenn Miller Cafe』(2008年)
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』(2008年)
ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』(2007年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
ロブ・ブラウン『Crown Trunk Root Funk』(2007年)
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』(2006、2003年)
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』(2005年)
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』(2005年)
By Any Means『Live at Crescendo』、チャールズ・ゲイル『Kingdom Come』(1994、2007年)
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色(1994、2004年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)
ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(2000年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2000年)
ザ・フィール・トリオ『Looking (Berlin Version)』
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』(1982年)
『生活向上委員会ニューヨーク支部』(1975年)


エリック・プラクス『Sun and Shadow』

2018-05-13 19:48:33 | アヴァンギャルド・ジャズ

エリック・プラクス『Sun and Shadow』(2016年)を聴く。

Eric Plaks (p)
John Murchison (b)
Leonid Galaganov (ds)

昨年、ブルックリンのBushwicksで観て印象に残っていたピアニストだ。

そのときに面白く思った点は、鍵盤の左右を随分広く使うことだった。その都度、サウンドの構造を創り出すようでもあり、一方では工夫先走りな感もあった。しかし本盤を聴くと、よりハード・ダイナミックに、コード内を左右に広く拡張しまくっており、かなり個性的な人に思える。硬質な翼を拡げて力強く飛翔するようなピアノである。

Bushwickの常連のようでもあり、今後目立ってくるといいなあ。

●エリック・プラクス
Bushwick improvised Music series @ Bushwick Public House(2017年)


ヤスミン・アザイエズ『The 'Jazz' Album』

2018-05-13 10:42:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヤスミン・アザイエズ『The 'Jazz' Album』(-2014年)を聴く。

Yasmine Azaiez (vln, vo)

ヤスミン・アザイエズは、チュニジア生まれのヴァイオリニスト・ヴォーカリスト。いちどNYでジョー・モリスとのデュオを観たのだが、不思議な存在だった。彼女の表現をもっと聴いてみたいと思っていたのだが、こんな音源を発表していたとは。

ここで展開しているのは、たとえば、エヴァン・パーカーに捧げた演奏(循環呼吸のようだ)、そのジョー・モリスに捧げた演奏(モリスらしい単音のポコポコしたインプロ)、優しいヴォイスを入れた「Epistrophy」、混沌的な世界にアプローチするようなセシル・テイラーに捧げた演奏。それから彼女のアイデンティティ。

本人は「Enjoy my nonsense.」と解説を締めくくっているが、なるほど魅力的だ。

●ヤスミン・アザイエズ
アグスティ・フェルナンデス+ヤスミン・アザイエズ『Revelation』(2016年)
ジョー・モリス+ヤスミン・アザイエズ@Arts for Art(2015年) 


ミック・ジャクソン『否定と肯定』

2018-05-13 09:17:03 | ヨーロッパ

病院から抜け出してギンレイホールに行き、ミック・ジャクソン『否定と肯定』(2016年)を観る。

この映画は、1996年に起きた「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」を基にしている。すなわち、ホロコーストは無かったとする歴史修正主義者のデイヴィッド・アーヴィングが、アメリカ人の歴史学者デボラ・リップシュタットとその著作を出していたペンギンブックスを名誉棄損だとして訴えた事件であり、日本でもマルコ・ポーロ事件が起きたばかりの頃であった。

なぜアーヴィングが英国法に準拠して訴訟を起こしたのか、それは、原告側ではなく被告側がその訴えの不当性を証明しなければならないからであったという(知らなかった)。世間へのアピールと両論併記化のため、歴史学の積み重ねを無視して、些細な穴だけの切り崩しによって全体の否定を狙い、著者と出版社をターゲットにするという点では、のちの大江・岩波沖縄戦裁判(2005-11年)にも似ているところがある。もちろんアーヴィングは敗訴するのだが、大江・岩波沖縄戦裁判がそうであったのと同様に、訴えを起こしたことで目的の半分は果たしたようなものであっただろう。

映画は、リップシュタットが良い弁護団を組成してもらい、はらはらしながらもアーヴィングの論理の穴を突いていくという展開であり、言ってみれば単純な勧善懲悪モノである。それでも、日本を含めた多くの歴史修正主義的な事例との共通点を含め、見どころはたくさんあった。

たとえば、体験者・受苦者に証言をさせるのかという点。かれらは記憶を忘却の彼方に追いやりたいという気持を持ち、またその記憶は自分の周辺に限られている。一方で、その記憶をウソだとして滅却しようとする動きに抗したいという強い気持ちもまた持っている。弁護団は、アーヴィングに攻撃する機会(要は格好の餌)を与えるべきではないとして、証言をさせない方針。結局はそれが奏功する。ただ、声なき声というサバルタン的・オーラルヒストリー的なものも重要な筈であって、そこに焦点を当てた画期的なものが、たとえば、クロード・ランズマン『ショアー』(1985年)や、クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001年)、『人生の引き渡し』(1999年)であった。

事件から20年が経ってこのような映画が作られるのだから、これから、大江・岩波沖縄戦裁判についての劇映画があってもよさそうなものだ。

●参照
芝健介『ホロコースト』
飯田道子『ナチスと映画』
クロード・ランズマン『ショアー』
クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』
ジャック・ゴールド『脱走戦線』ジャン・ルノワール『自由への闘い』
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
ニコラス・フンベルト『Wolfsgrub』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
マルガレーテ・フォン・トロッタ『ハンナ・アーレント』
マルティン・ハイデッガー他『30年代の危機と哲学』
徐京植『ディアスポラ紀行』
徐京植のフクシマ
プリーモ・レーヴィ『休戦』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
クリスチャン・ボルタンスキー「アニミタス-さざめく亡霊たち」@東京都庭園美術館
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」


グザヴィエ・シャルル+ミシェル・F・コテ+フランツ・ハウツィンガー+フィリップ・ラウジャー+エリック・ノーマンド『Torche!』

2018-05-13 07:32:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

グザヴィエ・シャルル+ミシェル・F・コテ+フランツ・ハウツィンガー+フィリップ・ラウジャー+エリック・ノーマンド『Torche!』(Tour de Bras、-2017年)を聴く。

Xavier Charles (cl)
Michel F Côté (ds)
Franz Hautzinger (tp)
Philippe Lauzier (bcl)
Éric Normand (b)

グザヴィエ・シャルルは有名なフランスのクラリネット奏者だが他の面々は初耳。ハウツィンガーがオーストリア、あとの3人はカナダ・ケベック州(フランス系)。かれらがそのケベック東部の街で行った演奏の記録のようである。

やはり耳はシャルルを探してしまうのだが、面白さはそれだけではない。各々が楽器との接触において直接的に出てくる音を増幅させてゆき、独自の色のラインを創り出し、それらがより合って集団即興を成している。聴く側の身体とも直結するような感覚。

●グザヴィエ・シャルル
プラットフォーム『Flux Reflux』(-2017年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2014-16年)


刈部山本『東京「裏町メシ屋」探訪記』

2018-05-12 20:24:13 | 食べ物飲み物

刈部山本『東京「裏町メシ屋」探訪記』(光文社智恵の森文庫、2018年)を読む。

すごく楽しみにしていて、発売日に買ってきた。なにしろ「板橋しっとりチャーハン」の提唱者である。「町中華」もこの人抜きには語れない(たぶん)。

いや面白い面白い。こういう分野にマニュアルは無粋というものかもしれないが、とはいえ知らない町の魅力的な店や、近くまでしょっちゅう足を運んでいるのに知らないエリアのことなどが書かれていて、つい食べログに登録しながら読み進めてしまう。もちろん行ったことのあるお店が出てくると、やっぱりねと嬉しくなる。

また著者の視線は、なにも食堂や飲み屋だけではなく、東京の古層にも向けられている。

退院後のフィールドワーク(=飲み食い)のきっかけがまた出来た。ありがとうございます。

●参照
『ザ・閉店2 ―定食・洋食篇―』
(2017年)


マーク・エドワーズ+ウィーゼル・ウォルター『Solar Emission』

2018-05-12 19:51:39 | アヴァンギャルド・ジャズ

マーク・エドワーズ+ウィーゼル・ウォルター『Solar Emission』(ugEXPLODE Records、2011年)を聴く。

Marc Edwards (ds)
Weasel Walter (bass g)
Marcus Cummins (ss)
Jeremy Viner (ts)

マーク・エドワーズ(セシル・テイラー『Dark to Themselves』『Michigan State University, April 15th 1976』のドラマー)が、35年前と同じく腹の真ん中を叩き続ける。人は変わらない、大したものである。対するはノイズ怪獣ウィーゼル・ウォルター、ここではドラムスではなくベースギター。

サンダ対ガイラ、聴いていてアガるアガる。以上。

ところでエドワーズ氏はいまはジャズ・ライターもやっていて、はじめて翻訳しようとしたときに、そのかれだと気づき驚愕した。

●マーク・エドワーズ
「JazzTokyo」のNY特集(2016/10/1)ヨニ・クレッツマー『Book II』のレビュー
「JazzTokyo」のNY特集(2016/8/1)トマ・フジワラ+ベン・ゴールドバーグ+メアリー・ハルヴァーソン『The Out Louds』のレビュー)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』(1976年)
セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』(1976年)

●ウィーゼル・ウォルター
CPユニット『Before the Heat Death』(2016年)
ウィーゼル・ウォルター+クリス・ピッツィオコス『Drawn and Quartered』(2014年)
チャン+エヴァンス+ブランカート+ウォルター『CRYPTOCRYSTALLINE』、『Pulverize the Sound』(2013、15年)
クリス・ピッツィオコス『Maximalism』(2013年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』(2012年)
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』(2009年)


ジョン・チカイ『Solo』

2018-05-12 07:48:29 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・チカイ『Solo』(FMP、1977年)を聴く。

John Tchicai (as)
Albert Magelsdorff (tb) (track-4)

ジョン・チカイは有名なわりに熱狂的なファンを見ない(ような気がする)。それというのも押し出しが弱いからである。

ここでも、普段の息遣いがそのままに増幅され、よろよろと揺らぐ。力によって弱さをコントロールしているというわけでもない。パワープレイによる興奮は皆無である。しかしそれによる幽玄さが魅力なのかもしれない。

最後の曲に、名手アルバート・マンゲスルドルフがデュオで参加する。さすが、見事にチカイの息遣いに寄り添っている。

●ジョン・チカイ
ジョン・チカイ『In Monk's Mood』(2008年)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979、84、86年)
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(1965、95年)
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』(1965年)
『Jazz in Denmark』 1960年代のバド・パウエル、NYC5、ダラー・ブランド(1962、63、65年)