すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもは心もちに生きている

2020年04月04日 | 教育ノート
 教職を辞して4年、当然関連する雑誌は購読していない。しかし今も変わらず季刊で送られてくる情報冊子がある。連絡して止めればいいものの無料配布でもあるし、時々見入ってしまう文章に出会うこともある。今回は特に興味深かった。その一つは秋田喜代美東大教授の冒頭エッセイ。「ならでは」がキーワードだ。


 内容は「日本ならでは」「子どもならでは」といったことへの着目だ。簡単に個性と片付けてしまわないところがいい。子どもの捉え方は、わかっているようでも奥が深い。特に引用されている倉橋惣三(保育哲学の礎を築いたとされる)の言葉は深く染み入った。「子どもの心もち」と題されたその文章に、ほおっと想う。

 「子どもの心もちは極めてかすかに、極めて短い。濃い心もち、久しい心もちは、誰でも見落とさない。かすかにして短き心もちを見落とさない人だけが、子どもと倶にいる人である。」


 「」とは「供」なのかなと予想し、調べたら少し違う。「倶」だけで「ともに」と読むのだそうである(漢字源)。「そろう。そろって行動する」といった意味合いだ。子どもと共にいるとは、そばに居るだけでなく、行動が伴う。子どもが有難く、嬉しいという感情を抱く人はきっとそうである。「倶」の語の重みがある。


 それにしても「かすかにして短き心もち」とは、なるほどの一言だ。子どもの興味関心は常に一定ではなく、次々に移り変わる。こだわるように見せていても、気を逸らすことは意外と簡単でもある。しかし、その変わりゆく一つ一つに意味があることを忘れてはいけない。「子どもは心もちに生きている」のである。

穴のあいた季節に考える

2020年03月26日 | 教育ノート
 今の災禍により卒業式が出来なかったり、縮小されたりしたことが全国共通なので、「ずっと経ってから、2020年春の卒業生だったよと言うと(同じ境遇の人と)仲良くなれるかもしれない」とTVバラエティで発言した若い子がいた。そんなふうに振り返られたら幸せだろう。もちろんこれ以上の拡がりは望まないが…。


 さて、私ぐらいの世代を念頭に置くと、個人的に大学入試で高校の卒業式は出ていないし、大学の式にも参加した記憶がない。周囲もそうだった。それでも小学校や中学校はやはり別だ。やや細かい場面や練習で覚えていることもある。教員経験者としては、その経験の価値は換えがたいという思いはずっと持ってきた。


 卒業担任は4度しか経験がない。その時々で思いは異なったが「卒業式は集大成」という気持ちに変わりはなかった。大半の教員がそうだと思う。小学生の場合、儀式という行事にいかに正対できるか、姿勢・発声・歩き方…緊張する場をくぐり抜ける成長を求めた。意識して参集する通過儀礼の始まりとも思える。


 メインは「呼びかけ」だろう。ただ、改めて客観視すれば、それが漫才のネタにもなるようなステレオタイプが多い。しかしその同様さは、学校教育が安定した基盤で着実に価値のあることを積み上げることが出来た証左でもあるだろう。今回突発的と言える事態ですっぽり抜けたような穴で、関係者はどう考えたか。


 「○○は本当に必要だったのか」という問いは浮かぶかもしれない。こういう機会にこそ真剣に考えるべきだ。つまり、子どもにとってこんな価値があると明確にすることだ。「教室で授業を!」と考える者がいても当然だ。腹を割って話し合いをし、判断し、揃って実践するからこそ、全ての活動が価値を持つのだ。

読解と読書のやさしくない関係

2020年03月23日 | 教育ノート
 作家などがエッセイで、自作の小説や論考が大学入試の読解問題に取り上げられていて、その設問に対して所感を述べる(たいていは正解に対する疑問)ことがよくある。詳しい中身まで書いている場合が少ないので、ナルホドだから読解というのは難しいもんだね…といった結論になりがちのような気がする。


 『ちくま』4月号では、詩人最果タヒが連載でそのことを取り上げている。自分の書いたエッセイが入試に出題され、「あんまりに自分の文章が難しくて」と面白いことを語っている。著者と出題者の観点のずれはよく指摘されることだが、その相違を見事に言い切った一節があった。

 国語の読解問題とは結局は、「この文章が伝えようとしていること」とか「読み手が受け止めること」を問うのではなく、とことん「何が書かれていて、何が書かれていないか」を問うものであり、契約書をちゃんと勘違いせずに読めるか的な、そういう「正確な読み」を試験しているのだろうなと思う。P60


 確かにその通りと思いつつ、そういえば30年も昔、初めて3年生を担任して、最初の物語文の授業を思い出す。「想像の翼を広げる、豊かな読み」の子のお喋りを「そんなことはどこにも書いていない」と否定し、涙ぐませた未熟な教員だった。分析批評に手を出し始め、限定的で幅も余裕もない授業をしていたなあ。


 先日読んだ『本を読めなくなった人の~~』にも記述があったが、読書において「正しい読み」という視点は、実は一通りではない。個人に帰すると言っていいだろう。文章から読み取れるのはあくまで限定的であり、それを最果はこんなふうに記している。

 読書とは自分だけの正しさを見つける行為で、国語の試験は間違えないことこそが目的なのではないかなあ。


 わが師が言うところの「妥当さ」をどのレベルまで突き詰めていくか。読解の授業づくりはそこを一つの起点に置く必要がある。読解と読書は安易に結びつかないことを、今さらながら痛感する。

小噺挨拶という諦念

2020年03月02日 | 教育ノート
 4年前の、「小噺」挨拶の一つ目はこうだった。

★5年生の学級で、保健体育の時間に、応急手当について勉強していました。
先生が尋ねました。
「もし、小さい弟か妹が、まちがってウチの鍵を呑み込んだら、どうしますか?」
みんなが考え込んでいると、三郎君が目をきらきらさせてハイと元気に手を挙げました。
先生が「三郎くん」と指名すると
三郎君は、自信満々にこう答えました。
「ぼく、窓から入ります!」★


 この三郎君を、教育的に分析してみると、2つの点で残念だということが言えると思います。

 一つは、学習、勉強の意味、めあてをとらえていない。保健体育の応急手当てのことを考えているのだというその時間のめあてがすっかり抜けたということ。
 そして、もう一つは、弟や妹のことを考えず、自分のことばかり考えている。兄弟の身体の心配より、自分が家の中に入るためにはどうしたらいいか、という発想を持ってしまっていることです。
 本校の目標「ぜんしん」からすると、一番目の「前へ進む」二番目の「善い心」は、まだ育ってないと言えるでしょうか。

 しかしどうでしょう。三番目「全ての身体」ということからすると、元気よく手を挙げたり、返事をしたり、何より先んじて積極的に発言しようとするその姿勢には、大きな可能性を感じますよね。

 一昨年でしたか新聞に取り上げられた記事で有名になったことで、最近も本校職員が研修のなかで紹介していたのですが、ニューヨークの大学教授が2030年の職業・仕事について語っていることがあります。
 それは、2030年には(今から15年後ですね)今の小学生の6割は、現在存在していない職業につく、という予測データです。技術革新、情報化による社会の激変がそれほど進むのだということだと思います。
 この世界に対応していくためには、何が必要なのか本当に真剣に考えなくてはいけない、と思います。(略)



 二つ目は、挨拶の締めとして使った。

★教室の黒板にひどい落書きがされていました。教師は怒りを抑えて、しずかに聞きました。
「こんなひどいことを書いたのは誰ですか?」
何の反応もありません。
「そうかあ、よし、わかった。みんな目をつぶりなさい。やった人は、正直に手を上げてください」
…5秒後、教師はこう口を開きました。
「はい皆さん目を開けて、ありがとう。…佐藤さんは、後で職員室に来るように。」★


 どうでしょう。世の中には結構怖いことがあります。
 「人生、甘いことだけじゃない」
 「理不尽なことはたくさんある」
 ということも、折にふれて教えてやれるのは、やはり親ではないかと思います。(略)



 少し笑いを交えてという試みがよかったのかどうか。
 今になっても取り上げてみたいと思うのは、やはり自分はこの筋かという諦念と開き直りか。

昭和期の担任、勝手に語れば

2020年02月28日 | 教育ノート
 前代未聞とはこういう時に使うことを実感する。多少なりとも予想はしていたが、臨時ニュースとして伝えられた「全国一斉休校要請」には、えっと声が出た。40年近く務めた現場では、どんな混乱が起きるのだろう、自分がもし卒業担任だったとしたらどうするだろう…しばらくの間、頭を駆け巡って離れなかった。


 様々な意見や批判を目にするけれど、実際の場にいる者はそんなことより先にやるべきことが山積されている。事務的な手続きに関しても面倒を抱えることが予想される。しかしそれは、他の力を借りたり任せたりして効率的に進めればいい。一番肝心なのは子どもの心構えづくりだ。それは担任にしかできない仕事だ。


 自分なら…あくまで「昭和期の担任」としての夢想だが…「手紙を書く」ことか。もちろん通常時もメッセージは送っていた。しかし今回はその重みに違いが出る。この学年、学級へ願っていたことを少なくとも11ヶ月間は続けてきたわけだから、それとその子の関わりを綴ってみたい。良いことも悪いことも、だ。


 書き出すことによって、生まれる「問い」。おそらくそれはその子に向けられるより自分に向けられる。目を背けず、そして二人が共有できるような表現を練らねばならない。ある面では苦しく辛い情況になろう。しかし子どもに届けたいのは、いつの場合も「問い」だ。もちろん、その子のよさを錬りこんで発したい。


 憧れたM先生の通知表所見は、子を「呼び捨て」で書き、熱い願いに溢れていた。いつか自分もと思いながら一歩も近づけず機会を失った。その無念さが、今こんな勝手な文章を書かせたか。ただ休校によって物理的に十分ある(だろう)時間を、担任である重さや喜びの実感に浸るためには、この策も案外いいかも…。

「大人のいじめ」が普通な訳

2020年02月08日 | 教育ノート
 NHKクローズアップ現代で「大人のいじめ」と題された放送があった。神戸で教員による「いじめ」が大きく報道され、話題になった一件を前半に取り上げ、他の職場事例へつなげていた。コメンテイターの一人が「学校文化」という言葉を使いその背景を説明した。ある程度納得できたが、後からふっと思い直す。


 辞書は広義だが、「いじめ」の定義は文科省から学校の指導に関する文言と受け止めていた。その範囲がどんどん広がり児童生徒だけでなく教員、そして学校組織のみならず、一般の職場やコミュニティまで浸透した。「学校の社会化」に対し「社会の学校化」が進んでいるという論が以前からあるが、まさにその通りだ。


 最も本質的だと感じたのは、加害者として語った女性の一言だ。「生き物として必要だからいじめる。プチカーストみたいな感じ。」…ひとまず、これを受け入れるべきだ。集団で暮らす以上、多かれ少なかれそういう感情が湧き上がり、言動に表れるのは当然だ。そのうえでどう向き合っていくか。不幸な道の進行をどう防ぐか。


 困難な事態への対処方法を考えるだけより、真っ当な向かい方こそ肝心と今さらながら感じたのは、コメンテイターの石井が語った少年院の例だった。「美徳カード」というものを配り「『きょうどれだけ美徳をしましたか』ということを評価基準にする」という。言動についての積極的な働きかけこそ、原理原則であるはすだ。


 甘っちょろい手立てと笑われそうだ。しかし世間が「大人のいじめ」を普通と捉えることは、「大人」自体の意味を弱くする。それは「小人」の頃から、その場しのぎの現場だけを見て育ったからとは言えまいか。いい事をしようという正論をど真ん中に据えて学校が成立しなければ、社会が成熟するわけはないだろう。

求めていたのは、それだったか

2020年01月29日 | 教育ノート
☆6 ボツボツと四半世紀前の事

 いくらでも書けそうな気はするが、思い出し疲れ(笑)も出てきたので、少し歩を速めて記し、いったん締め括ることにする。


 研究指定を受け、翌年の公開に向けて学校が動き出した。
 職員異動規模もその年度は大きく、少し様相も変わった。

 教頭が昇任し異動となったので、この年から「学校報」を書く担当となった。
 ワープロ文豪5で、写真も取り込みながら校外への通信活動がまた始まった。

 考えるとそこから退職まで途切れなく、ちょうど20年間延べ8校で学校報を書いたことになる。ふと想う。同じようなキャリアを持つ教員は果たしてどのくらいいるのか。

 微々たる上達ではあるが、間違いなく編集技能はアップした。
 量として平均しても週1以上は発行しているはずで、総計1000は軽く超えるだろう。
 今確かめたら、初年度は87号まで出していた。



 「馬音」で始まり、「馬音」で終わったことにも因縁めいたことを感じる。
 ここは思い切ってライフワークだったのかと言ってしまうか(笑)。


 さて、指定研究は「教科」「道徳」「特活」の3分野でそれぞれに進行していった。その詳しくはあまりに膨大になるので書かないが、いくつか印象深く忘れられない点がある。

 一つは二年目、公開に向けて最後の指導主事訪問だった。
 授業参観し、研究協議をし、指導助言をうけるいつものパターンである。
 その場を総括する担当主任指導主事の助言は、ずいぶんと改善指摘が多かった。
 もちろん評価していただけた点も少なくなかったが、自分自身はその助言全体が腑に落ちなかった。
 公開日まであと三か月ぐらいではなかっただろうか。

 普通はタブーのことなのだろうが、細かい点を含めて反論の手紙を出した。
 そのいちいちは覚えていないが、大きく二つ、教育事務所としての一貫性を問うこと、そして指導助言が職員の励ましとなり得たかというメンタル的なことだった。
 あくまで私信であると断り、思いの丈を述べたことに後悔はなかった。
 学校に対する見方、私個人に関することで、何らかの影響があったはずだが、表面的な大事にはならなかった。

 もう一つは研究紀要の改善である。
 「読まれる紀要」への試みであり、典型的なのは巻頭言に換えての「巻頭対談」という形だった。
 校長と教育長に「豊かな心」をテーマに語ってもらい、それをまとめた。
 何が「豊か」かは、それぞれに異なるだろう。
 しかし、少なくとも意義のない前例踏襲は辞めたいと思った。

 その後、どんなふうに波及したかはわからないが、そんなこともできる、こういうやり方もあるのだなと、少しでも心に留めてもらえたように述懐できる。


 上の娘が3年生の時赴任し、卒業するときまで4年間在職した。
 その学年2学級に対して、同一展開で「やまなし」の授業をすることもできた。
 職員で「劇団馬音」を組織して、学習発表会や祝賀会等で演じたりもした。

 よく動いたなあという思いがふつふつと湧いてくる。


 今「働き方改革」という言葉を聞くたびに、学校現場を想像して気にかかるのは「働き甲斐」という点だけである。

 ただ忙しく目まぐるしく過ごした時期ではあった。
 しかし、確かに「働き甲斐」はあったなあ、と四半世紀前を強引に括ることはできる。

たよりをたよりにして

2020年01月28日 | 教育ノート
☆5 ボツボツと四半世紀前の事

 『授業づくりネットワーク』誌(学事出版)94年10月号に「たのしい実践」という枠で5ページにわたって、「学級通信で鍛える」と題した文章を載せた。
 それはその年に学級通信という「すばらしい特権」を失ってしまった自分の一つの区切りであったと言えるだろう。
 一方で、職員間の通信活動にも興味を持っていた私は、その年に不定期ながら10回ほどの教務だよりを出していた。

 そして、初任者二人が加わった翌95年度、通年で45号の教務だより「為」(つくる)を発刊した。
 4月中に出した5号までのタイトルを拾ってみよう。

1号 いいスタートをきる

2号 どんな学習ルールをつくるか
3号 学級経営案をつくる
4号 鍛えたい力①~視写、聴写
5号 「ウキョーシン」って何ですか


 事務的な連絡や指示が中心にならないよう、できるだけ自分の言葉で具体的な例を示しながら、書いたつもりだ。
 今読むと当たり前のことが多いが、まだ技術や技能が共有財産であることが徹底していない時期だったと思う。
 オープンに互いの実践を公開、交流しあう雰囲気づくりには一役買ったはずだ。

 この教務だよりにざっと目を通してみると、二年目のこの年に踏み出して提案し、学校ぐるみで実践できたことは多い。

 例えば、前年までの運動会から一歩踏み出し、PTA参加の枠を拡大した。
 これは地域からも好意を持って受け入れられた。
 そして、図書集会、ふるさと学習会という全校イベント。これらは当時としてはかなり斬新ななかみだった。コーナーを複数設定して選択制にするという試みだった。
 もちろんまだ不十分な面はあったが、子供たちには好評で活気ある時間を創造できたと評価している。

 「新しい学力観」「開かれた学校」「生きる力」…次々に登場してくるキーワードを、どのような形として具現化するか。それが本当に子どもの力に結びつくのか。迷いはあったが、創意工夫しながら進むことの充実感も感じてはいた。


 そんななか、次年度からの文科省・県教委指定が決まる。
 「豊かな心を育む」というビッグな文言は、囁かれ始めた「総合」を意識させるものだったが、ピントが甘い気もしていた。

歴史的な混沌の中で

2020年01月27日 | 教育ノート
☆4 ボツボツと四半世紀前の事

 たしか「指導方法の改善」という名目で、ティームティーチングの職員加配が始まっていた。
 郡市内で児童数の多い学校が対象になって動き出していて、N校もその一つだった。
 滑り出しは研究主任が主担当として算数などの教科で、いわゆるT2として入るのが多かったろう。そこから教務や教頭へと拡大し、授業の持ち時数の数的な例が示されてきた。

 変わりゆく児童の実態に照らし合わせれば、妥当な策だったと思う。
 しかし、職員全体としての隙間がなくなり、効率化のもとに余裕を失っていく状況も見られた。それが「ゆとり教育」というフレーズの浸透とともに、学校の多忙が進んでいった軌跡と重なることも皮肉に思える。


 さて担任外の自分は、当初からTTよりいろいろな時の補教、あるいは、特定の内容の授業を受け持ち、担任に空き時間がある方がいいのではないかと考えていた。
 また要望があれば単発の授業をし、担任に授業の見てもらう(子どもを観察する時間として)ことが有効ではないかとも考えていた。
 たしか最初に詩の授業を行った4年生の学級で、若い担任から「ベルばらみたいだ」(懐)と言われた記憶がある。そんな演劇的ではなかったと思うのだが…。

 本格的とは言えないが、6年生の2学級に週1時間程度空けてもらい「作文教室21」と名づけ、短作文の授業を継続した。11月から2月まで各組21時間(欲しかった)構想だったが、なかなか調整がつかず十数時間で終わってしまった。
 これも、野口芳宏先生が教頭職で「作文週1時間」を受け持っていたというお話を聞き、提案したものだった。
 内容は自慢できるものではなかったが、2学級で同じねらいで進めたこと、短作文連続単元の一例を示せたことなど、多少の成果はあったのではないか。

 今、記録を見返すと、私たちの世代には懐かしい「『私は、教室の窓から外を見ていました』という文につながる一文を書きなさい」という指示からその授業は始まっていた。

 展開スタイルは「説明・例示 →記述 →発表・交流・まとめ」と時間で区切った。作品紹介も学年通信を使って行った。
 今改めてみると、学習状況調査にはずいぶん役立つだろうなと、早すぎた実践(笑)に思えてくる。
 いや、そういえば自分はずいぶん前から仮説社などの資料でこうした文章表現を志向していたことを思い出した。


 94年は歴史的と言える「自民党・社会党・さきがけ」の連立政権が誕生した年である。その騒ぎがどのようであったか、今は思い出せない。そして年が明け、1/17で始まった95年は、3月に地下鉄サリン事件が起きる。

 世の中の騒がしさが、そのまま学校現場に映しだされたわけではないが、やはり大きく舵がきられている時期であることを今さらながら感じる。
 95年度も続けて綴ってみたい。

限られた時間の中を人は進む

2020年01月25日 | 教育ノート
☆3 ボツボツと四半世紀前の事

 意を尽くす話し合いの価値は認める。
 しかし、仕事としての会議はそれを幹とはできないだろう。

 教員になった頃は、冬になると締め切った職員室にたばこの煙がたなびいていた。時にその中で繰り返される、思想や矜持のぶつかり合い…と、今は昔のはなし。


 94年5月「職員会議実施要項」と名付けて数ページの冊子を作った。

 昨年までの職員会議録に目を通し、月ごとの協議内容と提案部会、責任者を一覧にしておくことが一つだ(これは今ならごく普通になっているし、PC管理で簡単だ)。
 そして、もう一つは時間管理である。
 これは時刻明示と案件処理区分だった。
 具体的には、勤務時間を越えそうな場合は一定の時間を示して予告する。
 同意が得られれば延長、延長が困難な場合は案件を三つのパターン(担当部会一任、時間をとった継続協議、管理職一任)で処理していく内容だった。
 これによって、職員会議はほとんど時間内で済むようになった。

 「時間を守る意識」は当時もっとも強調したいことだった。
 数年前の指定校公開が拍車をかけたのか、研修会議が夜遅くまで続けられるという「伝統」があった。
 これについては少し時間がかかったが徐々に正常化できた。
 その2年後、また文科省指定を受けることになるが、この時に一定の形を作ったのは結構大きかった。

 研修を個人ですることはいくらでも構わない。しかし、他者と共に行うためには、最もマネジメントするべきは時間だ。
 ただ、その中で活発な論議を交わせなければ、単なる管理にしかならない。要は焦点化させること、柔軟な発想を呼び起こす設定や下準備だと考える。

 まとまりはつかないが、そのために結構あれこれと動き回り、浸透できたような気がする。
 今思っても、ベテラン教員は温かく、中堅層は活力があり、新人層は個性的で、いいメンバーだった。いろいろな人に支えられた。楽しかった思い出として残っている。


 職員会議実施要項を「緻密だな」と評価してくれたT校長は、職員室内の隣の席だった。
 ワープロ作業しつつ、ずいぶんと話に耳を傾けならねばならなかった(笑)し、すぐ動く態勢で待つ秘書みたいなものだった。

 「一緒にやるぞ」と声をかけられ、トンカチを持って校庭の遊具点検をする。
 さらには、「通知表を見るぞ」と言われ、校長室で全学年の通知表点検もした。
 校長が所見欄にあまりにたくさんの付箋を貼り付けるので、これではあまりに担任が難儀と「必要なし」と勝手に判断し、こっそり付箋を外してしまう生意気ぶりも発揮できるようになった。
 当然ながら、手書き、修正液使用の時代の話である。

 もっとも、このT校長とこういうひと時を共有できたのは、わずか四カ月。
 共同作業と言えるものはそれが最後になったのだった。

 夏休み。旧盆を来週に控えた日の早朝、I教頭より電話が入った。

 「校長先生がよお、なんだか身体の調子がうまくなくて…、」

 何のことだと思った。
 自宅で就寝中に急死したという意味とわかるまで、少し時間がかかった。
 さっそく駆けつけ、まだ布団の中に眠ったようにしている姿を見たことはいまだに忘れられない。
 隣席で「来年になったら、~~したい」と退職後の夢のあれこれ語った口調もまだ耳に残る。

 大変な事態であった。
 携帯電話がまだ普及しなかった時期である。葬儀に関する細々としたことも職場で行った。
 夏休み中であっても対外的な行事等は結構あった頃、停滞は許されなかった。

 休み明け、二学期が始まり、新校長を迎えて通常業務に戻っていった。

 こんなふうにしながら、痛ましい出来事を時間と共にみんなどこかへしまい込み、人は進んでゆくのだと思った。