すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

10年前、そのなんと密なること

2020年09月24日 | 教育ノート
 気まぐれにUSBに残っている昔のデータを覗いた。校長になってから勤務した4つの学校でブログを開設し、継続してきた。そのことに対する自分なりのねらいやこだわりは、以前記していると思う。そして転出と同時にデータをネット上からは消去することも続けた。これは一つのけじめである。でも懐かしい。


 10年前ということで、その部分を開いた。M小学校に勤めていた2年目、二学期が始まって少し経った、いわば年度の一番の充実期を迎える頃だ。児童の活動写真などを中心にコメントを添える形だったので、たいしたことは書いていないが、自分でも「拍手」ボタンを押したくなるような記事もほんの少しはある。


 2010/09/03は子どもたちの二学期のめあてが書かれている掲示物を紹介しながら、学年や学級の違いにも触れていた。そして、最後にこんなことを書いている。

 一学期に「目標に数字を入れて」ということを全校集会で話しました。それを思い出してくれたのか「○回以上」という表現も目立ちました。大切なことでしょう。 しかし、二年生の一人の子が書いたこういう目標もあり、素直にいいなあと思いました。担任と話しながら決めたと聞きました。それがまたとても大事なことだと思います。

 話の聞きかたをがんばる(こころで聞く)


 プールの授業も終わった中旬になったらPTA事業も目白押しだ。
 2010/09/11の土曜日は「PTA研修部主催の親子による『米粉パンづくり』」だ。親子仲よく楽しそうに調理し、試食する笑顔がまぶしいほどだ。

 なんと次の日2010/09/12は「日曜参観日」を実施している。それぞれの学級の学習参観後には全校児童による親子レクリェーション。当時の児童数から考えると350人以上は確実に集まっている。



 なかみは親子ペア体操と対抗ドッジビーである。その密接度が実に懐かしい。


 その週の木曜日は5年生が、自然体験教室ということで隣市の少年自然の家へ宿泊学習へ向かったことが記されている。そして二日間のスナップが挙げられている。
 もちろん、マスク姿など見えない。

 今さらながら、この自然な姿が戻ってきてほしいと心から願う。

重箱の隅から見つめていた何か

2020年09月06日 | 教育ノート
 (前日からの続き)その「挑戦」問題は、5問で構成されていた。出した内容は、サークルでの話題を含めて、当時の自分の関心事を見事に表しているのだと思う。そっくり転記すると、こうだ。

① 国語科指導の名人と言われる野口芳宏先生が開発した読解指導のための有名な手法は何ですか?
② 中島元文部大臣は「東郷平八郎」を取り上げることに反対しましたが、その理由は何だったといわれていますか?
③ 例年のように新学期前の教育雑誌には、子どもたちに紹介したい詩として、蒔田晋治作のある長い作品が載ります。その題名は?
④ 絵の模写をさせる時、天地を逆にした絵を与える方法がありますが、これは何のためですか?
⑤ 体育同志会が開発した基礎的な泳法の名前は?




1 正解は「吹き出し方」である。国語や道徳で用いられているこの伝統的な指導技術は、野口先生が開発されたことを知り、傾倒している者として何か誇らしい気持ちになっていたのか。

2 ちょっと文章が舌足らずなことを反省。小学校の歴史教科書が「人物重視」に変わろうとしていた時期、当時の文部大臣がこだわりを見せた一件として印象深い。戦争において英雄視されている人物を取り上げることの危惧を、きちんと与党議員が持っていたのだなあ。

3 「教室はまちがうところだ」…この名詩は今も息づいているだろうか。その精神は不変だと考えるが、おそらくかなり窮屈になっている。

4 対象をよく見つめる大事さを、どのような方法で示せるか。具体的な技術として提示したいい例だ。固定観念をくずす、そのことによって「右脳」を鍛える、そんな論議もよくした。

5 ドル平泳法…これは実技と理論をきっちり学んだ一つだ。80年代の自実践の中ではやや誇れるものだ。ひたすらに子どもたちを泳がせる自分の「体力」も備わっていた。(正確には学校体育研究同志会)


 微細な技術にこだわっていたのは、子どもを動かし、考えさせ、力をつけさせたかったからだ。同時に個々の技術の持つ思想に興味を持っていた。今でも思い出せる典型的なことは、教育技術の法則化運動の提起した「ゴミの拾わせ方」に関することである。「数字を入れて、目標を示す」技術はその始まりに過ぎない。


 「ゴミを拾いなさい」から「ゴミを10個(20秒で)拾いなさい」へ。その次には「教室をきれいにします。ゴミを~~~」となる。次は目的のみとし行動を任せる。「教室をきれいにします。(20秒で)自分にできることをしなさい」。その段階を経てイメージするのは当然、それらの指導言が使われなくなることだった。

重箱の隅を見つめていた頃

2020年09月05日 | 教育ノート
 驚いた。そしてちょっぴり嬉しくもあった。調べる事柄があり閉架書庫へ入った。以前の職員録を見つけ出し必要な資料を出そうとした時、その背表紙に目がいった。「あくと」と手書きで記されている。これはもしや…と思い、取り出すと案の定かつてのサークルの冊子である。日付は1990.3.28。30年前の集約だった。



 「あくと 第5集」と表紙にはある。開くと目次、そしてメンバー10名の名前が記されていた。このうち半数は既に退職している。来春、その齢を迎える人も3人いる。この冊子自体は当然自宅にもあるので何度か目にしているが、公的な場でしかもバーコード貼り付けできちんと所蔵されていることが誇らしかった。


 当時、館長をなさっていた田口恭雄先生にはずいぶんとお世話になった。サークル全員で授業する詩の選定をお願いしたり、実践集約への感想等もいただいたりした。そんな関係で冊子を何年か続けて送付した。一冊ではあったが、こんな形で残してくださったのだなあと、今さらながら感謝の気持ちが湧いてくる。


 三十代半ば、普通なら生意気盛りを脱してもいい時期だが、ずいぶんと尖がった文章を書いていた。今読み直すとその粗さが恥ずかしい。職場でストップモーション方式による授業研究を年間通じて実施した年度だった。近隣サークルと合同研修会も立ち上げた。「重箱の隅をつつく奴」と某女性教師に非難された頃か。


 「オレがオレが」という性格ではないのだが、足並みを揃えることが美徳の本県で異質と見られたのは確かだった。それゆえか仲間を増やしたいと願っていたことは、この集約の「あとがき」の次!のページによく表れていた。冊子を贈った方々へ対して、なんと「挑戦!」と名づけた問いかけをしているではないか。
 つづく

大人問題に一理を示す

2020年08月31日 | 教育ノート
 五味太郎という人は、結構辛辣な物言いをする。しかし、光村図書出版の『飛ぶ教室』の編集長になったりして、教科書関連でも取り上げられるし、多彩な活動は注目している。読み始めた文庫本『大人問題』の冒頭には、絵本や図書のことなどが書かれてあり、また興味深い。読む人によってはきつい一言がこれ。

 「絵本の読み聞かせ」というやつ、ぼくは嫌いです。子どもに本の楽しさを教えたい、読めない子どもに読んであげたい…といったスタンスがまず変です。そしてなにしろ、そういう運動をしているおばさんたちは芸がなくて変な読み方をするから、つまらないのです。めくるテンポがずれているから、もうちょっとそのページを楽しみたいと思っているのに、パッとめくっちゃったりするのです。(P18)


 「一理ある」と素直に思う。絵本と対面するのは「個」であり、いくら幼くとも出会いは一人一人に任せられるべきという点はその通りだ。ただここで語っている指摘は、母親が赤ちゃんに対して読み聞かせている姿を想定しているわけではないだろう。幼児や児童を対象とする枠のある読み聞かせに向けられている。


 では、自分も「一理」示さねばならない。学校における読み聞かせ活動について考えてみる。勤めていた時は当然仕事の一部として読書推進をしてきたが、その延長線上にあるわけではない。ただ学校教育における位置づけはある程度理解している。私たちのような外部人材が入る意図は、「刺激」に尽きるのだと思う。


 読書刺激を与える…そう考えると、一つには「本を選ぶ」ことにある。選書の範囲を広げるためのきっかけになり得る。二つ目は「読む表現の楽しさを伝える」ことにある。これは単純ではない。伝えられる努力が必要であり、受けとめる側にとって「余計なお世話」になる可能性も十分持つ。表現の宿命といえるか。


 そうであっても小学生が「多様」な読み方に触れること自体、ブラスに作用すると信じている。もっと言えば、傍にいる教員に対してもそういう場になれば、もっといい。が、これは欲張りか。楽しさを伝える困難さに負けず、今週も、五味太郎の絵本を持って教室へ出かけよう。変な読み方と言われても…(おばさんではないけど)。




ねこだらけブックトーク

2020年08月22日 | 教育ノート
 休み中の「放課後子ども教室」にお呼びがかり、持っていく本を選んでいたら、何気なく「ねこ」にはまってしまった。「ねこ」を題にした児童書は多いものだ。本館蔵書検索をしてみたら198冊と出た。いつもの学校読み聞かせは時間が限られているが、今回は少し余裕があるのでブックトーク的にできないと考えてみた。

 もちろん全部を探すことはできず、手当たり次第となったが、とりあえず8冊を選ぶ。対象学年の範囲が広いはずなので、低学年向けを中心に高学年にも通用する本を選びたいと思った。ラインナップは次の通りである。

『ねこです。』(北村 裕花 講談社)
『ねこだらけ』(あきびんご  くもん出版)
『ネコヅメのよる』(町田尚子 WAVE出版)
『ねこのそら』(きくちちき  講談社)
『ゆめねこ』(真珠まりこ  金の星社)
『ねこのき』(長田弘・大橋歩 クレヨンハウス)
『私はネコが嫌いだ』(よこただいすけ つちや書店)
『100万回生きたねこ』(佐野洋子 講談社)


 導入は『ねこです。』
 ねこの姿をアップにしたり、バックから見たりして、いろいろな形を見せてくれる絵本だ。

 次の『ねこだらけ』は読み聞かせはできないが、様々なねこの種類を並べたり、外国の衣装を着させたりしてする形で、400匹を載せている。



 『ネコヅメのよる』は、昨年どこかの学校で読み聞かせした。写実的な絵が素晴らしく短いけれど引き込まれる展開なので、これはぜひ読みたい。

 『ねこのそら』、これは独特なタッチだ。平易だけれどファンタジーさがあり、印象に残る絵本だ。

 『ゆめねこ』は、ユーモア絵本の類と言えるが、これも独特のタッチもあり読んで聞かせるには面白いだろう。

 『ねこのき』は、ずいぶん以前に発刊されているものだが、心に沁みる。長田弘の文にはまっている自分としては、読みたい一冊だ。

 この並びで紹介していきながら、『私はネコが嫌いだ』を出す予定だが、低学年がほとんどであれば、必要ないだろうか。少し迷う。反対したのに娘が飼いだした猫とともに過ごした日々が書かれていて、一貫して「ネコが嫌いだ」と男性は言い続けるのだが、猫とともにだんだん年老いて…といったような話。いつか読みたい。

 最後に名作として、上学年になったら読んでほしいと『100万回生きたねこ』を出そうと構想してみた。


 金曜日午後。
 「ねこ」のブックトークをだいたい20分ぐらいで予定通りに、十数名の子たちを前に行う。
 順に見せていきながら、3冊を読み聞かせをすることが出来た。楽しんでもらえたようだ。おわった後に、ある子から家の猫話をマシンガントークで聞かされたことも嬉しい(笑)。

 もう少し準備をして、やりとりを入れれば面白いかなと思えたのは収穫だろう。
 次は何をテーマにしようかと思い始めている。

クイズにある古臭さを越えて

2020年07月11日 | 教育ノート
 読み聞かせにぜひ取り上げたいと思っていた一冊があった。『オレ、カエルやめるや』である。昨年11月に別サイトで紹介していた。その後チャンスがなく、今回2年生が相手だというので、満を持して持っていくことにした。もう一冊はネコが登場する話で、若干の余裕がありそうで、フリートークもいいかなと思う。



 カエルのクイズでもしてみるかと、書棚から『子どもにウケるたのしいクイズ』(坪内忠太 新構社)を取り出し、開いてみる。「アマガエルは雨がふるまえに鳴く。なぜわかるか」…これはちょっと説明が必要か。「ヒキガエルの寿命はどのくらいか」…うん、これは明快だ。①1年 ②10年 ③30年 さて、どれか。


 この本には③30年とある。そんなに…と思う。では今この周辺で目にしたり鳴き声を耳にしたりする種類は、田んぼにいるアマガエルだからそちらはどうだろうと検索してみる。これは5~7年だそうだ。さて、そのサイトでヒキガエル(ガマ)を調べると、なんと長くても10年と載っているではないか。おいおいっ。


 とたんにクイズ本の信ぴょう性が薄らぐ。TV番組では相変わらずクイズ番組が流れ続けているけれど、この類は詳細データを最新にしないと混乱が生ずる。バラエティとしては面白いのかもしれないが、教室という場では安易に使えないという気持ちが湧いてきた。そもそもクイズにある正解指向が古いかもしれない。


 ということで合間の話は「最近よく鳴くアマガエルってどのくらい生きると思う?」と軽く問いかけ、みんなと齢が同じの蛙もいるんだね、と読み始めた。内容は文句なく面白く盛り上がる。読み聞かせ後、一緒に聴いていた先生がこう話し始める。「今のお話で○○はなんという▲▲でしょうか、はいっ」…おいおいっ。

その一瞬の真実だけを

2020年05月11日 | 教育ノート
 土曜日にEテレで放送された「ETV特集」は見応えがあった。

「映画監督 羽仁進の世界 〜すべては“教室の子供たち”からはじまった〜」

 残念ながら直接観た記憶のある作品はなかったが、部分的に映された箇所だけでもその凄さが伝わってくるようだった。
 羽仁進の著書はいくらか読んでいると思うし、TVなどで評論家のように登場して話している場面はいくらか観ている。しかし、映画監督としての偉大さについては恥ずかしさながら認識不足だった。

 取り上げられた「教室の子供たち」という記録映画には、副題としてなんと「学習指導への道」とあり、羽仁は「教えられない子どもがいる」という言い方で、多様な子どもたちの生態に注目しているのだった。

 次の「絵を描く子どもたち」では、なかなか「描きだせない」子に着目し、子どもがどのようにして心を開いていくか、置かれた環境を含めて明らかにするような展開だった。

 その後の「不良少年」という映画は、ドキュメンタリーではなく劇映画という範疇になるが、それは役者ではなく素人つまり「本物の不良」をキャストにしていた。等身大の言動を求める撮影の一端も紹介されていて、実に興味深かった。


 2020.5.3 その日だけの共演

 羽仁は、ドキュメンタリーと劇映画に違いはないという考えを持っている。
 それは、いわば「過程」や「練習」の否定といった見方もできよう。

 その一瞬にある真実だけが価値を持つ、そこを切り取っていくという姿勢だ。
 むろん作品である以上編集という要素は抜きに出来ない。しかし、画面から確実に訴えかけてくる姿だけを相手にしていたというべきか。


 番組中に何度か是枝裕和監督が登場し、作品を見ながら語っている。自ら認めるように彼のつくる映画が影響を受けているのは確かで、今後の作品をみるうえでの視点が深みを増したような気がする。

 娯楽映画ばかり見てきた若い頃を少し悔やむような気分がわいてきた。

「なんだろう」と道徳

2020年04月20日 | 教育ノート
 職員とは言えど当然貸出規定は守るわけで、休館になる前日にいくらかまとまって本を借りてきた。新書や小説の他に孫用絵本を探すうちに、ヨシタケシンスケの新しい本が目に留まった。見過ごしていたようで去年12月発刊とある。びっくりしたのはなんと「光村図書」とあること。教科書会社が…あのヨシタケを…


 『なんだろう なんだろう』ヨシタケシンスケ(光村図書)



 帯を見ると小さくこんなふうに記されている。「道徳教科書(小1~中3光村図書)のコラムが、かき下ろしを加えて一冊に!」そうかあ、光村もなかなかやるなあと思いつつ、ページをめくってみる。学校帰りの子どもが近所のお母さんに「どう?がっこう」などといろいろ訊かれ、別れてから考えを巡らす設定だ。


 「なんだろう なんだろう 『がっこう』って なんだろう」というパターンで項目立てされ、見開きの2ページの体裁でヨシタケワールドが展開していく。『たのしい』『うそ』と続き、学校について教室で会話しながら今度は『友だち』『しあわせ』『自分』が取り上げられる。こういうスタイルならコラムにふさわしい。


 エンディングも心地よかった。光村図書を検索してみたら、サイト内にヨシタケへのインタビューページがあって、結構なボリュームだった。内容も充実していた。「道徳ってなんだろう」と題したことも洒落ている。教科書の充実が、現場の実践に結びついてほしいが、根本は教師自身の問いの深さのような気がする。

 
 ふと今ならと、浮かんだのは「自粛要請のなか、桜の名所に足を運んでいる人たちの姿」。この様子を子どもたちに見せ、どう思うか問うてみる。どんな反応が上がるか。要請に応じない者の心中を探ることになるだろう。全体のことを考慮しないという批判は出ても、それを超える想像力がなければ、道徳にはならない。

その目標は言霊となるか

2020年04月14日 | 教育ノート
 師と仰ぐ野口芳宏先生から直接聞いたお話には、ずっと心に留まっていることがいくつもある。この時期になると思い出すのは、ある学級目標の文言のことだ。教室前面の掲示には「すべてのことに一生懸命取り組もう」と書かれてあったという。これをご覧になった先生は、言葉が大事にされていないと言い切った。


 「すべて」の意味は当然全部であり、それは人間である以上到底無理なのである。もちろん、提示した担任教師の意図はわかる。常識的な範囲も理解できる。しかしだからといって安易にそうした文言を許すのは、言葉に対する冒涜なのだと師は仰った。問題は行動であり言葉は記号に過ぎないという考えには与しない。


 では、この場合どんな文言を選ぶのか。担任の意図を察すれば「様々なことに対して、手を抜かず、力を出し切って がんばろう」か。どこに焦点があたるかと言えば、きっと「力を出し切る」ことと予想する。それを短く熟語かフレーズで表したらどうか。「全力」だけでもいい。「力一杯」「パワー全開」も面白い。


 仮に「すべてのことに…」をそのまま掲げるなら、細かい砕きが必要だ。具体的には「この『すべて』は何を表すか」「『一生懸命』とはどんな姿を表すか」を子どもへ問い、答えられた言葉を生かしながら補足的なフレーズを決める。「学習も生活も、めあてを持って取り組む」「知恵と工夫を出し合う」などが出るか。


 それにしてもありきたりだ。いや仮によくある語であっても肝心なのは言葉に込める願い、考えだ。機会を捉え、その語に実践、活動を塗りこめていくのが実践だ。そうすることで目標は「言霊」となる…神憑りめいてきたか。何しろ我が日本は「言霊の幸(さき)わう国」。呪われた情報の渦から脱する信念を持て。

批判が頭上に下りてくる

2020年04月05日 | 教育ノート
 昨日書いた情報冊子の記事で目に留まったもう一つは、秋田大学の阿部昇教授の特別寄稿。内容は「PISA『読解力』15位の要因を探る」と題され、その原因について、今回新たに加わった「質と信ぴょう性を評価する」「矛盾を見つけて対処する」に関する設問の正答率が悪かったことを指摘し、改善点を述べている。


 阿部教授の文章は久々だが、以前からの主張と変わりない。つまり「文章や作品を評価したり批判したりする授業、そしてそれについて論議したり表現したりする授業がほとんどない」という内容である。従って今回の結果は、先生が尽力した「批判的読解」が結局根付かなかったという証左とも言えるのではないか。


 調査の目的や価値はさておき、大学教育のみならず小・中の教育に大きな影響を及ぼしているだろう阿部教授が、こうした見解を述べることを「敗北宣言」と捉えるのは大袈裟だろうか。「日本の教育の弱点を顕在化させてくれた」と前向きに結んではいるが、押しても引いても動かぬ岩があると感じるのは、私だけか。



 評価的・批判的思考の重要性、それらを具現化する学習法などの資料、書籍などは溢れている。しかしその情報を学校、教室いや社会として受けとめる素地があまりに弱い。「1世帯2マスク配布」に対する嘲笑、揶揄等より、この施策が作りだされる構造そのものに、多くが加担しているという評価を出来ないでいる。


 改訂学習指導要領には、文章や作品を批判的に読む要素が重視され、教科書にも学習頁が設定される。それ自体は喜ばしい。しかし使う側の意識が向けられない限り有効性は薄い。批判によって成立する生産性を自ら実感していない者にとっては難しい…ではオマエはやってきたのか、また自己批判で終わりそうだ。